公開シンポジウムにおけるダライ・ラマ法王による結語


作成日: 2015-11-14 最終更新日: 2016-09-25 作成:野村 正次郎

チベットの独自の言語や文化は現在困難な状況にある

 まずはチベット研究者のみなさまに深く御礼を申し上げたいと思います。みなさまはこれまで多くの時間を使い、大変な労力をかけて、こうした業績を成し遂げてこられました。私はまずは六百万人のチベット人を代表させて、みなさまに深く感謝し、みなさまに御礼申し上げます。

 私たちは、これまでどのようにして私たちの豊かな文化を保存するのかということに深く関心を持ってきました。現在のチベットでは、現在はある特定の政策にあります。正直に申し上げますと、中国の強硬派の人たちでさえ、私たちチベットの独自の言語や文化は、分離独立したチベットのアイデンティティーであることは認めています。彼らはそのことが中国全体から分離独立してしまう原因となるかも知れないと危惧しています。

 しかし、私はいつも中国の政府関係者をはじめ、民間の実業家などや、中国メディアの関係者にたちに、さまざまな機会で次のように会って語っています。
 それはインドを見てください。西インド、東インド、南インド、北インド、それぞれの地域で様々に異なった言語と精神性を使っています。しかしながら、それにもかかわらずインドの民衆は自分たちは平等だと思っています。彼らは「インド」という統一はすべての人々にとって有益だと思っています。だからこそすべての人たちが喜んで「インド」という枠組みのなかにそのまま留まろうとしています。これと同じことが中国の中でも行われればいいのです。人々を扱えばいいのではないでしょうか。異なった言語で話し、異なった文化や社会制度をもっている民族がいます。もしもそれらにきちんと敬意を払い、彼らの平等な待遇をすればいいのです。そうすれば言語や文化そのものが分離独立の原因となることなどないのです。

 私たちチベット人は自分たちの豊かな文化について深く関心をもっています。〔特にチベット研究者の〕みなさんはチベット文化、そして主にチベットの仏教文化にそれらに非常に真摯な関心を有して居られるのです。

ナーランダー僧院の純粋な継承者であるチベット仏教

 この五十年、私はさまざまに異なった仏教国の異なった伝統にある仏教徒たちと接触してきました。そのことから私が気付いたのは、私たちのチベット仏教がナーランダー僧院の伝統の純粋な法統を受け継いでいるということです。

 残念ながら、もちろん私たちのチベット仏教の僧院の中には、特定の儀式や儀礼などだけに関心をもっており、教義の学習に無関心な僧院もあります。しかし私はそういう形での僧院というのは、時代遅れだと語ってきました。

 いま私たちは二十一世紀にいます。仏教を受け入れているかどうかはあくまでも個人の自由ですが、仏教を受け入れる限り、必ず教義を学ぶ必要があります。仏教とは一体何なのか、これを学ぶことからはじまるのです。ですので仏教を信条として持つ人たちに対しては、「私たちは二十一世紀の仏教徒になるだ」ということを強調したいと思います。

あなたは若手研究者のは「二十一世紀の仏教徒」になろうとしています。これは素晴らしいことだと思います。そしてみなさまのこれまでの業績について感謝しています。

 私自身は自分のことを学生だと思っています。ナーランダー僧院の伝統にあるひとりの学生です。そして同時にそれ以外の様々な分野のことでも学生だと思っています。もう私も年老いて八十歳にもなるところですが、研究者のみなさまからの新しい研究報告を聞くと、私はまだまだ若い学生なんだなと感じます。常に新しいことが沢山聞けますし、そこ学ぶことが多くあります。ですからみなさまのお仕事には深く感謝申し上げます。

仏教のもつ「心の科学」という側面

 また別の観点からお話をさせていただきたいと思います。それは一人の仏教僧としての観点からです。そして基本的な人間としてです。

 すべての人間、すべての人類の構成員たる私たちは、必ず人類の幸福ということを考える必要があります。科学技術は私たちの物質的な快楽を多大に助けてくれます。しかし精神的な快楽についていえば、それをテクノロジーが心の平和を提供することなど不可能なのです。
 物資的な観点からいえば、私たちの脳内の中で感情を作る部分を取り除くまで心の平安が訪れる訳ではないのです。また同時に知性そのももの、私たちの心の平和の妨げとなってしまうことがあります。知性を正しい方向に向かわせれば、それは充足感や達成感などの源となりますが、逆に知性を破壊的感情に結びつけるのならば、知性は問題の発生源そのものになってしまいます。このことは明らかです。ですから機械では感情をコントロールすることなどできないのですし、心をトレーニングするしかないのです。

