2020.12.29
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

寂静なる年末年始を過ごすために

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第9回
訳・文:野村正次郎

広大なる功徳のすべてを究竟し給いて

微細な過失の発生源すら超克し給える

君よ その大慈の溢れだす場となれる

この悲痛の慟哭をしばしは聞き給わん

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弥勒仏が具足する如来の不共の功徳へと思いを寄せ、ここまでの詩偈で礼拝をしたが、本偈はそれを結び、次の偈から、自らの不徳を嘆き悲しみつつ告白するという形で弥勒仏に対する請願と礼讃とが続いていく。まずは前半では、弥勒仏が広大無量なる功徳を究竟させていることから、どんな小さく微かな過失ですらも起こりえないように超克している様子を表現し、後半ではそのような弥勒仏に呼びかけて、これから私、つまり弥勒仏の慈愛が注がれる対象である、この自分の不徳を正直に告白するので、その慟哭を聞き給えと嘆願している。

過去・現在・未来の三千仏のすべては一切衆生を利益する誓願をたて広大なる功徳を積集して、それをすべて完成させていくが、その功徳を積集し完成させていく、というこのことは、断つべき煩悩に対する対治と呼ばれる知を起こしていくことを意味している。

たとえば不殺生戒の功徳を得るためには、殺生せんとする動機を完全に退けなければならず、そのためには常に、すべての他者の生命を自己の生命よりも重んじる思いを決して失うことがない状態を実現しなくてはならない。このような思いが芽生え、その思いが決して退くことがなくなった時、その人は不殺生戒という功徳を究竟した、と言うことができるのである。同様に不妄語戒の場合でも、真実だけを語らなければいけないという思いが不動なものとなり、決して例外なく揺らぐことのない永続状態が実現した時にこそ、不妄語戒という功徳を私たちは心に得ることは私たちの心に生じることができる、といえる。

しかしながらそのような状態を簡単に実現することは出来ないし、実際には多少は罪業を犯すことも仕方がない、と妥協を許容する考えというものが自然と湧き上がってくるのも事実であり、寧ろそのような現実志向的な考えの方が、私たち自身もそして私たち自身の周囲にいる者も正しいと思いがちである。「嘘も方便というではないか。仏たちでも時には間違っていることを言うのも仕方ないし、衆生を導くためには間違ったことを教えることもあるのではないだろうか」といった思いを抱く者もいるだろうし、「正当防衛というケースや安楽死をさせる場合もあるので、社会の公衆衛生上、害虫駆除などの場合には、多少の殺生も仕方ないのではないだろうか」といった考えをもつことも極めて一般的である。こういった考えをもつ人に限って、「仏さまもすべては空であると説かれているので、一概に殺生を禁じるというこれは極端論であり、不殺生や不妄語などは世俗の真実として理想を説かれたものに過ぎない」と如来の教説を自分勝手に解釈してしまうものである。しかしこうした考えはすべて誤りであり、如来たちが虚言を述べることは一切ないのであり、如来たちが衆生を殺戮することなど一切ないということを正しく知らねばならない。

これを理解するためには、そもそも殺生をしたい、嘘をつきたい、という欲求は、私たちが生まれながら持っている煩悩のひとつであるということを正しく理解する必要がある。たとえば虎などの肉食動物は生まれながらにして殺生をして生活をする動物である。彼らは肉食動物なのであり、草食動物になることもないし、人間のように穀物を育て食料を保存することもない。彼らは獲物をみつけるために様々な厳しい自然環境のなかで生きていかなければならないのであり、獲物を捕まえて殺して食べることができなければ、飢えて死んでしまうので、獲物をもとめて何処までも狩猟をしつづけなければならない。同様に海中に住んでいる肉食の魚類であっても、生まれた瞬間から動物性タンパク質を食料とするのであって、海藻など食べるようになる訳でもない。しかるに生まれてきたその瞬間から、殺生をしたいという思いと生きていたいという思いは同一のものであり、肉食動物たちが日々の生活を反省して草食動物になれる可能性など皆無であるといってもよいのである。この事情は人間にしても同じであり、もちろん自分と同じ種族の人間同士殺して食べ合うこと他の肉食動物もしないのと同じであるが、様々な動物を殺戮し、それを食べて暮らすことは不幸の原因であると考えている人の方が少ないことも事実である。そしてこの本能的な殺戮欲求は、我々は無始以来有している先天的な煩悩であり、後天的に学習して得た欲求ではないのであり、私たちが煩悩を克服するということはこの生来の本能的な罪業を為そうという先天的な本能的欲求、それは「倶生起の煩悩」と呼ばれるが、それに対して、その対抗する感情をこれまで強烈に浸透してきた罪業を行いたいという欲求を圧倒的に上回る形で心に起こさなければならないということなのである。まずはこのことを理解する必要がある。

