2021.09.08
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

黄金の光彩を放つ如来の文字列をどう読むか

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第22回
訳・文:野村正次郎

考えついてこうだろうと判った気になろうとも

教法は深遠であるからこそ確定できてはいない

あれこれに適用すれば妄想を膨らませるだろう

思索に節度を保ちつつ 文脈に絡みつくように

議論の展開と要旨に相応しい分析をするように いざ

22

私たちはいま釈尊の教えを直接聞く機会もないし、龍樹や無着などの偉大なる先師たちに直接あってその考えを聞くことはできない。ただ仏典に残されていることばを手がかりに彼らの教えに触れ、そしてその教えによって私たちは何かを得て、何かを学ぼうとしているだけである。

幸いなことに多くの仏典が日本語にも翻訳されており、三蔵法師玄奘によって多くの翻訳に触れることができるし、それらの翻訳を読むためにも字引なども様々な人々の善意によって準備されている。かつては日本語では読むことができなかった、多くのインドの偉大なる大学者たちの言葉も日本語に翻訳されており、まだ日本語には翻訳されていないテキストでも、チベットの偉大なる先師たちの努力によって、多くの釈尊自身の言葉やその注釈書や、それをさらにジェ・ツォンカパなどが解説したものに触れることもできる。チベットの仏教は現在の政治的な逆境にも負けることはなく、いまもデプン・ゴマン学堂では二千人程度の学僧たちが学問修行に励んでおり、他にもセラ、デプン、ガンデンといったゲルク派の総本山で学んでいる学僧たちは合計一万人以上にも上るのであり、彼らは伝統教学を二十年以上もかけて、しっかりと学び、それらの学びをひと通り終えた碩学の善知識たちを私たちは日本にお招きして、仏典の講読を行っていただいてきた。残念ながらいまはそうしたことができない状況にもあるが、この状態が今後も何十年も続くわけでもないし、近年では科学技術の発展もあり、ダライ・ラマ法王の法話会もオンラインで開催されているし、サンスクリットやチベット語を学ぶための、基礎教材や専門的な資料もまた、小さな携帯デバイスでアクセスができる便利な時代となっていることも確かである。こうして考えると私たちにはいま如来の言葉に触れ、如来の言葉を学ぶためのすべての環境が準備されているといえる。しかしながら人類が慈悲深くなって世界がよくなった訳でもないし、龍樹や無着が考えて、私たちに教えようとことを私たちにしっかりと伝わっていると言える状況かといえばそうではない。文明は発展し、様々な教えにより触れやすい状況になってはいるものも、私たちはなかなか進歩していくこともできないし、明日ではないかもしれないがそのまま煩悩に支配されたまま、このままそのうち死んでいくのであろう。

私たちが学ぶための外的な環境が整っていても私たちがさほど変わっていないのは、きちんと学んでいないことにそのすべての原因がある。『中論』が現代の日本語に翻訳されていようとも、私たちは空を理解して、煩悩を断じて解脱できているわけではない。唯識無境の考え方にしても、しっかりと理解できている訳でもないし、もう何万回と唱えたかも知れない般若心経の意味もしっかりと理解できてもいないし、せっかく三蔵法師が訳してくれている『大般若経』も殆ど真面目に読んだこともないし、極楽浄土に行きたいと思っても『阿弥陀経』を暗誦していない人の方が殆どであり、久遠実成と聞いたことがあるかも知れないが、経本を見なければ『法華経』ひとつまともに書くこともできない者が殆どであり、南無大師遍照金剛と何度唱えていても弘法大師空海の代表的な著作である『秘密曼荼羅十住心論』をきちんと読まないし、座禅をし、マインドフルネスがどうこうと言うことはあっても、『臨済録』『碧巌録』も読まないし、道元禅師がわざわざ漢字仮名交じりで書いてくださった『正法眼蔵』を座右の書としていつも持ち歩いている人はあまり見たことがない。

私たちは何をやっているか、といえば、ジェ・ツォンカパの主著『菩提道次第広論』はゲルク派の根本聖典であるといい、『大日経』や『金剛頂経』は日本にも伝わる密教の根本聖典であるとは言うことはできても、それらを紐解いたこともない人が殆どであり、それらのテキストを毎日眺めていたとしても、その内容については何も分からないまま、その本を閉じている時間に日本国内のどうでもいいくだらないニュースや国際情勢について深く感心をもち頻繁にチェックして、自分の周りに起こっている面白可笑しな奇怪な出来事や物語にばかり心を奪われてしまっている。しかしこんな情けない生き方を続けるわけにもいかない。

仏教に触れた限り、何かをしっかりひとつでも丁寧に学んでいかなければならない。実際に仏典を開いてみると難しいことがたくさん書かれているが、それは私たちに何か関係があることばかりなのである。龍樹は何故そんなことを私に伝えようとしているのか、釈尊は何故この時にこんなことを説かれているのか、ダルマキールティは何故こんなことを言っているのか、それを考えてみるとたちまちに大いなる謎に直面する。そして仏典の書物の一行にも満たない、僅かの言葉の文字列が私たちのもっている考えや思考力が如何に浅はかなものであるのか、を思い知らせてくれるのである。

そこでデプン・ゴマン学堂などで伝統教学をしっかりと学んだ善知識の方々に解説をしていただき、ダライ・ラマ法王のお話を聞いてみると全く淀みのない、流れるような強靭な論理と深遠なる思考に触れることができる。善知識の法話には無常の風が吹く、というが法座に行けば自分が死ぬことを改めて感じるのであり、ひとつひとつの解説の言葉はすべて納得のいく説明ばかりである。何十年もしっかりと伝統教学を学んで来られているからか、私たちの浅はかな考えはすぐに吹き飛ばされてしまうのであり、その場にいる限りは、その書物のなかの文章が天空の星座が立体的に輝いているかのような文字列に見えてくるものである。

