2015.01.25

小乗阿毘達磨蔵要義名目・序〜学説規定

勝者(仏陀)と勝者の息子(菩薩)との唯一の父たる智慧の宝庫(文殊菩薩)よ
彼の勝者の最上の母たる妙音仏母よ
勝者の御旨の通りに解説する〔私に〕
勝者たるツォンカパと同じ瑞兆を下さいますように(1)C.,T.本はrgyal ba tson kha pa mtshungs dge legs stsol.S.本ではrgyal mtshungs btsong kha pa yis dge legs stsol.となっている。翻訳はC.,T.本に随う。

A1 本論

B1 学説の設定

阿毘達磨は外・内の学説を知る必要が有る。

C1 外道

〔そこで、まず初めに〕外道の学説を分類すれば、断見論派が一つと、常見論派が十一との計十二〔の派が〕有る。

断見論派とはデーヴァグル(2)Hopkins,J.,1996,pp.327-328.参照。、或いはブリハスパティを信奉する順世派(lokāyata)である。十一の常見論派とは、1.カピラ仙人の信奉者であるサーンキャ派、2.ブラフマー神の信奉者であるヴェーダ派、3.ブラフマンの信奉者である文法学派、4.ブラフマンの信奉者であるヴェーダーンタ派、5.ブラフマンの信奉者であるグヒヤ派(3)Ibid.,p.318-319.参照。そこでは、ジャムヤンシェーパの『大学説』における外道の分類が挙げられているが、それはロンドルラマの見解と同じものである。、6.ヴィシュヌ神の信奉者であるヴィシュヌ派、7.外道のジャイミニの信奉者であるミーマーンサー派、8.大自在天(シヴァ神)の信奉者であるシヴァ派或いは自在天派、9.外道のカナーダとムニのウルーカの信奉者であるヴァイシェーシカ派、10.外道のアクシャパーダの信奉者であるニヤーヤ派、11.外道のジナ仙(4)རྒྱལ་བ་དམ་པ།とリシャバ仙(5)ཁྱུ་མཆོགの信奉者である滅尽派(ジャイナ)との十一〔の派〕である。

C2 内道

〔深遠な〕縁起〔を宣布する〕獅子の雄叫びによって鹿の群れている如きの邪説を蹴散らす牟尼の王者、宣説の獅子たる彼の信奉者である学説論者の名目について、自部、内道、仏陀の徒、此法派、シャーキャ〔牟尼〕主義者は同じ意味である。分類すれば、毘婆沙師、経量部、唯識派、中観派の四つが有る。或いは又、小乗の学説論者と大乗の学説論者との二つが有る。小乗の学説論者と小乗の人との両者は同じ意味ではなく、大乗の学説論者と大乗の人との両者〔も〕同じ意味ではない。〔何故ならば、〕大乗の人と言う場合には大乗の道に入っていなければならないが、大乗の学説論者と言う場合にはそうである必要は無い〔からである。小乗の場合も同様に考えられる〕。

D1 毘婆沙師

毘婆沙師(6)には四つの根本部派が有る。すなわち、説一切有部、大衆部、上座部、正量部である。それ〔等〕の中から分かれた十八部派は〔以下の通りである〕。飲光部、化地部、法蔵部、多聞部、紅衣部、分別説部、根本説一切有部、以上は説一切有部からの七つの分派であり、東山〔住〕部、西山〔住〕部、雪山住部、説仮部、説出世部、以上は大衆部からの五つの分派であり、祇陀林住部、無畏山住部、大寺住部、以上は上座部からの三つの分派であり、鷄胤部、守護部、犢子部、以上は正量部からの三つの分派であり、合計すれば、十八部派となる。

或いは又、大衆部、一説部、説出世部、多聞部、説仮部、制多山部、東山〔住〕部、西山〔住〕部、以上は大衆部からの八つの分派である。雪山〔住〕部、説一切有部、犢子部、法上部、賢冑部、一切所貴部(正量部)、化地部、寺廟部、飲光部、無上部、以上は上座部からの十の分派である(6)分派のバリエーションについては、『異部論』pp.1-4(付録)参照。。〔すなわち、合計すれば十八部派となる。〕

