2020.12.01
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

生きるために必要なものを考える

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第8回
訳・文:野村正次郎

生活必需品は順縁という名ですら呼ばれている

しかしそれは正法に背を向ける魔の誘惑である

過去の賢人たちは少欲知足こそを拠り所とした

貧しさに喘ぐこともなく二利の頂を極めてきた

短期的・長期的な損益を分析するがよい いざ

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着るものも食べるものも住む家も何ひとつ持たずに、私たちはこの世に生まれて来ている。人生という虚飾に満ちた生活をしばらくの間ここで過ごした後、また何一つもつことなく、死んでいかなくてはならない。何ひとつ持たずに生まれてきたからだろうか、何とかしてここで何かを得ようと必死になって私たちは生きている。さまざまな縁や他人のやさしさに囲まれて、幸いにして私たちは生きてこの世に暮らすために必要なものを得ることができる。それらはこの生を営むための「順縁」とも呼ばれ、それらがなければ暮らしを営むこともできないことも事実なのである。

日々の暮らしを営むためだけに生きるのであれば、それは人間でなくても、小さな虫たちですら行なっていることである。人間によって害虫であると見做されて罵倒されている虫たちも、毎日の生活のために一所懸命に暮らしている。できれば生活に困らないために、より多くのものを得ようとし、よりよいものを得ようとする。本来今日明日のその日を暮らすことができればいい、という実に簡単なことを実現しようとしていたのに、次第に今日明日を暮らすだけで満足できないようになる。学校や社会では、将来設計をきちんとしなければ、きちんとした大人にはなれない、と教えられるし、その日暮らしで満足している人は、社会的にも見下されてしまい、何か間違った価値観で生きているかのように罵られることすらある。こうして私たちは、その日暮らしで悠久の時を生きている威厳のある獅子のようにゆったりした生活から、はたらき蜂のようにせっせと働かなくてはならなくなる。

そんなことを考えているうちに段々と人生は疑問だらけになり、この世はちっとも楽しくもない場所へと変化してしまう。すべてが本末転倒になっているのではないか、もっと正しいあり方というものはないものだろうか、この世の真実は一体どこにあるのだろうか、そんな漠然とした疑問をもちながら、私たちは学問に志すようになる。しかしながら学問に志してみると他人より自分の方がより多くの知識やよりよい知識をもち、自慢をしたくなる者が殆どである。何かを学んで知るということよりも、こんなに沢山すごいことを知っていると自分自身を社会に承認してほしいという欲望に満ちてきて、学問をすることよりも、学問をしている自分を宣伝して、その報酬としてより多くの名声やより高評価をもとめるようになる。何か有名な賞を受賞し、何か有名な評判を得ることの方が大事になり、悦ばしき知性を求めていた純粋な学問的な態度は失われ、より多くの業績や高評価を得るという学問とはまるで逆の方向にある、現世利益そのものを実現することばかりを追い求めるようになるのである。そして自己矛盾を突き進めてゆき、最終的には死以外の何も選択肢のない状態へと向かっていく。漠然とした不安は何も解消されず、自らの知識や知性すら信頼できなくなり、自分のスタイルなど何もなくなってしまい、そのうち誰も相手にしなくなり、死神という魔の誘惑から逃れられなくなり、実に愚劣な一生が終わりを告げ、死んで灰となってそのうち風で飛んでいくだけとなる。

賢者というのはこれとは異なった一生を送っている。彼らは誰からも褒められる必要もないし、より多くのより高価なものを必要としない。日々の生活ができればそれで十分であり、その日暮しでもちっとも構わない。自分のために必要なことを最低限実現し、他人のためにできることを出来るだけ実行する。常に他人のためになることばかりをしようとしているので、そのことを素晴らしいと感じてくれる人たちが自然と助けてくれることになる。この生活を続けていくことで、たとえ死が終わりを告げようとも、そんなもんだと思うしかないのであり、何か過度な期待や不安ももたないので、死後の来世も安心である。現世利益ばかり考えてはいないからこそ、自分の小さな一歩一歩の歩幅が、遅々として進まないかもしれないが、自分にはその歩き方しかできないことを自分で受け入れるしかない。大それたことなどできないことをよく知っているからこそ、ひとつひとつ意味のあることを実現してゆき、最終的には仏の境地にまで辿り着くことができる。彼らが短期的な目標としているものは、今日明日のことではなく、少なくとも人類の未来や自分たちが死んでいなくなった後のこと、そして遠い未来のことをいつも考えて生きている。自分がいまいる場所は、何市の何処かということを考えるのではなく、この美しい地球という星の人類としていまここにいると感じることができる。今日は西暦何年でいまは何月何日であるということを考えるのではなく、過去・現在・未来という時のなかで現在を生きていると認識することができる。誰かに評価されることよりも、自分自身がいまどうあるのか、ということを自分自身で評価し、自分自身のあり方を常に問いかけながら暮らすことができる。愚劣な一生を終えるのではなく、何か少しでも賢く他者に役立つことはないのかな、そんなことを思いながら暮らすことができる。偽物の知識ではなく、本物の知性で生きようとし、相対的な幸せを実現することに悪戦苦闘するのではなく、絶対的な涅槃寂静の境地をもとめて時には犀のように孤独であるが、ゆったりと着実に一歩一歩を生きようとする。

無理をすることなく、貧しさに喘ぐことなく、自分が必要なことができて、他者のためにすこしでも役にたてる生の営為ほど尊いものはない。そのために今日という日をどのように過ごそうとするのか、これを毎日考えて暮らす人生は吉祥なものである。短期的・長期的な損益を分析することは私たちの経済活動の基本なのであり、私たちはこの世のためにどのように関わり、どのように生きようとするのか、ということを考えることこそが経済活動なのであり、私たちの経済活動の指針は少欲知足にこそある、このことを本偈は教えている。感染拡大のいまの状況で「経済を回す」ということは、他人に役立つことをひとりひとりの人がもっとするということだろうし、その利他の精神こそがこの問題を人類が終息を迎えるための鍵であるとダライ・ラマ法王も説かれている。

御饅頭は少欲知足の教えを説く仏教由来のお菓子である


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