2021.04.04
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

物質でも精神でもないもの

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第14回
訳・文:野村正次郎

不相応行には

得・非得・同分と

二定・命・生住異滅

名身等の十四がある。

14

すべての存在を常住なものと無常なものに分類し、無常なものを現象や事物と呼ぶが、この事物を分類すると、物質か精神かそれ以外のものであるとの三つに分類可能である。物質と精神についてはすでに説かれており、ここでは不相応行とは何かということについて、その代表的なものを『倶舎論』の偈と同じように列挙している。内容としては『倶舎論』根品第二にある次の記述と同じである。

心不相応行、得非得道分、無想二定命、相名身等類。
不相応行は、得・非得・同分・無想・定(無想定・滅尽定)と命〔根〕と〔生・住・異・滅の〕諸相と名身などもまたそうである。(1)『阿毘達磨倶舎論』

『阿毘達磨集論』では、この十四不相応行に方角や時間や数などを追加して、二十三不相応行を数えるが、法数の異同はあるにしてもこの『倶舎論』の十四不相応行は仏教の教義の基本中の基本となる。毘婆沙師は五位七十五法というものを数え、その五位には、物質である色・精神そのものである心・精神の特殊状態である心所・物質でも精神でもない不相応行の四つが集合によって組成されているものである有為法であり、それらはすべて無常であるが、無常ではない空間や煩悩の死滅状態である択滅などは無為法であり、ここで述べられる十四の心不相応行は、心不相応行のなかでも最も代表的なものであり、『倶舎論』根品全体は、二十二根とは何か、有為法はどのように生じるのか、因縁と果とは如何なるものなのか、という三つの部分から構成され、そのうち有為法が如何に生じるのか、という部分を心相応行・心不相応行に分けて説明するが、精神が発生しているときにその精神がある状態を伴って起こっている場合を心相応行、すなわち心所に関する説明に続いて、『倶舎論』根品第二では第三十五偈から四十八偈まで、六因・四縁・五果の説明の箇所までの十三偈を割いて心不相応行についての説明が行われている。

心相応行は、心所法のことであるが、これらはすべて心すなわち精神が現象として発生している時にその心に対応しながら働いている精神状態のことであり、いわゆる感情や思考などすべての精神的なものが含まれ、物質・精神・それ以外のもの、というように現象を三分するときは、心所法は、対象を認識する知そのものであるので精神に属するものとして分類可能である。

『阿毘達磨倶舎論』の十四不相応行の記述

これに対して無常な現象でありながら、物質でもなく、対象を認識する知でも精神でもあるもの、というものが存在しており、これらは主体か客体かといえば、対象を有するものであるので、主体として分類されるが、知そのものではないものであるので、「不相応行」というカテゴリに分類されるのである。たとえば人間や牛や馬というのは、物質でもないし、精神でもなく、すべての生物はこの心相応行ということになり、人間や牛や馬は物質や精神のように生成や消滅を起こすので無常なものであり、人間や牛や馬といった、精神でも物質でもない現象ということになる。人間や牛や馬をはじめとして様々なものが不相応行にあるが、ここでは本偈の記述を『倶舎論』根品に対するクンケン・ジャムヤンシェーパ自身がデプン・ゴマン学堂の教本として著している『倶舎論考究』を元に簡潔に本偈の用語の意味を簡潔に見てみよう。『倶舎論考究』では(1)得・非得・同分の三つ、(2)無想・無想定・滅尽定の三つ、(3)命・生・住・異(老)・滅(無常)の五つ、(4)名身・句身・文身の三つという合計で四組に分けて分析し、かつインドの様々な論師の学説も詳細に考察しているが、ここではそれらを概観しておこう。