根本四部派の中、説一切有部は、言語はサンスクリット、親教師はクシャトリヤのラゴラ、袈裟の紋章はウトパラ、パドマ、宝珠、木の葉の四つである。命名の仕方は「・・シュリー」、「・・プラバ」、「・・キールティ」、「・・バドラ」という語尾を持つ(7)説一切有部のこれ等四つの特徴については、Bareau,A.,1955,pp.134-135.参照。Bareauはこの箇所を Lin-Li-Kouang, Introduction au Compendium de la Loi, Paris, 1949.を註に記して紹介している( 残りの三つの部派の記述においても同様)。命名の仕方について、この四つの他にマティも挙げられている。。大衆部は、言語はプラークリット、親教師はバラモンのカーシャパ、袈裟の紋章は法螺貝、命名の仕方は「・・ジュニャーナ」、「・・グプタ」、「・・ガルバ」という語尾を持つ(8)Ibid.,p.56.参照。命名の仕方については、この三つの他にミトラも挙げる。。正量部は、言語はアパブランシャ、親教師はシュードラのウパーリ、袈裟の紋章はソーチカ花、命名の仕方は「・・シーラ」、「・・チャンドラ」、「・・ハリ」、「・・グヒヤ」という語尾を持つ(9)Ibid.,p.122.参照。命名の仕方については、この他にダーサ、セーナを挙げる。。上座部は、言語はピシャーチャ、親教師はヴァイシャのカーティヤーヤナ、袈裟の紋章は輪、命名の仕方は「・・デーヴァ」、「・・アーカラ」、「・・ヴァマン」という語尾を持つ(10)Ibid.,p.210.参照。命名の仕方については、この他にセーナ、ジーヴァ、バラを挙げる。

又、毘婆沙師にはカシミール〔の毘婆沙師〕と外国〔の毘婆沙師〕との両者が有り、さらに、大乗経典を仏陀の言葉として承認する者と承認しない者との両者がいる。

〔毘婆沙師独自の見解については、〕一、壊すことが出来たり、壊れてしまったりするかのどちらかによってそれ自身である(その対象を捉えている)意識が無くなってしまわないものを勝義諦〔と主張し〕、それとは逆のものを世俗諦として主張する。二、三時は実体として成立している。三、感官知は無形象の境を接触して捉える。四、各々の極微は感官の境を逸脱している実在である。五、心不相応行と物質との共通基体が有る。六、仏陀の色身は仏陀ではない。七、無余涅槃の時には物質と意識とが断絶する。八、常住の事物を承認する等が〔毘婆沙師の〕独特な学説である。

彼等は又、常・一・主宰のプドガラについての無我を主張する。

D2 経量部

経量部(11)経量部の定義は、「自己認証と外部対象との両方を真実として思い込むことにより承認する小乗の学説論者」である。『摩尼宝鬘』参照。但し、Lundup Sopa, Hopkins,J.,1990,p.221.では聖典追従経量部 は自己認識を主張しないので、このクンチョク・ジクメワンポの定義は修正しなければならないと注意している。について、同義語は経量部と譬喩師である。分類すれば、聖典追従〔経量部〕と論理追従〔経量部〕との二者が有る(12)聖典追従経量部と論理追従経量部は順に、『阿毘達磨倶舎論』に随う者と「量七部論」に随う者とし て例示される。https://www.mmba.jp/archives/353”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。「量七部論」とは、ダルマキールティの著した七つの論書のこと。 すなわち、1.Pramāṇavārttika、2.Pramāṇaviniścaya、3.Nyāyabindu、4.Hetubindu、5.Vādanyāya、 6.Sambandhaparīkṣā、7.Santānāntarasiddhiである。
。或いは又、主客同数論者、多様不二論者、一卵半塊論者(13)主客同数論、多様不二論、及び一卵半塊論について簡単に言えば、複数の形象が立ち昇った時、知も また複数であると承認するのが主客同数論であり、一つの知に複数の形象が立ち昇ると承認するのが多 様不二論であり、一つの知に対して形象も同じく一つだけ立ち昇ると承認するのが一卵半塊論である。 CG.p.82.参照。また、クンチョクジクメワンポはこれ等について三つの説を挙げている。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。なお、唯識派で述べられているものとの違いは外界の対象を認めるか認めないかであって、それ以外は唯識派と同じである。CG.p.146.参照。との三派、又は、前の二つと多様次第把握論者(14)後者のグループはジャムヤンシェーパが自説として言及している説である。JG.p.300.参照。多様次 第把握論について、ジャムヤンシェーパは『中観荘厳論』第二四偈−「白等に対して知は順次に生じる けれども、速く生じるので、愚者達は同時であると認識する」−を引いて説明している。JG.p.301.チャンキャも同じ偈を引用しているが、チャンキャはこれを多様次第生起論と名付けている。CG.p.83.上の 中観荘厳論第24偈の訳は福田(1987),p.1.による。この論文は一卵半塊論を中心とし、主客同数論以下説 も視野に入れて分析、評価されている。との計三派である。