 そして心をトレーニングして、知性を活用するために、私たちは心それ自体が一体どのようなものなのかということを知る必要があります。心それ自体を知ることなしには、何もできないのです。例えばある種の穀物や薬を収穫したいと思えば、まずはその土壌を知る必要があります。その土壌にはどのような肥料が必要なのかを考えなくてはいけません。どの程度の水分が必要なのかを考えなくてはなりません。その上でそこに育ち得る何かを適切に植えるのです。これと同様に私たちが自分たちの知性をポジティブに活用するためには、私たちは心や感情というものが基本的にどのような性質なのかということを知らねばならないのです。このことを私は「仏教心理学」とか「心の科学」と呼んでいます。そしてこれは極めて重要なものです。

いまはアメリカのリチャード・デイビッドソンをはじめとする神経学者、脳科学者、教育学者といった多くの科学者や仏教心理学や心の科学について興味を示しています。

ですので近年私は、仏典の中から心について書かれているものを抜き出すといった仕事に関わっています。それが間違っているか正しいのかということは別として、仏典では心や感情というものがどのように記されているのかということをそのまま集めているのです。三百巻近くあるカンギュルやテンギュルから既に第一集として、極微論や原子論なども含まれていますが、仏教の科学、心の科学についてまとめることをしました。

量子力学と似ている仏教哲学

そして次のパートとして仏教哲学があります。

今日もここで中観思想などについて議論がありましたが、いかなるものも縁起していない独立した存在はないという中観思想を知るために、量子物理学というのは極めて役に立つものです。

量子物理学と中観思想のコンセプトは同じものです。それらはお互いに似通っていますし、理解を相互に補助するものです。それは素晴らしいものですし、これは第二の哲学的側面です。思うにどんな人でも量子物理学が宗教だなんて思ったことはないと思います。これは科学そのものですし、存在の本質を究明する科学に他なりません。

宗教としての仏教/伝統を継承することの大切さ

そして第三のパートが、いわゆる仏教というものなのですし、これは仏教徒には重要な問題です。日本は伝統的に仏教国ですから仏教に関係しています。今日は西洋人の方もおられますが、西洋人のみなさまは伝統的には仏教徒ではありませんので、ここにはあまり関係していません。

私は西洋でお話しをするときにいつも言うことですが、それぞれ独自の伝統的な宗教を持っている人たちは、自分たちの伝統に従う方がより良いですし、より安全だと思います。信仰を変えるということは時には大きな問題をつくりだしてしまうことがあります。

一例を挙げますと、三人の子を持つあるチベット人の女性がいました。彼女は一九五九年にインドに亡命しました。私たちが亡命した最初の頃でしたので、チベット難民たちには道路工事の仕事しかありませんでした。この時は大変困難な状況にありました。彼女の夫はチベット政府の公務員でしたが、すでに亡くなっていました。ですので小さな子供を三人も抱えてとても大変な状況にあったのです。一九六二年頃でしたが、彼女は私の所に会いに来て、その困難な状況を私に説明してくれました。そしてその時彼女は、キリスト教の宣教師たちから支援を受けていることを語ってくれました。当時のカトリックやプロテスタントの多くの宣教師たちは難民支援のために大変な尽力をしてくれていました。彼女もまたその支援を受けていて、特にキリスト教宣教師たちによる子供の教育支援がとても助けになっていたので、彼女は今生ではキリスト教徒になったが、来世ではまた仏教徒になりますと言っていました。しかし客観的に考えると彼女は混乱していますよね。信仰を変えるということはこう言った問題が起こる可能性があるわけですし、通常はそれぞれの自分が持っている伝統をそのまま維持していく方がいいと思われます。

宗教としては仏教ですが、仏教心理学と仏教哲学という二つの側面について言えばこれは実際には学術的な議論なのです。そしてこの学術的な議論は、普遍的なものを取り扱っていますし、その内容も普遍的なものとなり得るのです。

宗教の枠組みを超えて現代社会の精神の危機に貢献する仏教思想

そして今の時代に私たちが直面している多くの問題が、精神的な危機によって発生していると言えます。精神的な苦痛によって凶暴な犯罪者が出たりしていますし、私たちの社会では幼稚園から大学生のレベルまで、精神面での教育が必要になっています。私たちの心や感情について、それらいかなるシステムなのであり、如何なる機能を持っているのかということについての完全な知識というものが必要になっているのです。

この数十年間、私たちはそれを「超宗教的倫理」(secular ethics)と呼び、特定の宗教上の教義に基づかない、精神的な進化について考え、その教育にも取り組んできました。仏教に関する学術的知識はこの分野に特に役立つものであると思います。特に私たちの破壊的な感情の取り扱いについて役立つものであると思います。そしてそれは超宗教的な知識や方法として役立つことができるのです。私たちはこの分野で大きく貢献できることがあると思います。

特に若手の研究者のみなさま方はこれからだと思います。そして私を含めてそちらの古株のみなさま、私たちは二十世紀に生きた世代です。しかしその時代はもう過ぎ去ってしまいました。私自身の場合にはすでに八十年も経ってしまいましたが、最大でもあと二十年くらいでしょうかね、そろそろ時が来れば、みなさんにさよならを言わなくちゃいけません。それも永遠のさよならです。