まず「得」「非得」「同分」であるが、「得」とは、ある現象を有する生命の連続体がその現象を有することを可能とさせるもののことであると定義されている。これは何かを得て新規に獲得している状態(獲)と何かを得たその状態が持続している状態(成就)との二つに分類することもできるし、過去に得たもの・現在得ているもの・未来に得るものという三つに分類することができるし、得るものが何かということによって、善・不善・無記の三つに分類することができる。これに対して「非得」もまた同じように獲得していないか、獲得状態が継続しないで失われているという現象のことを指しており、得の逆の状態のことを非得といい、これも過去・現在・未来に結びつけて述べることはできるが、善でもなく不善でもないので、無記のみであるというということになる。この得・非得は様々な生命体がそれぞれ個体ごとによって得ているもの・得ていないものということが異なっていることから確認できる生物の個体が個々に保有する特性であるが、特定の生物が共通してもっている特性のことを「同分」と呼び、衆生が個体を超えて種としてもっている特殊性であるので、「衆同分」ともいう。これには有情・人・衆生などといったすべての衆生が共通してもっている無差別な特性と、牛・馬、男・女、人間と畜生、在家と出家、といったある衆生の集団が共通してもつ特性があり、その特性をもたない衆生とは差異があることから有差別な同分とされるものとの二種類がある。これらの三つは基本的に衆生がもっている特性のことを示しており、その特性は無常なものであるが、精神でも物質でもないので、不相応行として数えられる。

次に「無想」「無想定」「滅尽定」であるが、「無想」とは心・心所の活動の一切を停止させそれが継続している状態である「無想定」の異熟果として得られる無想天の精神の停止状態のことを表している。この精神状態だけを享受している色界の第四静慮天に属している広果天(大果天)などの無想天の衆生は、有情としては天に属しており、神々であるが、この天へと転生する瞬間とこの天から死んで転生する瞬間には、精神、すなわち心・心所は一時的に活動するが、それ以外の時は、長期間にわたり心・心所を活動停止させた状態であり、あたかも精神そのものがなくなっているような状態であるので、この状態は精神でも物質でもなく、不相応行である。これと同様にこの無想天に転生する原因となる禅定である「無想定」は第四静慮天に転生する以前にも実現可能であるが、これも心・心所がまったく活動していない状態であり、これは物質でもなく、精神でもないので、心不相応行のひとつとして数えられる。「無想」が「無想定」の結果であり、それは無想天の衆生の精神が有する特殊状態のひとつであるのに対して、「無想定」は欲界などのほかの環境世界に住している時にも、あるものである、という違いがある。この「無想定」とは、煩悩を断じて遮断した「滅」すなわち「解脱」の境地でなく、単に心・心所のすべての活動を停止させただけの状態であり、煩悩を意識的に遮断した「解脱」と同一視され誤解される。無想定は凡夫のみに生起するものであり、真実を現観して煩悩を意識的に遮断することが可能となる聖者にとっては、この状態は輪廻転生の根本原因を断ち切っていないものに過ぎないので、真実を現観した聖者であれば、無想天に転生することは、悪趣へ転生するのと等しく回避すべきものであり、聖者であれば「無想天」への転生を自己の意志で回避できるが、未だ真実を現観していない凡夫であれば、長期間の禅定の力によって「無想定」を得てしまい、この状態を解脱であと勘違いしてしまい、長期間この状態入ってしまう。真実を現観した聖者であれば、無想定へ入ることも意識的に回避可能となり、「無想定」と同様に、心・心所を停止させた状態を実現可能となるが、その場合には「滅尽定」と呼ばれる意識的に寂静を達成し、心・心所の活動を完全に遮断した状態を実現することができる。この「滅尽定」を衆生として享受しているのは、無色界の最上位、非想非想処、すなわち有頂天で生存している衆生であり、彼らは無想定のように心・心所を停止させており、物質より組成されている身体もない無色界に存続しているので、物質として認識可能なものもないし、心・心所も消滅している状態にあるので、この特殊状態は精神にも帰属させ分類することもできない。したがってこの「滅尽定」もまた、精神でも物質でもない、実体の特殊状態のひとつとして、心不相応行のひとつとして数えるのである。

また「命根」とは、体温のある肉体と知とを維持する寿命のことであり、寿命がある限り生きているということになるが、この寿命は、欲界・色界の衆生の場合には身体と知の拠り所であり、それが生存状態を維持させており、物質たる身体をもたない無色界の衆生の場合には、知のみよりなる身体の拠り所となりその衆生の生存状態を維持している。生存状態を維持させている寿命は、物質でも精神そのものでもないから、不相応行として分類され、毘婆沙師はそのようなものが実体の特殊として存在すると考えている。またすべての有為法が有している、生成していく状態たる「生」・継続している状態たる「住」・変化していく状態たる「異」・消滅してゆく状態たる「滅・無常」といった、ひとつの物質や精神、そしてその集合体である生命体の生成からに関わる四相もまた物質そのものでもないし、精神でもない現象であるので、心不相応行のひとつとして数えられる。

