2021.10.18
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

十八界とふたつの眼

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第24回
訳・文:野村正次郎

内外の界は十八あり、

外の色界などの六界、

内の眼界などの六界、

眼識界などの六界がある。

一切法を有為法・無為法に分けたうち、有為法は五蘊に分類できるが、無為法を含む一切法を分類する時に、知の対象となる色界・声界・香界・味界・触界・法界の六界(六境)と、それら享受する感官である眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界の六界(六根)と、対象と感官の接触によって発生する知である眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界の六界(六識)とで合計十八界となる。仏教の哲学学派のなかでも毘婆沙師たちは、色界などを直接眼界などの感官が把握し、そこから生まれた視覚のことを眼識界ないしは眼識とし、通常私たちが使っている「青いものを眼で見ている」「喜びを心で味わっている」というような表現と同じように、対象と感官とそこから発生する知の構造を構成する要素を分けると十八界となり、あるものが存在する限り、十八界のいずれかとして認識することが可能である。

五蘊・十二処・十八界のうち、五蘊と十八界の関係を述べておけば、色界・声界・香界・味界・触界の五境と眼界・耳界・鼻界・舌界・身界までの五根は色蘊に含まれ、すべて物質であるが、法界・意界と眼識界から意識界までの六界は物質ではないので、色蘊には含まれない。また受蘊・想蘊・行蘊は法界に含まれるものであり、それを知る感官が意界であり、その知が意識界であるということになる。また虚空や択滅なども法界に含まれるものであり、それを知る感官が意界であり、その知が意識界であるということになる。

五蘊・十二処・十八界はそれぞれ数が確定しているが、通常私たちの眼や耳や鼻は二つずつあり、眼界・耳界・鼻界は二ずつあるので合計で、二十一界と何故数えないのか、という議論がある。

これに対する解答として『倶舎論』では、眼などは二つあろうとも同じ視覚器官としての用途を果たし、その種類としては同じであるので、それをひとつの界として数えるのであり、二つ眼があろうとも、あるいは百個眼があろうとも、それが捉える色界もひとつであり、そこで起こる視覚もひとつであるので、ひとつとして数えるべきであり、眼が何個あっても眼界はひとつということになると説明している。

それでは何故私たちの眼は二つあるのか、といえば、これについて『倶舎論』では「容姿端麗になるために眼などはそれぞれ二つずつできている。」という説明をする。つまり眼がひとつしかなかったり、耳がひとつしかなかったり、鼻の穴がひとつしかなかったら、あまりにも不細工であり、美しくないから眼などは二つずつあり、この美しさや容姿の端麗さの意味については諸説があり、自分の姿として不細工ではないようにするため、とするものや、他者から見た時に美しいからとするものや、無始以来自分は美しいと慢心する自分の肉体に対する業から二つずつ生成しているとする説などさまざまな説がある、とされている。

この議論は、眼自体が対象を見ると考える毘婆沙師に顕著な関心であるとは思われるが、さまざまな生命体には様々な眼があるのであり、仏陀になると肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼という五眼があることは有名であるし、千手千眼観音は眼が千以上あったりするが、眼の数自体にはいろいろあるが、眼界はひとつであるというのが仏説であり、仏教全体の定説ということになる。

五蘊・十二処・十八界のなかで十八界はもっともわかりやすいものであり、『般若心経』にもでてくる基本的な一切法の分類である。娑婆世界や三千大千世界も法界のひとつであり、涅槃もまた法界の一つであり、未だ名前のつけられていない、他のものに分類されていないすべてのものであれ、ガンジス川の砂の数であれ、それらは意界が対象化する法界の一つであり、それを知るものが意識界にほかならない。世界経済がこの先どうなるのか、地球温暖化がどうなるのか、私たちがこの先どんな未来を迎えるのか、そういったこともすべて法界であり、意識界の力や精度が高まることによってすべてを知ることができるようになる。色界であれ、眼界であれ、眼識界であれ、これらのすべては青や黄色や黄緑色などの具体者を個物として分類できるようになりなさい、と仏教は説いているのではなく、色界であれ、眼界であれ、眼識界であれ、そのようなものがきっかけとなり、それを正しく認識しないことによって如何なる業を私たちは形成し、それによって一喜一憂し、輪廻の苦海を彷徨っているのか、ということを説明するために説いているものである。

個物の分類を博物学的に分類するのが阿毘達磨なのではないのであり、個物を十八界に客観的に分類し、それを支配的に捉えている私たちの感官が如何なるものか、それによってどう業を積んでいくのか、このことが阿毘達磨のテーマであり、それは確実に解脱と一切智を目指すものにほかならない。私たちが毎日『般若心経』を唱える際にも、このことを意識しながら十八界の法無我空性へと思いを寄せることができるのならば、十八界の教えの意味もすこしずつ分かっていくだろう。そしてそのような思いをもつこともなく『般若心経』をただ音で唱えるだけ、文字として墨の滲みとなるだけならば、読経や写経の意味もまったくないということになる。五蘊・十二処・十八界のなかで十八界はもっともわかりやすいものとして釈尊は説かれているからこそ、毎日十八界について少しだけでも考えるような習慣をつけていきたいものである。

眼差しはひとつだが、二つの眼がある方が容姿端麗である

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