2020.12.12
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

この世界が歓喜の微笑で満ち溢れるため

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第8回
訳・文:野村正次郎

御身と御言葉には錯誤という名前すらない

記憶を失うこともなく常に平等に入定する

差別や偏見は捨て 寂静へと等至し給える

君の所行は完全に円満で清浄なものである

8

救済せんとする意思を精進と信念を共にし

禅定と智慧により解脱へと常に向いている

この道から逸れるすべての機会を遠離した

君の証解はこの所以から無上なものである

9

三世のすべてを障礙なく通達なされてる

清浄な身体と御言葉と御心とその活動は

界の終末を迎えるまで衆生を利益する

この重責を歓喜しながら背負い給える 君よ

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本偈は弥勒仏のもつ功徳を礼讃して表現し、弥勒仏が私たちに示している救済が一体どのようなものなのか、ということを具体的に説いているものである。本偈は四行三聯よりなるものであるが、最初の四行で弥勒仏の所行が清浄であることを説き、次の四行で弥勒仏の証解が無上であることを説き、最後の四行ではそのような所行と証解を具足する弥勒仏は、身口意とその活動によってこの世界が終末を迎えるまで、衆生たちを永遠に利益しつづけと述べている。

私たちのような凡夫は不可抗力で他者を傷つけてしまう。道を歩けば、何の害もない可愛らしい虫たちを殺してしまい、話をすれば事実を歪曲し面白可笑しく語り、無駄話で時間を浪費する。相手の友情関係を壊してしまい、強烈な言葉を好む傾向から粗暴な言葉を使って、ことばの暴力を他者へ与えている。煩悩を完全に断じきれていない私たちは、どんなに気をつけていても、錯誤というものによって過ちを犯してしまう。しかし如来たちにはそのような錯誤は一切ない。行動をする時も、その言動も、すべてが必ず衆生を利益する行動や言動を行うことができる。

また私たちは自分たちの行動や言動をある程度統御できたとしても、常に記憶力は曖昧で、何かに集中しようと思ってもできない。やるべきことは延期し、自分にはできないと萎縮し、安定的に精神状態を一定状態に保つことが困難であり、禅定状態という集中状態を実現していない。しかし心を一点に集中させる禅定状態を繰り返せば、記憶は常に鮮明なものとなり、集中すべき対象に常に一定の集中状態を持続できるようになる。この禅定状態を究極まで進化させた心をもつのが如来なのであり、弥勒仏の禅定もまたそのような禅定を実現している。

また私たちは集中状態を持続できたとしても、誤った判断や評価を繰り返し、自己中心的な思考から逃れて現象の本質を直観することは稀である。常に好悪の評価を行い、自己本位な正邪の判断をし、差別や偏見ですべてのものを冷静沈着に分析しようとはしない。客観的にすべてのものを平等に見ながら、深く分析していくのならば、すべてのものが私たちの陳腐な価値判断や評価によって作り出した真実であるかのように思われるこのことが幻想であるということが分かるようになる。現象の本質を見つめ真実を達観し、自己中心的な思考形式を排斥することで、正しい智慧や叡智と呼ばれるものを実現することができるのである。この知性を究極にまで進化させた状態にあるのが如来であり、こうした如来の行動、言動、禅定と智慧からなる思考から発現した、すべての如来の活動は、どのような点からしても錯誤や瑕疵のない状態であるので、完全に清浄である。このことを第一聯では説く。

また如来たちは、すべての生きとしいけるものたちを自分の家族や兄弟のようなものであると考え、いついかなる時でも彼らを受け入れ、彼らのためになることをしたいという強靭な決意と意思の持ち主である。このような意思をもつ者たちは、常に衆生を利益することへの努力を尽くすことを喜びとして、ひとつひとつの精進は必ずや衆生を利益せんという信念に裏付けされ、決してやるべきことを忘れたりはしない。衆生利益という活動に全勢力を捧げており、その集中状態を維持しながら、決して誤った思考に執われてしまうこともなく、一心不乱にすべての苦痛を断じた解脱へと心は向き合っている。そしてその決意は、いつ如何なるときも、正しい道から逸れてしまうこともなく、道を違えてしまうようなすべての可能性を退けているのである。だからこそこれよりもこちらの方がよりいいといったような相対的な卓越性をもつのではなく、道を外れるすべての選択肢が全く存在していない、ということから絶対的に無上な覚りを実現しているのである。

本偈は弥勒仏の身口意と活動を形容するもの、すなわち弥勒仏がどのように行動し、どのような発言をし、どのような思想をもち、私たちにどのような救済を与えているのか、ということを示すものであるが、末尾では、そのことを歓喜に満ちている情景を描くことでジェ・ツォンカパは結んでいる。如来たちはどんなことがあろうとも一切の苦しみを感じることがなく、すべての苦しみと悲しみを超克し、歓喜の微笑で我々にはたらきかけている。私たちは日々小さなことに一喜一憂し、常に笑顔で歓喜に満ちた状態を他人に見せつづけることができるだろうか。他人を幸せにしたいという慈愛の象徴であり、いまは歓喜の宮殿に住んでいる弥勒仏の歓喜の微笑は、私たちがどんな時でも真の笑顔で微笑みかけながら、他人に接して、この世界をひとつでも多くの真の笑顔と慈愛で満ち溢れたものであるとすることが如何に大切なのか、そしてそれこそが真の救済であると教えるものだろう。

デプン大僧院の弥勒仏の表情は歓喜の微笑で見るものすべてを解脱させる


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