さらに「名身」・「句身」・「文身」という通常私たちがことばとして考えているものもまた物質でも精神そのものでもないので、不相応行として数えることができる。名身とは名詞類のことであり、これは対象を表示するものであり、「佐藤」とか「タシ」とか具体的な対象を名詞化して、その名詞化によって対象を理解させることができるものである。名詞を分類すれば「つぼ」などといった具体的な対象そのものを表示する直接名詞と別の名称などによって合成した合成名詞・仮称名詞などがある。さらに名詞が指示する対象が具体的に何らかの動作をしていたり、特性をもっていたり、ある時間的に限定することによって、複数の名詞を合成して指示対象の特殊状態を表現するものを「句身」と呼ぶ。「さっきの鳥の鳴き声」とか「観音菩薩の所化の国土チベット」とか「涅槃は寂静である」などといった表現はすべて名詞を複数合成したことによってある特殊状態を表示している。「文身」とは文字の集合体であり、文字とは音声そのものを記号化したものであり、音素からなる音列を再現するためのものである。これらの名身・句身・文身については、名句文そのものは、音声であるので、声処であると経量部は考えるが、毘婆沙師は、名詞などの集合体は論理的に思考できないので、実体そのものとして存在していると考える。

文字群などの言葉の塊そのものが音声であるとする考え方は、漢字や絵文字などの表意文字に慣れているものにとっては理解しづらいが、梵字悉曇などもそうであるが、インド形の文字言語は音素文字を元に構成されているものであり、母音にしてもその母音を明示化するために使われる父音文字にしても、文字や音素のひとつひとつが本来神々の身体であり、音響現象そのものが、神の身体の運動によって構成されていると考える仏教以外のインド思想との違いなどを考慮する必要がある。またことばの本質が音響現象であるとする場合、仏語・仏説そのものが文字であり、音響現象であるとしなければならない問題など深く分析すれば様々な難解な問題があるが、名詞や文章や文字などの塊、集合体そのものは物質でも精神でもない実体であると毘婆沙師が音声とは異なるものとして別立て考えていることそれ自体は、さほど理解に苦しむことでもないだろう。

毘婆沙師はすべての存在は実体の特殊であり、それらは実体として有るものであるという学説を唱えているので不相応行のすべては実体として存在するものであるとするが、経量部や唯識派はこれのものは実体の状態・分位として存在するものであるとし、中観派でもこれら不相応行が存在しないとするわけではなく、仏教のすべての学派にとって、不相応行は、それぞれの個体を保持した法であり、如来によって説かれた法であるものであることにも変わりない。

精神でも物質でもない不相応行には、これらの『倶舎論』の十四不相応行以外には、牛・馬・神々・地獄の衆生・餓鬼などの一切が含まれるばかりではなく、時間や数などをも挙げることも可能であるし、少なくとも無想と二定以外の十一の項目よりなる法は、私たちが通常知の対象として享受しているものであり、私たちが知り得ないようなものでもないし、知らないくて見過ごしてよい不要で煩雑なことを如来たちが説いたと考えるべきではない。

むしろ何かを得ることである「得」を物質的に何かを享受していることと勘違いし、「命根」そのものを心所である幸福や不幸と結びつけて同一視していたり、「名前」自体に精神が宿っているという「言霊」のようなものを考えていたり、物質であるかのように考えて「名前に傷がついた」と考えたり、善業の異熟果として享受している同分である人類であることを自体が何らの実用的なものでもなく、リアルな現実であると捉えていなかったり、すべてのものの変化の状態である生住異滅などを物質であるかのように捉えてしまい、身体の変化や生死などの現象のそのすべてが物質そのものであると考えていたりしている。しかるに物質でも精神でもないものである不相応行とは何かということを知ることができるというのは、すべての者にとって極めて重要な課題なのである。

クンケン・ジャムヤンシェーパは本詩篇に基づいて著作途上で未完の作品となった『未完概論』の客体・主体の設定の箇所でも「名身」というものは、名詞化されている実在している個物そのものではなく、ある特性としてことばたる音声が志向している対象となっているのであり、名詞化された具体的な個物そのものを言葉の対象であると考えている者など仏教以外の哲学においてもいないし、仏教でもそのようなものは誰も認めていないということを簡潔に次のように述べている。