この論理追従〔経量部〕は、実際的効果を生み出す能力の有るもの、勝義諦、勝義として成立しているもの、及び個別相とは同じ意味〔であると主張し〕、世俗諦、実際的効果を生み出す能力の無い法、世俗として成立しているもの、及び一般相とは同じ意味であると主張する。

それについては又、勝義として実際的効果を生み出す能力の有るものが個別相であり、それとは逆のものが一般相であると主張する。

極微は部分を持つと主張する者と部分を持たないと主張する者との両者がおり、部分を持たない〔と主張する〕者にも、〔極微同士には〕隙間が有って接触せずに〔或る極微が他の極微に〕囲まれて存在すると主張する者と、隙間は無いけれども接触せずに〔或る極微が他の極微に囲まれて存在すると〕主張する者との両者がいる。

〔修行道の〕基盤と〔修行〕道と〔修行道の〕果との設定については毘婆沙師と同じである。

D3 唯識派

唯心派(15)唯識派の定義は、「外部対象を承認せず、依他起は真実成立であると主張する仏教内部の学説論者」 である。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。なお、本文中で「唯識派」と訳されているチベット語はsems tsam paであり、文字通りには「唯心派」であって、同義語の中に出てくる「唯識論者」rnam par shes pa tsam du smra baが「唯識派」と言うべきものである。しかし、ここでは慣用に随って、sems tsam paを「唯識派」とした。について、名目は唯識派、実在論者、表象派、唯識論者、所知自己所属論者(16)shes bya rang gir smra ba、〔所取・能取〕無二論者、瑜伽行派〔であって、これら〕は同じ意味である。〔この派の〕開祖は聖無着である。分類すれば、聖典追従〔唯識派〕と論理追従〔唯識派〕との両者(17)聖典追従唯識派とは『瑜伽師地論』に追従する唯識派であり、論理追従唯識派とは「量七部論」に追従する唯識派である。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。、形象真実〔唯識派〕と形象虚偽〔唯識派〕との両者が有る(18)クンチョクジクメワンポによれば形。象真実派と形象虚偽派の違いは次のようになる。「青を捉える眼 識に青は青として顕現している通りのものとして成立している」と承認しているのが前者であり、「青を捉える眼識に青は青として顕現している通りのものとして成立してい顕現していない」と主張するのが後者である。この両者の形象の見解に関しては、一.「青を捉える眼識に青が青として顕現すること」 、二.「青が粗大として顕現すること」、三.「青が外部対象として顕現すること」を認める点は一致しているが、形象真実派は第三の点だけに無明による染汚の働きを認め、形象虚偽派は三つの点すべてに無明による染汚の働きを認めている。この理由で両者の見解が分かれるわけである。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。。形象真実〔唯識派〕には所取・能取〔について〕の主客同数論者、多様不二論者、一卵半分塊論者との三者がいる。形象虚偽〔唯識派〕には有垢派と無垢派の二派(19)有垢派と無垢派は次の二点により分けられている。一.心自体が無明の習気の垢で汚染されているか 否か、二.仏地では無明が無いにもかかわらず、錯乱顕現が有るか無いかである。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。が有る。