それでは、こういう場合には多少は殺すのも仕方ないし、嘘をつくのも仕方ない、という考えはこれは社会生活や様々な利便性を考えて学習して私たちが身につけている感情である。これは後天的なものであり、「分別起の煩悩」と言われるものである。たとえば正当防衛ならばいいのではないか、とか安楽死もいいのではないかとか、害虫駆除くらいならいいのではないか、と勝手に例外を想定し、自己中心的な発想によって罪業を正当化する。この罪業の正当化は、先天的な本能的欲求を退けるために百害あって一利もないものであり、倶生起の煩悩を強めるための手助けをしているのに過ぎない。社会の必要悪と私たちが読んでいるものはこういったものであり、こういったものが妥協するポイントを拡充するという妥協を続けることによって、この世界は悪意に満ちたものになっていくのである。しかるに修行者はまずは自己の考えを改めて、分別起の煩悩から断じていかなくてはならない。そしてそのためにはひとつひとつのケースを無限に想定しても際限がないので、倶生起の煩悩に対する対治の感情を強めることで、分別起の煩悩も断じることができる。

私たちが生まれつきもっている本能的な煩悩を断つことは簡単なことではない。しかし私たちが幸せに生きるためには、それらの煩悩を少しずつでも抑制していくしかないことも確かであり、その歩みは時には遅々としてなかなか進歩しなく絶望的な感情になる可能性もある。しかしながらそうした悲観的な感情は懈怠の一種であり、善業を実現することが一歩一歩進んでいくことを喜びとして、それに励んでいくことが善への精進なのであり、その努力を怠ろうとすべきではなく、私たちが無始以来の煩悩を克服するためには、ひとつひとつのことを丁寧に冷静に分析しなければならないのと同時にある程度楽観的である必要もあるのである。

いまからの百年前の二十世紀の前半には、人類は戦争という名の殺戮を繰り返した。しかしその反省から私たちは地球規模での協調や対話の大切さを学びつつ、世界をよりよい方向へと進化させることができてきたことも確かである。今世紀がはじまってまだ間もないが、いま世界は再び進化を遂げようとしていると楽観的に見ることも可能なのである。

今年起こった感染症の世界的流行は、果たして本当に世界を決して悪く悲惨な状態にしたのだろうか、といえばそうではない。感染症の流行は、世界をいままでよりも少しだけ、よいものへと変えている。これまでは無症状な人が無意識のうちに伝染病の媒介者となり、他人の生命を脅かす恐れがあることなど想像すらもしなかったのである。しかしいまそのようなことが実際に起こり得るという、常に私たちが自分の思考を思い直すための絶好の機会を得ているといえるだろう。これまで何も考えずにやり過ごしてきたことには様々な問題がありこれからは、毎日の自分の行動、他人との距離、他者との繋がり、本当に必要ではなく本当に急いでやらなくてはならないことは何か、そのようなことを考えて暮らさなくてはならないが、これは本来私たちが大切にすべきであったことには変わらない。地球環境の保護、世界的なレベルでの公衆衛生、世界的な保健の充実、人と人との関係、こうしたことにこれまで以上の細心の注意を払いながら生きるということをこの一年間で私たちは学んできた。それは確実に世界にとっても進化である。

この一年間でそれらのすべてを学び尽くすことができなかったことも確かであるし、いまだ未解決の問題も多くあるが、今年も一年が終わろうとしている。しかし決して悲観的になるべきではないのであって、少なくとも私たちは今年一年すこしだけ進化したのであり、その進化の続きはまた来年地味にゆっくりと取り組んでいけばよいだけのことである。一年を振り返って不器用な人類が、少しでもよりよい方向へ進化したということを振り返り、自分たちのやってきた今年の善業を随喜し、このちいさな歩みが未来において、すべての衆生の幸福の一助とならんことを願い、すべての悲しみと苦しみを超越した涅槃という寂静の境地に思いを寄せつつ、年末年始を過ごしたいものである。

誰一人いないヒマラヤの氷河の冬のなかで遭難しそうな年末年始を過ごすことを考えれば、穏やかな日本で自宅で過ごせることはかなり幸福なことである。

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