2019.07.30
མཛོད་ཡིག་ཆ་ལས་སྒྲའི་སྐྱེ་མཆེད་ཀྱི་མཚན་ཉིད་དང་དབྱེ་བ།

倶舎論における声の分類

声処の定義と分類
GOMANG ACADEMY 倶舎因明研究会 報告

定例法話会ではジェ・ツォンカパの代表作である『菩提道次第広論』と『学説規定摩尼宝蔓』の両方を一般向けに解説しているが、声処の分類について、若干翻訳にも混同が生じていたので、ここで訂正をかねてクンケン・ジャムヤンシェーパの『倶舎論考究』から声処の分類について少し考察しておこう。

まず現在我々が定例法話会で学んでいる『学説規定・摩尼宝蔓』における該当箇所の改訂版の翻訳は以下の通りである。

一般に声を分類すれば、有執受声・無執受声の二つが有る。前者は例えば生物が発する声である。後者は例えば水の声である。有執受声・無執受声の各々に有情表示声・有情非表示声の二つずつ有る。有情表示声・語表声・能詮声の三つは同義である。有情非表示声・非語表声・非能詮声の三つは同義である。仏語・論書の両者は名句文の集合体と同体である声普遍という不相応行であると承認することから、この教義では物質・不相応行は非対立項であるようである。

『学説規定・摩尼宝蔓』毘婆沙部章

『阿毘達磨倶舎論本頌』における声処

仏教では物質(色蘊)には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識という五根のそれぞれの把握対象であることによって、色処・声処・香処・味処・触処という五処、および無表色という三種類があるとされている。

शब्दस्त्वष्टविधः (10b) 

声は八種である。

『阿毘達磨倶舎論本頌』(I, k.10)

これらの分類は私たちが一般に捉えている物質や現象とは異なった視点から分類されているものが多いが、我々はこの分類を知らなければなかなか仏教で説かれている世界観や物質観を理解することは困難である。

声処の定義

まず『倶舎論考究』声処というものは次のように定義されている。

声処の定義は有る。耳識の所取対象、これがそれであるからである。『集論』では「声とは何かいえば、四大種を因とした耳根による所取対象のことである。」(1)と説かれるからである。

『阿毘達磨倶舎論本頌』そのものには、声処の定義については、直接語られてないので、ここでは『阿毘達磨集論』の定義が援用されているが、近年『阿毘達磨集論』については、阿毘達磨集論研究会によって「梵文和訳『阿毘達磨集論』(1) 」『インド学チベット学研究』No. 19, 2015としてその詳細が発表されているので、『阿毘達磨集論』における声処についてはそちらを参照されたい。

声の発生源の状態による分類

声、有法。根本分類すれば、二つが有る。感官によって執受された大種、もしくは執受されていない大種を因とした二つの声が有るからである。定義基体は拍手の声、森林の声である。『称友疏』では「現在の大種が感官と別異ではなくはたらいているものが執受であり、それ以外のものは非執受である 」とある。(2)

音声とは、他の物質(色蘊)と同じように、四大種(地・水・火・風)によって形成されているもの、すなわち「大種所造」であるが、その四大種が音声の発生する者の感官によって捉えられており、その人格によって発生される音声を「有執受声」と呼んでいる。

たとえば、拍手の音がその具体例としてあげられるが、拍手の音というのは身根によって捉えられている物質が振動することによって生じたものである。これに対して、たとえばこれに対して森林の音は、自然と風と枝葉とが揺らぐことによって発生したものであるが、その木々の枝葉や風のそのいずれもが人格的な存在によって捉えられているものではなく、それは自然発生したものである。それ故にこれは「無執受声」と呼ばれる。

ここで音声を分類する際に、その分類の観点の中心にあるのは、ある音が衆生の業によって発せられた時に、その衆生自身の所有する物質を形成する元素が、衆生自身の身体的要素と別のものから発生したのか、どうかということにある。

佐伯旭雅の冠導本では「声の体は知り難く、因について相を弁ず」と注記されているように、音声自体の分類は、音声自体の区別は知りがたいので、その発生源となるものが、その音声を形成する物質を保有した状態なのかどうか、ということで分類されるのである。

佐伯旭雅編『冠導阿毘達磨倶舎論』

声が言語表現であるのか否か

それ(声)、有法。各分を分類すれば、四つとなる。有執受・無執受の二つの各々に有情であることを表示するもの、すなわち有情であると表示する声と、有情であると表示しないとの二つずつあり、四つあるからである。

有執受声・無執受声という分類は根本の分類であるが、それをさらに語表(言語表現)の音声なのか、どうかということで、有情であると表示する声・有情であると表示しない声とに分けられる。

この分類についてジャムヤンシェーパは次のように説明している。

そうなる。「有情であることを表示するもの・有情であることを表示しないもの」ということの意味を、或る者は「有情に数えられるもの・有情ではないと数えられるもの」のことであると述べ(3)、その意味は「有情の相続から発生したもの・発生していないもの」と解釈するが、これは不適切であるからである。『称友疏』では「有情有表・有情無表とは、語表声(vāgvijñaptiśabda)か否かということである」と説かれる(4)からである。またこれが阿闍梨の真意である。というのも『自註』でも「有情表示とは語表声のことである。それ以外のものは有情非表示である。」と説かれる(5)からである。また〔ディグナーガは〕『要義灯』(6)もこのように説いているからである。

