2021.03.19
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

経文の意味を全身全霊で徹底的に考える

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第14回
訳・文:野村正次郎

どれだけ多く経文を覚え諷誦しても

意味を考えず形だけ読経しただけで

鸚鵡が何度も声に出すのと同じなら

説かれたことへの増益を断じ得ない

意味を詳細に分析して検討しなさい いざ

14

「善き言葉を口にし、善き意味を心にもちなさい」「言葉に依らず、意味に依りなさい」これらは仏典のことばと私たちがどう向き合うべきかを教える極めて重要な教えである。しかるに、どんなに経文を暗記していて暗誦できても、表面的な言葉だけしか捉えていないのでは意味がない。それらの言葉が一体どのようなことを表現しているのか、一体何の目的で説かれているのか、それらの言葉が発せられた尊い意味を考え、それらの言葉が一体私たちの精神によき影響を及ぼす時、私たちはそれらの言葉をきちんと受け止めることができる。

諸仏の言葉は単に権威ある人々が語ったこと、有名な人々が語ったこと、古典として知っておかなければならない情報、といった類のものでは決してない。それらの言葉はそれを語った人々が重要なメッセージを我々に伝えようとして語ったことであり、そのメッセージをしっかりと受け止め、その言葉の意味を常に考えなければ、単に鸚鵡が同じ言葉を話していているのと同じなのである。文字に記された経文は、声の記録であり、その声はある事態の意味を示そうとして説かれているものである。常に諸仏たちのその言葉の意味を吟味して、様々な場合を考えて、他の様々な概念などと対照し、ひとつひとつのことを正しく理解しなければならない。

本偈では「増益を断じ得ない」という表現されているが、この「増益」というのは有りもしないことを有ると考えて、必要以上に何らかのものに対して誤って理解をしている状態を指している。ある対象や経文の意味を理解する、ということは、その対象や経文の意味が、このような意味であり、このようなことを説いている、というように確定することができる知をもっている、ということにほかならない。知には正しい知と誤った知があり、対象をそれではないものであると誤って確定している場合には誤解といい、対象がぼんやりと心に現れているだけで、その対象がそれであると確定していない知のことを顕現不確定知という。またある対象がこのような対象であるのかどうか決めかねている状態があり、これを疑念という。またある対象がその対象であると理解しているが、そこには何らの根拠もなくただ当てずっぽうに考えている状態を憶測という。またある対象を既に知っていることであるとして特に注意していない状態、これを既定知という。誤解・顕現不確定知・疑念・憶測・既定知は正しくない知の代表的なものであり、これらの知をもっている限りにおいて、私たちはその対象を理解できている訳ではないのである。

それではどのように理解していれば、対象を正しく理解しているのか、というと、仏教では推理と知覚以外には正しい知はなく、推理のことを「比量」といい、知覚のことを「現量」という。推理とは、三つの条件をもつ正しい論証因に基づいて、推理の対象に対する増益を排除した時に起こる知のことであり、たとえば「音声は無常である、作りだしたものであるからである。」という推理で音声は無常であるということを理解する時には、音声が常住である、とする増益を排除することができないのならば、音声は無常である、と理解できないのであり、音声は作り出したものであること、作り出したものは必ず無常であること、常住なものであれば必ず作り出されたものではないこと、という論証因の三つの条件の記憶を辿って想起することにより、音声が無常ではない、音声は常住である、という増益を断じて、「音声は無常である」と確定する知が発生可能な状態をつくることができ、その時にはじめて「音声は無常であることを理解している」という状態を得ることができるのである。

私たちが対象を正しく理解するためには、最低でも推理による判断が必要とある。太陽が昇っていることのように私たちの知覚に現れることのできる対象を理解するのは、それを視覚で知覚するだけで太陽が昇っていないという増益を退ける確定知を生成することができるが、一切の有漏は苦である、すべての煩悩は断つべきものである、といった仏教で説かれているほとんどすべてのことはまずは推理によって理解していかなければならないのであり、その推理を言葉で表現したものは、あくまでも言葉なのであって、推理そのものではない。

正しい推理をするためには、その推理のきっかけとなる論拠、証左となるものを自分自身で知覚していなければならない。「あの峠には火がある。煙があるから。」という簡単な推理をする場合にでも、その峠に煙があることは、自分で知覚していないで「あの峠には火がある。何故ならばお隣の田中さんは煙が有るのを見たからである」という命題を構成しても、お隣の田中さんは火が有ることは推理できるかもしれないが、このようなことを述べている私たち自身が知覚によって自分で煙を見たわけではないので、この判断は論拠のない憶測に過ぎないのであって、正しい知とはいえない。

