2020.11.30
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

最勝なる法輪へと集うものたち

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第7回
訳・文:野村正次郎

驕慢にみちた 世間の祖父 梵天

弓箭の持ち主 沙門や婆羅門たち

彼らの誰も語り得ない最勝なる輪

これを転じ衆生を慈しみ救済する 君よ

7

黄金でできた巨大な輪、それは地上の最強の武器であり、それを保有する王はすべての世界を支配する転輪聖王である。如来が転じる法輪とは、すべての煩悩を払拭し、衆生の心を魅了して支配する。この妙なる法輪を転じることができるのは仏位を成就した者だけであり、世界を創造した梵天であろうとも、弓兵を束ねている神々、修行者、婆羅門たちであろうとも、如来以外の誰もこの法輪を地上で転じることはできない。転法輪は如来のみが行える不共の偉業であり、その偉業を未来において、釈尊の後継者としてこの地上で弥勒仏がなすことを本偈は描いている。

釈尊の転法輪が初転法輪・中転法輪・後転法輪と呼ばれるのに対し、弥勒仏の転法輪は、初会・第二会・第三会と呼ばれている。釈尊と同じように弥勒仏もまた地上へ降臨し、実際にどのように仏になるのかを衆生たちにブッダガヤの竜華樹の下で示現した後、釈尊と同様に四十九日間説法しないで沈黙を保つこととなっている。その様子を見た梵天は、かつて釈尊に対して為したのと同様に、弥勒仏に対しても、無上なる捧げものを献上し「至尊弥勒よ、どうか無上法輪を転じてください」と転法輪の勧請を行うこととなる。弥勒仏はそれに応えて法輪を転じることを約束し、美しい花の咲き乱れる華林園と名付けられた楽園へと神通力をつかって移動する。その光景を眼にした神々や、四千八十人の地上の王たち、修行者たちを含めた無数の生物は弥勒仏の従者となりすべて出家して、法輪が転じられる場へと参集してゆく。かつて釈尊が起こしたのと同じような奇跡がその地上で起ころうとする時、その聴衆の中心は九億六千万人の阿羅漢たちであり、彼らを筆頭とする無数の衆生たちのために、弥勒仏の初会の転法輪が行われる。第二会には九億四千万人の阿羅漢たちが、そして第三会には九億四千万人の阿羅漢たちが筆頭の弟子となるが、こうして弥勒の転法輪は三会開催されるのである。

弥勒仏が説法をされる時、十方へ放たれるその眩しい光明が、日光や月光を圧倒する。その明るさゆえに、地上には弥勒光から発せられる永遠のやわらかな光より明るいものはなくなってしまい、永遠の歓喜に満ちあふれ、一切の闇が消えさってしまい、昼も夜もなくなってしまう。昼と夜の明暗がなくなってしまったので、人々は花が微笑みかけ、鳥たちが鳴いている時を昼と呼び、人間たちが互いに慈愛のことばを交わして語りあう時を夜とする。

弥勒仏を囲む会衆は釈尊の僧伽と同じように清浄な戒律を遵守し、午前街へと托鉢へと向かう。彼らが行く道は、常に帝釈天や梵天など神々たちが待ち構えており、神々しか眼にしたことがない、美しい宝石でできた供物を捧げてゆく。弥勒仏たちはどこへ行こうとも、常に宝石でつくられた玉座で迎えられ、なめらかな織物がその道に敷かれている。すべての生物たちが道の両脇で如来を礼讃する美しいことばだけを発し、美しい歓喜に満ちた転法輪は約六万年の間続いていく。

私たちが人類の未来に目撃するこうした弥勒仏の転法輪は、随分と遠い未来のことであるからだろう。時にはいまはまだ絵空事のように思う人もいるし、釈尊がその光景を語られたけれども、すぐにはその授記の意味を受け入れられない人たちがいることも確かである。如来たちが衆生に説く法輪はいつもすべて同じひとつのことを目指しているのにも関わらず、未来に弥勒仏はどんなことを語ってくれるのだろうか、と何か特別なことを過度に期待する人もいるだろう。

そんな貧しい考えしか持てない不肖の釈尊の弟子たちのため、弥勒仏は、既に将来説くであろう転法輪の核心を事前に示してくれており、これが「弥勒の五法」と呼ばれるものである。弥勒の五法は、釈尊の転法輪の中心である般若経の注釈『現観荘厳論』、大乗経典のすべてをまとめた『大乗荘厳経論』、無我を現観して解脱するための止観の実践法を個別的に示した『中辺分別論』『法法性分別論』、一切智へと至るためには、龍樹が説いた通りに究極的には乗は一つであり、一切の戯論を離れた縁起と空性を、心性本浄論における自性清浄心という中観の思想を説く『究竟一乗宝性論』という五つの聖典で構成されている。弥勒仏はこれらの五部の法を無着に託すという形で、既に我々に与えてくれている。弥勒仏が所化とする者は、決して私たちのような釈尊の不肖な弟子たちではないのであるが、後任者としてその転法輪の場には、釈尊の弟子の残党を必ず救済することを既に約束してくれており、だからこそ大乗の教えを奉じる私たちはすべて弥勒仏とは特別な関係にあるといってよいのである。

チベットの僧院の仏殿の正面の屋根には法輪の荘厳がなされている。その法輪の両脇にはいつも二頭のつがいの鹿が静かに佇んでいる。鹿は普段は用心深い生き物であるが、この二頭のつがいの鹿は、決して眼を閉じることもなく、如来の言葉へ耳を澄ませ、耳を傾けている。これは転法輪の場が安心と歓喜に満ちていることを物語るものである。

法輪が転じられる場には、すべての煩悩を払拭する最強なる智慧の光明が常に満ちているのであり、その圧倒的な力と同時にすべての生命が互いに慈しみあっている歓喜の抒情に満ち溢れているものである。弥勒仏は既に『現観荘厳論』で「発心とは、他者を利するために、正等覚を求めることである。」と定義している通り、法輪が右回りに静かに転じられるその動力は、自己よりも他者を優先する無上の菩提心にほかならない。そしてすべての法輪とは、有漏の一切はすべて苦しみであり、すべての有為は無常であり、一切のものは無我であり、涅槃は寂静である、というこれを常に語っているものである。

デプン・ゴマン学堂の大集会殿を荘厳する法輪と番いの鹿


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