有執受・無執受という分類をさらに言語表現か否かで分類したものが有情表示(sattvākhya, སེམས་ཅན་དུ་སྟོན་པ་ 有情名)・有情非表示(asattvākhya, སེམས་ཅན་དུ་མི་སྟོན་པ་非有情名)と分けられるとする。「有情であることを表示する声」「有情を語る声」に関して一部の学者は、生物が発した声かどうか、という解釈するが、これは倶舎論の意図するものではないとする。そしてこの分類は「語表」(ངག་གི་རྣམ་པར་རིག་བྱེད་)であるとする。

ジャムヤンシェーパの『倶舎論考究』では第四業品では「語表」は次のように定義されている。

語表、有法。その本体が有る。唾などの形状の物質でもなく、名称の集合でもないのであって、語の本性である音であるとするからである。満増によればそのように説かれ『称友疏』でも「語を本質とする音声、すなわち文字を本体とする音声のことである」と説かれている。

མཛོད་ཡིག་ཆ་གནས་བཞི་པ་༨བ༢

「語表声」は音声であるが、それが何故「表」(vijñapti)と呼ばれるのか、ということについて、ダライ・ラマ1世ゲンドゥン・ドゥプは

「なぜ“表”と言うのか」と問うならば、自分の動機を〔外部に表して〕他者に知らしめるので「表」と言うのである。

現銀谷訳(2017,295)

と述べられているように、音声もまたある動機によって作り出された業であるので、「語表声」とは、身表業と同じく「有表業」のひとつに分類されるのである。

快適な声と不快な声

さらにこれらを快・不快によって合計八種類の音声というものが有るとされるのである。

それ(声)、有法。細支で分類すれば、八つある。有執取声で有情表示のものには、快(可意)・不快(不可意)の二つ、無有執取声で有情非表示のものには快・不快の二つで四つがあり、かつ、無執取声で有情表示にも快・不快の二つ、無執取声で有情非表示にも快・不快の二つで四つがあり、合計八つあるからである。第一証因は成立している。人が歌を唄っている声・人が悪口を語る声、人が笛を吹く音・人が殴る声、というこの四つがたとえばそれであるからである。第二証因は成立している。化作者が説法する声、化作者が悪口を語る声、鼓の声、水の音、というこの四つがたとえばそれであるからである。

或る者は「有執受でもあり、無執取でもある音は、たとえば手で叩く太鼓の音のようなものがそうである」と主張し、これは『集論』と一致するが、この阿闍梨(世親)は否定している。

まずは八種類の音声の分類と具体的な例をまとめておくと次のようになる。

  1. 有執受 有情表示   快   ex. 人が歌を唄っている音声
  2. 有執受 有情表示   不快  ex. 人が悪口を語る音声
  3. 有執受 有情非表示  快   ex. 人が笛を吹く音声
  4. 有執受 有情非表示  不快  ex. 人が殴る音声
  5. 無執受 有情表示   快   ex. 化作者が説法する声
  6. 無執受 有情表示   不快  ex. 化作者が悪口を語る声
  7. 無執受 有情非表示  快   ex. 鼓の声
  8. 無執受 有情非表示  不快  ex. 水の音

まとめ

以上がクンケン・ジャムヤンシェーパによる『阿毘達磨倶舎論』における声処の分類である。この分類はヴァスバンドゥが『阿毘達磨倶舎論』でどのように毘婆沙部における声処の説明をしているのか、ということに基づいたものである。しかし、ジャムヤンシェーパは以上の解説はあくまでも毘婆沙部の学説として提示しているのに過ぎないのであって、毘婆沙部の教義としては有執受でも無執取でもある音声というものは、認められないとするが、経量部以上の学派に関しては、その両者であるものを認めている。

仏教では音声が問題になるのは特に能詮声と呼ばれる指示対象を表現する音声であり、これは具体的には言語哲学的な様相をもっている。特にディグナーガ、ダルマキールティの論理学を継承しているチベットの阿毘達磨学・言語論は以上のような音声の定義や分類にとどまるものではなく、はるかに複雑で哲学的である。これについてはまた別の機会に紹介したいと思う。

注釈   [ + ]

1. Adhidharmasamuccaya, I; śabdaḥ katamaḥ. catvāri mahābhūtāny upādāya śrotrendriyagrāhyo yo ‘rthaḥ.
2. AKV I; pratyutpannānīndriyāvinirbhāgāni bhūtāny upāttāni / anyāni anupāttāni /
3. 『阿毘達磨大毘婆沙論』;有情數大種因聲。非有情數 大種因聲。
4. AKV(Y); sattvāsattvākhyaś ca iti, vāgvijñaptiśabdas tadvyatiriktaś cety arthaḥ.
5. AKBh; sattvākhyo vāgvijñaptiśabdaḥ, asattvākhyo ‘nyaḥ .
6. ディグナーガの著した倶舎論要義。ཆོས་མངོན་པ་མཛོད་ཀྱི་འགྲེལ་པ་གནད་ཀྱི་སྒྲོན་མེ། Abhidharmakoṣavṛtti-marmadīpa, TD No. 4095, nya 98a2; སེམས་ཅན་དུ་སྟོན་པ་ནི་ངག་གི་རྣམ་པར་རིག་བྱེད་ཀྱི་སྒྲའོ། །གཞན་ནི་སེམས་ཅན་དུ་སྟོན་པ་མ་ཡིན་པའོ། །