「瓶」というこの名身が、「瓶」と述べる発話者の舌部から発生した音声が直接的なことばの対象となるその形式が有る。そのような語の音声は「瓶」という名称を志向し、「瓶」という名詞をもって瓶とするからである。『倶舎論註』でも「語とは名称を指示し、名称によって指示対象を理解する」と説かれているからである。要するに、外教徒は、「瓶」という常住普遍な実在者のことを「瓶」と表現する音声の直接の表示対象となっている語の対象である、としているのであり、毘婆沙師は「瓶」という名身たる不相応行がそのようなもの(語の対象)であるとしているのであり、経量部は、分別知に「瓶」として顕現しているものがそのようなもの(語の対象)であるとしているのであり、瓶というこれが「瓶」と表現する音声の直接の表示対象となっている言葉の対象であるとは、毘婆沙師も経量部もいずれも認めているわけではない。

བསྡུས་གྲྭའི་རྩོམ་འཕྲོ།

この記述は、インドの仏教以外の学派は、ことばの対象は、「瓶性」「柱性」などの無常なる瓶や柱などとは異なったすべての個物に共通する普遍性であり、それは常住であり、実在者であるとしているのであり、毘婆沙師は、物質である「瓶」や「柱」とは名詞化し、物質でも精神でもない不相応行たる名身、すなわち名詞類というものが存在し、それが「つぼ」や「はしら」という音響現象が参照している指示対象であって、個物として無常なる「瓶」や「柱」自体がことばの対象なのではないとし、経量部であればことば自体が「瓶ではないものから孤立化され抽象化されたもの」という分別知において、「瓶」と発話した時の音声由来の写像と抽象化された個物由来の対象そのものの写像とを混合させて生成した分別知の対象が「瓶」という音声自体が志向対象として指示しているものであるのであって、「瓶」や「柱」という事実自体が語の対象ではない、ということを述べているものである。こうした対象の記述理論は、フレーゲやラッセル=ウィトゲンシュタインなどにはじまる現代論理学の記述理論ははるかに凌駕する精細な分析的な哲学であり、三蔵法師玄奘の訳している『阿毘達磨集論』『阿毘達磨倶舎論』などの我が国にも伝わっている古典にもあるものであり、不相応行のなかでも語の対象が一体どのようなものなのか、ということは『集量論』や『量評釈』でも盛んに議論されているものであり、『倶舎論』や『量評釈』は現代のゴマン学堂でも五大聖典として暗誦すべき問答すべき至高の聖典としてその伝統はいまも活きた形で継続している。

本誌編の作者であるクンケン・ジャムヤンシェーパは、本誌編をデプン僧院へ入門してきたダライ・ラマ六世法王の暗記用の仏教の梗概としてまとめたものであるが、ここで『倶舎論本頌』とほぼ全く同趣旨の十四不相応行を列挙しているのは、偉大なる五世の化身として入門してきたダライ・ラマ六世が必ずこのことを学んでいてほしいという切なる願いに由来するものであるだろう。

十四不相応行は苦諦であり、この発生源は煩悩と業という集諦にある。物質でもない、精神でもないこれらのものが、何故苦諦であると私たちは知らなければならないのか、その問いかけからこの心不相応行というものの本質を知ることができるのであり、これらの不相応行に無関心であり、それらを知ろうともしなければ、一切の思索を停止した無想定そのものが何故苦しみであるのか、ということも分かることはない。

何かを得ること、何かを失うこと、牛や馬、人間、思考の停止状態、命とその変化、ことばもって表示しようとするもの、これらの心不相応行はすべて有漏であり、煩悩を増大させるものであり、そのことによって私たちは苦しみの海のなかで溺れている。私たち人間は不相応行であり、我々の苦しみには物質でも精神でもない不相応行に由来するものがさまざまにある。この教えに込められた思いを汲み取り、これらの不相応行を正しく知り、少なくとも我が国でも奈良時代から伝承する倶舎論の伝統に基づいて、十四不相応行を、現代でもしっかりと記憶に刻んでいくことは、仏教を学ぶ上での基礎であることは間違いないだろう。

ライオンは物質でも精神でもないので不相応行である。

1 Abdhidharmkakośa: viprayuktās tu saṃskārāḥ, prāptyaprāptī sabhāgatā / āsaṃjñikaṃ samāpattī jīvitaṃ lakṣaṇāni ca //35//nāmakāyādayaś ceti (36a)

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