識を主張する仕方の観点からは、識は八つであると主張する者と六つであると主張する者との両者〔に分けられるが〕、さらに〔識は〕九であるとか一であると主張する者もいると説かれている。

三つの〔法〕輪について(20)初めの法輪は、ヴァーラーナシーで五比丘に説いた四諦の法輪。第二法輪は、霊鷲山で説いた無相の 法輪で、『十万頌』等の般若経類。第三法輪は、ヴァイシャーリー等で説いた正分別法輪で、『華厳経』や『楞伽経』等である。、初めの教説である四諦法輪、中間〔の教説〕である無相法輪、最後の教説である正分別法輪との三つが有る中、初めの二つは未了義であり、最後のものは了義であると主張する。この〔了義未了義を説明する〕場合の法四依は、一「人に依るな法に依れ」「文字に依るな意味に依れ」「未了義に依るな了義に依れ」「意識に依るな智に依れ」という四つである。未了義と了義との意味の違いは、言葉通りに理解してよいものとしてはいけないものとであると主張する。

三性については『レクシェーニンポ』の該当箇所(21)ツォンカパ著『未了義・了義判別論−善説心髄−』(Drang ba nges pa’i don rnam par ‘byed pa’i bstan bcos legs bshad snying po)東北No.5396, 成田No.1401.に随う。

種姓には三乗種姓と不定種姓と断〔善根〕種姓との五つ〔が有ると主張し〕、〔乗については〕究極的には乗は三つであると主張する。

世俗と勝義の違いについては説明の仕方には数多くのものが有るけれども、二諦〔を説明する〕この場合には、名称の力によって設定された法として成立しているものが世俗として成立しているものであり、そういう様なものとしてではなく成立しているものが勝義として成立しているものである。遍計所執〔性〕は前者であり、依他起〔性〕と円成実〔性〕とは後者であると主張する。

或いは又、染汚が生じうる認識対象の言説である法が世俗諦〔の定義〕であり、清浄な道の究極的な認識対象が勝義諦の定義である。
所取・能取が別の実体としては空であることが究極的な無我であると主張する。

D4 中観派

中観派については(22)中観派の定義は、「真実成立の法が微塵ほども無いと承認する仏教学説論者」である。 https://www.mmba.jp/archives/374”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照、中観派、無自性論者、真実〔成立〕否定論者(23)bden med du smra baは同じ意味である。開祖は守護尊聖龍樹である。分類するならば、中観自立派と〔中観〕帰謬派との二つ〔が有る〕。

E1 中観自立派

初めの〔中観自立派〕には、瑜伽行中観自立派と経量行中観自立派との両者〔が有る〕(24)『摩尼宝珠』における中観自立派一般及び、瑜伽行中観自立派と経量行中観自立派の定義は、順に次の通りである。自立派の定義は「それ自身の特質によって成立しているものを言説において承認する無自性論者」である。瑜伽行中観自立派の定義は「外部対象を承認せず、自己認証を承認する中観派」である。経量行中観自立派の定義は「自己認証を承認せず、外部対象がそれ自身の定義によって成立していると承認する中観派」である。https://www.mmba.jp/archives/376”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。。龍樹と聖提婆の二人を元祖中観派〔と言い〕、他の者達を派閥中観派と言う。これら〔中観派の者達〕は三つの法輪の中、まん中〔の法輪が〕了義である〔と主張し〕、経量行中観〔自立〕派と瑜伽行中観〔自立〕派の両者は後の二つの法輪が了義であると主張する。一方、〔中観〕帰謬派は初めの法輪には未了義と了義との両面が有り、まん中〔の法輪〕は了義であり、最後〔の法輪〕は未了義であると主張する。未了義と了義の違いについては、勝義諦を論述内容の主要なものとした上で、〔それを〕説いていないものと説いているもの〔とによる〕と説明する。

