2022.07.20
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

対象の分類法である善悪の基準を知る

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第27回
訳・文:野村正次郎

また善等の三種が有る。

仏教を知るということは法を知るということである。法を知るということは、その法が如何なるものであるのかを知ることであり、法を知ることで、法を弁別できるようになり、法を別の法であると見誤って誤解しなければ、誤解や偏見を重ねて様々な問題を増大させていくこともない。法を知らなければどうすべきか分からぬまま、自己も他者も苦しみの淵へと貶めてき、仲間である衆生を殺し、仲間である衆生を罵り、悲劇の淵へと落としめてゆく。

所知・所量・所依成立・有・基体・縁起・所縁・有法・客体は法の同義語であり、これを分類するならば、事物と常住者、有為と無為、遍計所執・依他起・円成実の三性、世俗諦・勝義諦という二諦、自相・共相の二つ、有漏と無漏などというさまざまな分類の仕方があるが、もうひとつの分類の仕方、それが善・不善・無記すなわち善悪の分類である。

善悪は、誰にとっても日常の最大の関心事ではあるし、誰しもが善悪とはこういうものだという固定観念をもっている。しかし仏教の教義では、善悪はどうやって区別するのか、そもそも何を善として、何を不善すなわち悪として、何を善でも悪でもない中立的なものとするのか、ということを明確に答えられる人はそれほど多くはない。ましてや仏教における伝統的な善悪の正しい分別法に従って自らの日々の行動や言動や考え方を自ら律している人間は、もっと少ない。私たちは何を善と呼び、何を不善と呼ぶのか、というその基準をまったく分からないまま、漠然とした印象でこれは善である、これは悪であると、子供の時からあまり成長もしていない曖昧な基準によって善悪の区別をしている。

仏教の伝統的な教義では、「善」とは、それが意に沿った結果をもたらすことを明確に予告可能なもののことを表している。これに対して「不善」とは、意に沿わない結果をもたらさないことを明確に予告可能なもののことを表している。これに対してそのものがもたらす結果が意に沿うのかどうかは、その結果が発生しない限り予告できないもののことを「無記」という。この無記とは「善不善無記」とも表現され、結果が明確に予告できないので、善悪の判断が不能なものという意味である。

この「善・不善・無記」の三つは、それぞれ四種類の分類することができ、たとえばある善が成立した時点で他の要素に依存しなくても、必ず善果を引き起こす本性上の善(自性善)、そのものが何か他のものと関係することで、その善果をもたらす関係者をもつもの(相属善)、その善自体の発生源の影響がそのもの自体に及んでおり、その結果たる善果にもその発生源の影響を継承して及んでいるもの(随逐善)、その善と関与しようと思った動機の善悪などに作用されて善悪となっているもの(発起善)という四種類に分類することができる。この四種類の分類は、善・悪・無記がその結果とどのような対応関係にあるのか、ということによって分けられるものであり、善には自性善・相属善・随逐善・発起善の四種があるのと同様に、不善にも自性不善・相属不善・随逐不善・発起不善という四種があり、無記にも同じく四種がある。

「善・不善・無記」の三つは、意に沿った結果をもたらすのか、意に沿わない結果をもたらすのか、そのどちらとも言えないものなのか、ということによって区別できるものであるが、これを正しく理解するためには、この区別が社会的なものでもないし、多数決などの統計的な原理によって区別できるものではないし、あくまでもある事象そのものがもたらす心理的な印象が、好印象で期待通りなのか、悪印象で期待を裏切るものなのか、というその物事が直接的にもたらす結果とその結果を享受する主体の心象によるもの、という点は極めて重要である。たとえば社会的には極悪非道な者がいたとして、その極悪非道の者を拘束して殺傷すれば、多くの人々が喜ぶという結果が予測できる場合がある。死刑はこれにあたるし、害虫駆除といった行為もこれにあたる。しかしその場合の殺傷行為それ自体の結果を享受するのは、あくまでもその極悪非道な者であり、害虫であり、それらの者にとっては望んでいない、不快な結果をもたらすので、その殺傷行為は不善、すなわち悪である。またたとえば世界一美味しい料理であろうとも、どんなに効果な宝石であろうとも、それはあくまでも物質であるので、その物質は物質的な結果しかもたらさず、精神的な影響は与えることがないので、これは「無記」であるということになり、物質などはそれが存在したその時点から、結果として何らの心象すら生み出し得ないことは明確であるので「自性無記」に分類されるのであり、たとえどんな人がその美味しい料理や宝石を得ることで快楽や喜びを得ることがあろうとも、その快楽や喜びはあくまでも「得る」「享受した」ということを原因としているのであって、物質自体がその快楽や喜びを生み出しているのではない。これと同じように物質と物質との間にある空間、すなわち虚空もまた何らの結果をも生み出さないので、「無記」であるということになる。

このような仏教の善悪の判断基準を知るのならば、それが社会的なものではないこと、同時に誰か特定の人物、すなわち超越者が善悪を決定し、その特定の考えに則って善悪を判断することが善悪の判断ではないこと、善・不善・無記の判断は、そのもの自体の結果の苦楽の予測によって為されなければならないものであるということが分かるようになる。具体的にどんなものが善であり、どんなものが不善であり、どんなものが無記なのか、ということは次の偈文で説かれるが、ここでは善悪の決定が社会的な通念や神などの超越者によって決定すべきものではなく、対象それ自体の結果との関わりによる分類にすぎず、極めて客観的なものであり、仏教において善悪とはあくまでも客体の分類方法のひとつである、ということが分かるようになるだろう。

ゴマン学堂でのスクーリングで善悪の基準などを学ぶチベットの子供たち

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