確かにお隣の田中さんは信頼に足りる人物であり、その田中さんが煙を見たことは嘘ではないかもしれない。この信頼に足りる田中さんの言葉に基づいて、その峠に火が有るだろう、と憶測や推測をして、その峠に行って悲惨な山火事にならないように干し草の山を片付けにいくことは悪いことではない。親切で信頼ができる田中さんの言葉を信じることもなく、「あの峠には火燃えていますよ」と教えてもらっても、それを放っておくのは自由であるし、結果的に自分が放牧のために置いておいた干し草の山がすべて燃えてしまってもそれは自己責任であるので、田中さんを弾劾するのも筋違いである。しかしながら、田中さんはそこに煙が有ることを見た、ということから火が有ることを推理するのと、自分で煙を見て火が有ることを推理する場合とには、理解している火という現実のもつリアリティには大きな違いがあるのであり、自分で煙をみて、火が有ると思って行動し、煙があるという事実を受け止めて火が有るという事実を推理し、理解し、その上で正しい行動を起こしていくことこそがより重要なことであり、仏教の論理学では最終的にはすべての推理は事実に基づいた推理であるべきである、というのはこのような理由によっているのである。

「釈尊は無我を説いた」「龍樹は縁起しているので空であるといっている」「唯識派は三界を心に過ぎないといっている」といったこれらのことは、この信頼に足りる田中さんからの伝聞情報に基づいて推理しようとしているのと全く変わらない。龍樹が空である説いていようとも、釈尊が無我であると説かれていようとも、唯識派が何といっていたしても、それらのすべては私たちの臆測や希望や推理のきっかけとなるものに過ぎないのであって、私たちが縁起や空や唯心ということを理解している訳では決してない。釈尊は弟子たちに、自分の説いた言葉は、ただブッダが説いたからといってすぐに採用すればよいというものではなく、よく自分自身で論理的に分析して、考察してはじめて採用すべきものであると説かれており、これは私たちがものごとを考えるためのきっかけとなる論理にもとづいて、私たちひとりひとりが如来の救済のことばの意味を確定していかなければならない、ということを説いたものである。

あの人がこう言っている、何世紀の何学派の誰々がこういっている、ノーベル賞を受賞した誰々がこういっている、仏教という世界三大宗教の開祖である釈尊がこう言っている、丸々大学の何々の専門家として世界的に有名な何某教授がこうこう言っている、このような表現がこの世界に溢れている。これらはすべて自分たちでものを考えようとしない人たち、自分たちだけではものを考える能力に乏しい人たちの言明に過ぎないのであって、お隣の田中さんが正しいことを言っていることと本質的には変わりない。

しかしながら仏教というような伝統宗教に携わっている者たちの多くのものが仏教とは何か、私たちとは無関係で過去の偉人たちの言葉であり、金泥などの立派なインクで書かれて図書館や博物館のガラスケースのなかで大切に温度管理されて保存されているものである、と勘違いしている場合が多いのである。しかし図書館や博物館にどんな財宝が保存されていても、私たちの生活とは無関係なのと同じように、釈尊が「施しをすればより享受できるようになる」と教えたその言葉も実際に貧しいものに施しをしなければ、私たちが幸せを享受することは決してできないのであり、インドのナーランダー僧院の立派な学者たちやチベットのダライ・ラマ法王や三大総本山のラマたちが、せっかくいい教えを教えてくださっても、その言葉を「インド仏教ではこういっている」「チベット仏教ではこういっている」といってまるで新聞の取材記事のようなものとしてしか考えてないのならば、その教えの内容は全く私たちにとって役に立たないものということになるのである。

仏教では聞思修によって智慧が生成される、と説いているが、まずは経文を聴聞してそれを一字一句しっかりと暗記し、その暗記している言葉の文脈、意味の排列へ何度も自分の力で思考を回らし、言葉や伝聞情報を頼ることなく、自らの知性の限りをつくしてそれらを分析し、理解しようとする対象に対して不要な妄想をすることなく、正しく確定することができる状態をつくりだし、その上でさらにそのような推理を媒介とすることなく、対象に心を向けただけでその対象が知覚できるような状態へと知性を発展させてはじめて、無我を理解して煩悩を退け、煩悩から開放されて解脱することができるようになるのである。デプン・ゴマン学堂の伝統的な仏教教育は、暗記・暗誦と問答しかない。僧院では世界の歴史・思想史・政治情勢などに無関心であることを推奨している訳ではないが、仏典を理解する、ということは仏典で説かれた内容を自分自身で再構築して推理によって確信できている状態になるまで徹底的に問答を繰り返し、思索精神を鍛錬していかなければならない。本偈は、仏典を学ぶということが個人の精神の発展を目指すものである、ということを確認している。

仲のいいクラスメートと朝から晩まで暗記した仏典の内容を問答しながら一緒に考えていくことは大変楽しいものである。

デプン・ゴマン学堂の問答法苑


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