2009.09.19

それはすべて芝居であった

日本人の我々がチベットの仏教を学ぶ際に大きな障害になるのは、私たちが学校教育で学んできた唯物史観です。いまの日本人ならば人間は猿から進化したものであると考えておりますし、神話の価値こそ否定しないものも、「それは事実ではなく、神話である」という立場をとって私たちは学校でならってきました。

しかし大乗仏教そのものがそもそもこうした唯物史観に乗っ取っていないものですので、注意する必要があります。大乗仏教ではそもそも釈尊自体、インドの王子に生まれて菩提樹のもとで悟りをひらいたのは、あくまでも悟りの開き方をみんなに見せるためであって、それよりもっと前から仏陀になっていたと考えています。また釈尊の涅槃についても「涅槃に入った」「死んだ」のではなく、「涅槃の相を示した」ということなのです。もっとわかりやすくいうと、「それはすべて芝居であった」ということになります。

現代日本の私たちは「え〜。それはないんじゃないですかね。あまりにもひどいじゃありませんか。そんな現実離れした話は信じられないし、そもそも仏陀自体何にも本も書いてないし、後の人が適当に作ったんじゃないの」と思うかも知れません。しかしそれを思った人は、いまの私たちに限った話ではありません。昔からそういう議論はあります。これを「大乗非仏説」と言われており、古くはナーガールジュナの時代からこの議論はあります。それは歴史的に論破されつづけてきました。

近頃の日本では仏教の伝統を現代の科学や歴史観にあうように勝手にアレンジしている人もいますが、それでは仏教そのものは伝統的にどのような教えなのか、という基本的なことを理解するための妨げになってしまいます。

仏教というのは何千年も数多くの人によって培われてきた巨大な教えの流れです。その世界をまず知ることからはじめた方が、その世界を脆弱な論理で否定し続けるよりもよっぽど学ぶことがあると思います。そして私たちは、何千人もの現代のチベット仏教の最高峰のお寺の代表選手のような人を日本でお迎えさせていただいております。

私も日本別院にこられる先生をゴマン学堂の学堂長に選んでいただくときに、はっきりと「日本にはチベットのお寺はひとつしかない。ダライ・ラマ法王の代わりに、そしてゴマン学堂の代表者としてどんな質問にでも伝統に乗っ取った正しい答えをできる人間、そしてその教えを身をもって体現している先生を派遣してください」とお願いしております。

ゴマン学堂の学堂長(前の方です)も「野村さんも難しいこというね。そういういい人はなかなかいないし、いてもこちらのお寺にも必要な人材なので、なかなか外国にやるわけにもいかないんですが、まあなんとかしましょう」と何ヶ月もかけて人選に人選をかさねて選び抜かれたのがいまのゲシェー・ドルジェ先生やゲシェー・チャンパ先生です。

彼らのもっている素晴らしい人類が何千年も継承してきた教えに直に触れることは、きっとみなさまのお役にたつでしょうし、日本別院にこられる方は、ひとつでも何かを学ぶという気持ちでお参りいただければと思います。

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