経量行中観自立派では無部分の極微を感官知の認識対象であると認める者と認めない者との両者がおり、両者とも外界の対象を承認し、自己認識を承認せず、識は六つであると承認する。小乗の道にあらかじめ進んでいない者は煩悩障を第七地から断じ、所知障は第八地から断じ始めること等を主張する。

瑜伽行中観自立派では言説においては唯識形象真実派と一致する〔説をなす〕者と〔唯識〕形象虚偽派と一致する〔説をなす〕者との両者〔がいる〕。さらに、後者には形象虚偽有垢派と一致する〔説をなす〕者と形象虚偽無垢派と一致する〔説をなす〕者との両者がいる。

彼等〔瑜伽行中観自立派〕は言説においては所取・能取が別の実体としては空であるという無我を唯識派と一致して承認し、外界の対象を承認せず、自己認識を承認する。小乗の道にあらかじめ進んでいない者は二障(煩悩障と所知障)を同時に断ずると主張する。

E2 中観帰謬派

中観帰謬派について(25)中観帰謬派の定義は、「それ自身の特質によって成立しているものを言説としてすらも認めない無自 性論者」である。、名異門は他称派(26)gzhan grags pa.、無住中観派(27)rab tu mi gnas pa’i dbu ma pa.である。阿闍梨は仏護、月称、寂天等である。この派は、個別相が言説においてさえ無い〔と主張したり〕、顕現によって有辺を排除し、空によって無辺を排除する〔と主張する〕等の独特な学説が数多く有る。