ですが若手研究者のみなさまは、物質面でも精神面でも両方とも、より健康な人類の社会を構築することができる可能性を持っておられるのと同時にその責任を持っておられます。こうした方法を通じてこの二十一世紀が平和な世紀とすることができるのです。平和な世紀を作り出すために必要なのは、私たちの心の中のやさしさや慈悲と付き合っていなくなくてなりません。しかもそれは宗教的な方法として、来世のためや天国に行くためとか、神道のように祖先に会うために慈悲を実践しましょう、ということではないのです。もっと単純に健康な体をつくるためには、健康な心が必要となるという話なのです。怒りや恨みといったものは免疫障害を起こす可能性があると科学者たちはいっています。心の平和は健康な体を保つためにはとても大切なのです。私たちが心の平静の必要性を説くのは、来世のためであったり天国に行くためではないのです。この今の現世で健康な体で気持ちを落ち着かせ、幸せな家族生活を送り、離婚することない幸せな結婚生活を送るためなのです。これらのことは私たちの感情に関係していることなのです。

例えば結婚生活も間違って続いているようなではないものことは、心の健康に基づくものです。

ある私の外国の友人は最初にその国を訪問した時、二、三年後に訪問した時、そしてその次に訪問した時、それぞれすべて別の女性と結婚されていましたが、感情というものは大事なものです。幸せな結婚生活にとっても、心の平和というものはとても大事なことなのです。そして家族が健康であるために、近所付きあいが幸せなものであるためにも、そして我々は社会的な動物ですので友人や人付き合いというものが必要なのです。本当の友情というものは信頼関係のみによって生まれるものです。信頼があるから友情というものが生まれるのです。そして私たちは社会的な生物ですので、見せかけの友だちではなく、信頼できる友だちというのはとても大切なものなのです。大学の先生たちにはもちろん見せかけの友だちもいるとは思いますが(笑)、リーダーや政治家には見せかけの友だちも必要ですが、そういうのは長続きはしないものです。

本当の信頼関係に基づいた友情というのは、正直である事や本当のことを語るということはとても大事なことなのです。そしの上で相手の幸せを真剣に考えるのなら、信頼というものが生まれるでしょう。自己中心的な考えを持ち過ぎれば、本当の信頼関係というものを築くことなど非常に難しいです。

豊潤なオリジナルなソースへ、そして人類の発展のための教育研究

私たちはナーランダーの伝統を持っていますし、ここでも言及されたように「ラマ教」という表現が昔はありましたが、これは間違った言葉です。チベット仏教は明らかにナーランダーの伝統を引き継いだものです。八世紀にシャーンタラクシタがチベットの皇帝から招聘されたことからも明らかです。七世紀、八世紀、九世紀にはチベット、中国、モンゴルという三つの王国があったことも明らかです。

シャーンタラクシタ自身がナーランダー僧院出身の最も有名な学者であったこと、そしてナーガールジュナに従っていたことは明白です。彼はチベットに招かれてチベットに来て、パドマサンヴァバの助けも借りながら、仏教をチベットにもたらし、仏教をチベットに紹介したのです。

シャーンタラクシタはチベット仏教の教えのはじまりなのであり、また戒律の伝統のはじまりなのです。彼が説いた仏教は、彼自身が学んできたナーランダー僧院の伝統に基づくものなのです。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、カダム派、チョナン派といったこれらのすべてのチベット仏教の伝統のオリジナルなソースはナーランダーの伝統によるものです。このことからもチベット仏教とはナーランダーの伝統であるという思い描くことができるのです。

今朝も私は冗談半分で申し上げましたが、時代とともに私たちチベット人ですら、我々の伝統の出処について気にしなくなりました。自分たちの宗派で使っている儀式や伝統的なテキストにしか興味を持たなくなった人も多くいました。それでカギュ派・ニンマ派・サキャ派・ゲルク派、赤帽派、黄色派、黒帽派、そしてボン教徒は白帽派、ですので私は冗談で「私は緑帽派でも作ろうかな、なぜなら環境はとても大事なものだからです。」といったんです。しかしこんな考え方はとても視野が狭いですし、実にバカバカしいんです。私たちはオリジナルのソースへと向かわなくてはいけません。そしてそれがナーランダー僧院の伝統ということです。そして私たちは多くのソースを持っています。そしてそれらは明らかに人類の幸福に貢献できるものです。しかも宗教としてではなく、科学や哲学という分野で貢献できるのです。

こうした思いが私がチベット学・チベット仏教の研究者のみなさま共有したいものですし、これに取り組んでいきたいと思います。

これからもみなさまは一つはご自身の研究活動を継続してしてくださり、それと同時に私たちは人類の発展のためにどのように貢献したらいいのか、どのような貢献ができるのか、特に教育を通じて人類がより幸福になるためにどう貢献できるのか、そういったことを考え続けて頂きたいと願っています。

どうもありがとうございました。