しかし私たちの浅はかな考えが完全になくなった訳ではない。ひとりになってそのテキストを読み直してみれば、あんなに輝かしく星座のように輝いていたテキストは、私たちから隔絶したはるか遠くに微かな輝きしか放っていない、遠くの風景にしか見えなくなる。善知識たちが教えてくれたことは、記憶に新しいので覚えてはいるのだが、何故かそれを教えていただいていた時の輝きは失われている。これが私たちの心と知性の現実なのである。彼らのようにテキストは読めないし、無常の風も吹いていないので、私たちにはその文字列が立体的に現れるわけではない。私たちの考えが浅はかであるからこそ、その素晴らしいテキストの魅力を思う存分に堪能することもできない。仏法とは自分たち自身の心を写す鏡であるというのはこのことである。煩悩に塗れた醜い自分の姿には、如来たちの輝きを十分に感じようもないのである。

しかし師匠たちが教えてくれたように、何度もそのテキストを読んでいき、街や森を散歩しながらでも静寂のなかでそれらのテキストのことを考えてみる。そしてこのテキストが輝いていた善知識たちの法座の記憶を蘇らせてみる。きっとこういうことだろう、これはこういうことを伝えているとあの先生が語られていたのでそうだろう。漠然とした記憶を少しずつ鮮明にしてゆくと、少しだけ分かったような気がしてくるものである。しかしこの漠然とした記憶の再現は本物ではない。まだまだ無常の風は吹かないし、如来の言葉が発せられて、虚空の衆生が利益されているとは感じられ」ない。自分の浅はかな考え方もなかなか変革できないし、結論を焦りすぎて、これはこうだ、あそこでああいっているのはこういうことだ、と無理矢理と決めつけて、自分の浅はかさを隠蔽しようとしても、ただ妄想を展開して、妄想の上に妄想を重ねており、心は落ち着かず、知性は混乱していくのみである。本山の善知識たちのように朝から晩までそのテキストに全身全霊で取り組んできたわけでもないし、彼らのような思考ができるようになるにはまだまだ早いのである。

偉大なる先師たちや善知識たちのテキストの読み方は私たちのような浅はかな人間とは全く異なっている。思い出していくに彼らは「こういうことを説かれておられるような気がします」「もしここに書かれているこのことをこういう風に考えるとこういう問題があるかもしれませんね」。彼らが私たちに教えてくれているひとつひとつの記憶を辿るとそのことを思い出す。私たちは自分たちが無知であるから、その無知を解消しようと何か情報や知識で武装しようとしているが、彼らが教えてくれるのは、実は「答え」ではないのであって「問い」なのである。チベットの善知識たちが教えてくれるのは、もちろん私たちが知らないことの内容についての「答え」でもあるが、実は「問い」それ自体こそがより重要なものではないか、と思われる。本山の仏典講読の授業で彼らが教えているのは、実は「ここはこう解釈するのが正解である」ということではなく「ここをこう解釈し、こう考えるとこういう問題が起こるが、どう考えるか自分で考えなさい」ということである。

この「問い」の伝統は、多くの経典のなかでは釈尊とその弟子たちの会話という形で表現されているものであり、多くの論書では、対論者と立論者の問答という形で示されているものである。そしれそれらが編まれた書物全体としては、それらの論理的・宗教的な問答がどう展開していくのか、どう纏められ、どのような方向を目指していくのか、仏典を紐解きその言葉を読む、ということは、私たちが持てる僅かばかりの知性のすべてで偉大な文字列に絡みついてその議論に参加していく必要があるのである。この教えは何についての問いなのか、その問いの意味は何か、如来たちはその問いにどう答えたのか、何故そう答えたのか。ひとつひとつの行間や余白を丁寧に読み込んでいくことで、如来の意向や過去の賢者たちの善意を受け止めて、私たちは自分自身がたったひとりで死んでいくときに、ただこの体と心で向き合えるようにしなければならない。このように読むという行為が実現する時にだけ、無常の風は吹き始めるのであり、文字列には如来たちの光明が輝き出す。

「発心とは利他のため正等覚を求めることである」という短いこのことばは釈尊の代理人である弥勒仏が『現観荘厳論』で私たちに伝えようとした重要なアドバイスである。これが私たちへの私信であり、アドバイスである、と分かるためには、節度のある生活をしながら、節度のある客観的で公平的な思考を繰り返し、彼らのことばと真剣に向き合わなければ、その意図を理解できることなどない。他人のつくった料理を批評するのは簡単であるが、自分で美味しい料理をつくるのは難しい。それと同じように他人が教えている考えを表面的に理解するのは簡単なようであるが、自分の思想を如来の流儀に従って作り上げていくのは簡単なことではない。生きること、死ぬこと、苦しみとは何か、幸せとは何か、真実とは何か、私たち人間とは何か、ものを正しく知るとはどういうことか、これらのすべての私たちの問いの立て方から私たち自身が自分たちの思想を構築していくことができるのである。如来たち、菩薩たち、先師たち、善知識たち、彼らは私たちが何を問題としなければならないのか、その問いを教えてくれ、それについての答えの一例を示している。本偈はこうした仏典の議論に私たちひとりひとりが個人的に参加していかなければならないことを教えている。

経典の文字列は如来の身体と同じ黄金の光彩を放っている(国立故宮博物院・所蔵)


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