2020.12.14
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

文明の進化のために洞窟に暮らす

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第9回
訳・文:野村正次郎

蛮業の在家の生業に策略を巡らせて

非法行に溺れている穂頭は高く巨大である

空腹と襤褸を着用して聴聞と戒律を

生きる糧としている穂頭は低く弱小である

長期的な苦楽は決して同じではない いざ

9

今日私たちは文明社会に暮らし、未開文明の野生生活を営んでいない。それは一体何のためか、といえば、長期的な視点で俯瞰すれば、その生活形式の方がより幸福度が高いからである。

野生生活を営むことは、簡単ではない。たとえば、完全な自給自足を実現しながら、文明生活を送ることなど不可能であるし、たとえば湯を沸かすためにも、水を川で汲んできて、薪を準備し、発火しやすい物質を着火するために用意し、湯を沸かすための鍋も作らないといけない。そのような生活は日本では縄文時代から行われてきたが、毎日狩猟に追われ暮らすことがどんなに大変か、誰でも想像すれば分かる。未開人の野生生活は非効率的であり、無駄も多く、天気や運といった不可抗力に左右され、幸福度は低い、そのために生活環境を改善した文明生活を人類は築いてきた。縄文人の生活は不幸ではないが、より幸せになるために今日の21世紀は構築されている。

野生生活を営んでいる社会では、より多くの生物を殺戮し、群れに食料を提供することができる者がその群れでは価値をもっていた。何故ならば、そのような力持ちや荒くれ者は群れに対して大きな利益をもたらしてきたからである。そのうち、利発な小さく弱い子供が農作物を貯蔵することを発案し、火の側で温めていた稲の間の豆が発酵し美味しい納豆ができることを発見する。貯蔵した米だけでなく、野菜や肉を保存するために漬物や燻製の技術を開発する。このような開発が最初に行われていたときは、野蛮であることを誇りとする者たちからは、力もない狩猟もできない、一人前の人間でないと罵倒されただろう。しかしそうした罵声をもものともせず、創意工夫をすることで、より長期的な多くの利益をもたらすことができてきたのである。

本偈では衣食住を得るといった在家の生業ばかりに気に取られている者は、大きく背も高く、巨大な稲穂の先端のような頭をもっているとする。これに対して出家の生活を営んで如来と先人たちの偉大なる言葉を聴聞し、そこで定められている行動規範に従って生活する者は、顔も小さく背も低く、貧弱な稲穂の先端のような頭しかもたない。しかしいくら群れのなかで巨大な身体をもち、暴力に長けていることを誇っていたとしても、在家者は短期的な幸福しか実現できないのであり、長期的な視点で考えるのならば、出家者の方が一切衆生の救済という究極の幸福を実現できる。在俗の生活を離れて出家生活を送り、より文明的な生活を送る者は、短期的な視点で見れば、いつも腹を空かせて、襤褸しか着ていないかもしれないが、この人類という群れには長期的利益をもたらすのである。

釈尊が推奨した出家生活は、最高度に発展した文明生活にほかならない。しかるに釈尊が提案したその生活の形態に我々仏教徒はもっと関心をもつべきではないだろうか。我が国でも千利休という偉大なる先人が「家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは、俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。これ仏の教え、茶の湯の本意なり。」と述べているが、チベットの偉大なる学者たちも多くは洞窟で暮らすことを好み、多くの偉大なる著作は小さな洞窟で著されたものが多い。

私たちはいまある程度高度な文明生活を営むことはできてはいるが、この文明社会はまだまだ発展途上にあり、今後更なる真の進化の可能性をもっていることは明らかであろう。そして私たちがまだ発展途上にあり、この文明の更なる発展のために洞窟のなかで暮らそうとする人々がいまも存在しているというこのことこそが、人類の最大の希望なのであろう。

ジェ・ツォンカパが滞在された洞窟


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