1 C.,T.本はrgyal ba tson kha pa mtshungs dge legs stsol.S.本ではrgyal mtshungs btsong kha pa yis dge legs stsol.となっている。翻訳はC.,T.本に随う。
2 Hopkins,J.,1996,pp.327-328.参照。
3 Ibid.,p.318-319.参照。そこでは、ジャムヤンシェーパの『大学説』における外道の分類が挙げられているが、それはロンドルラマの見解と同じものである。
4 རྒྱལ་བ་དམ་པ།
5 ཁྱུ་མཆོག
6 分派のバリエーションについては、『異部論』pp.1-4(付録)参照。
7 説一切有部のこれ等四つの特徴については、Bareau,A.,1955,pp.134-135.参照。Bareauはこの箇所を Lin-Li-Kouang, Introduction au Compendium de la Loi, Paris, 1949.を註に記して紹介している( 残りの三つの部派の記述においても同様)。命名の仕方について、この四つの他にマティも挙げられている。
8 Ibid.,p.56.参照。命名の仕方については、この三つの他にミトラも挙げる。
9 Ibid.,p.122.参照。命名の仕方については、この他にダーサ、セーナを挙げる。
10 Ibid.,p.210.参照。命名の仕方については、この他にセーナ、ジーヴァ、バラを挙げる。
11 経量部の定義は、「自己認証と外部対象との両方を真実として思い込むことにより承認する小乗の学説論者」である。『摩尼宝鬘』参照。但し、Lundup Sopa, Hopkins,J.,1990,p.221.では聖典追従経量部 は自己認識を主張しないので、このクンチョク・ジクメワンポの定義は修正しなければならないと注意している。
12 聖典追従経量部と論理追従経量部は順に、『阿毘達磨倶舎論』に随う者と「量七部論」に随う者とし て例示される。https://www.mmba.jp/archives/353”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。「量七部論」とは、ダルマキールティの著した七つの論書のこと。 すなわち、1.Pramāṇavārttika、2.Pramāṇaviniścaya、3.Nyāyabindu、4.Hetubindu、5.Vādanyāya、 6.Sambandhaparīkṣā、7.Santānāntarasiddhiである。
13 主客同数論、多様不二論、及び一卵半塊論について簡単に言えば、複数の形象が立ち昇った時、知も また複数であると承認するのが主客同数論であり、一つの知に複数の形象が立ち昇ると承認するのが多 様不二論であり、一つの知に対して形象も同じく一つだけ立ち昇ると承認するのが一卵半塊論である。 CG.p.82.参照。また、クンチョクジクメワンポはこれ等について三つの説を挙げている。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。なお、唯識派で述べられているものとの違いは外界の対象を認めるか認めないかであって、それ以外は唯識派と同じである。CG.p.146.参照。
14 後者のグループはジャムヤンシェーパが自説として言及している説である。JG.p.300.参照。多様次 第把握論について、ジャムヤンシェーパは『中観荘厳論』第二四偈−「白等に対して知は順次に生じる けれども、速く生じるので、愚者達は同時であると認識する」−を引いて説明している。JG.p.301.チャンキャも同じ偈を引用しているが、チャンキャはこれを多様次第生起論と名付けている。CG.p.83.上の 中観荘厳論第24偈の訳は福田(1987),p.1.による。この論文は一卵半塊論を中心とし、主客同数論以下説 も視野に入れて分析、評価されている。
15 唯識派の定義は、「外部対象を承認せず、依他起は真実成立であると主張する仏教内部の学説論者」 である。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。なお、本文中で「唯識派」と訳されているチベット語はsems tsam paであり、文字通りには「唯心派」であって、同義語の中に出てくる「唯識論者」rnam par shes pa tsam du smra baが「唯識派」と言うべきものである。しかし、ここでは慣用に随って、sems tsam paを「唯識派」とした。
16 shes bya rang gir smra ba
17 聖典追従唯識派とは『瑜伽師地論』に追従する唯識派であり、論理追従唯識派とは「量七部論」に追従する唯識派である。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。
18 クンチョクジクメワンポによれば形。象真実派と形象虚偽派の違いは次のようになる。「青を捉える眼 識に青は青として顕現している通りのものとして成立している」と承認しているのが前者であり、「青を捉える眼識に青は青として顕現している通りのものとして成立してい顕現していない」と主張するのが後者である。この両者の形象の見解に関しては、一.「青を捉える眼識に青が青として顕現すること」 、二.「青が粗大として顕現すること」、三.「青が外部対象として顕現すること」を認める点は一致しているが、形象真実派は第三の点だけに無明による染汚の働きを認め、形象虚偽派は三つの点すべてに無明による染汚の働きを認めている。この理由で両者の見解が分かれるわけである。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。
19 有垢派と無垢派は次の二点により分けられている。一.心自体が無明の習気の垢で汚染されているか 否か、二.仏地では無明が無いにもかかわらず、錯乱顕現が有るか無いかである。https://www.mmba.jp/archives/365”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。
20 初めの法輪は、ヴァーラーナシーで五比丘に説いた四諦の法輪。第二法輪は、霊鷲山で説いた無相の 法輪で、『十万頌』等の般若経類。第三法輪は、ヴァイシャーリー等で説いた正分別法輪で、『華厳経』や『楞伽経』等である。
21 ツォンカパ著『未了義・了義判別論−善説心髄−』(Drang ba nges pa’i don rnam par ‘byed pa’i bstan bcos legs bshad snying po)東北No.5396, 成田No.1401.
22 中観派の定義は、「真実成立の法が微塵ほども無いと承認する仏教学説論者」である。 https://www.mmba.jp/archives/374”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照
23 bden med du smra ba
24 『摩尼宝珠』における中観自立派一般及び、瑜伽行中観自立派と経量行中観自立派の定義は、順に次の通りである。自立派の定義は「それ自身の特質によって成立しているものを言説において承認する無自性論者」である。瑜伽行中観自立派の定義は「外部対象を承認せず、自己認証を承認する中観派」である。経量行中観自立派の定義は「自己認証を承認せず、外部対象がそれ自身の定義によって成立していると承認する中観派」である。https://www.mmba.jp/archives/376”" target="“_blank”" rel="noopener noreferrer">『摩尼宝鬘』参照。
25 中観帰謬派の定義は、「それ自身の特質によって成立しているものを言説としてすらも認めない無自 性論者」である。
26 gzhan grags pa.
27 rab tu mi gnas pa’i dbu ma pa.

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