2021.01.14
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

虚栄心の炎でいま燃えているものとは

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第10回
訳・文:野村正次郎

増上生と決定勝 このすべての功徳の因

教説の土台 それは殊勝なこの戒である

それは解脱を求めるものの生命でもある

この詭詐の行から逃れるのも難しいので

表裏なくいつも戒律を護持すべきである いざ

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無限の遠い過去からいま私たちはここに至って生きている。いま私たちは仏教を学ぼうとしているが、この学問は今生で修了して終わるようなものではない。仏教を学ぶということはよりよい精神を培うということであり、いまのこの人生が終わろうとも、次の生にもいまの精神に強く刻み込んだ精神を次の生へと受け従いでゆき、他の肉体を享受しながら、場所を変え、世代を超えて学んでいかなくてはならない。

仏教を学んでいく私たちの遠い未来のその先では、時には男性に生まれることもあり、時には女性に生まれることもある。いまと違う国に生まれることもあり、いまと違う言葉を母語として生きなくてはならないこともある。いまとは違う人たちに囲まれて、いまとは違う友たちと、いまとは違う惑星に生まれても、常に先人たちの教えを乞いながら、如来の教えというこの栄光を享受していかなくてはならない。昨年末をしめくくるダライ・ラマ法王のお言葉にもあったように、私たちがいま住んでいる地球が終わる時があったとしても、私たちの精神はこの惑星以外のどこかの場所で別の身体をもって生まれてこなくてはならない。どんな時にでもこの学びを少しずつ進め、少しずつでもより善き人となれるため、まずはいまの生が終わるとも、人間や神々で、仏教を享受し実践できるという無限の価値のある身体を享受して生まれてこなくてはならない。善趣へと転生する、この増上生を実現し、最終的には仏となるという決定勝を実現するために、その土台となるものは、いまのこの身体ではない。どんな身体を得ていても、次の身体にいまとほぼ同じ身体を得ることができること、それは決して他の衆生を傷つけまい、できれば他者を利益したい、そのためにどんなことがあっても、他者を傷つけようという気持ちを起こすこともなく、他者を傷つけることばを発することもなく、他者を傷つける行動をしないように、自らの行動・言動・思索を律し続ける、すなわち戒律を護持してこの生を生きていかなくてはならないのである。

戒律は私たちがいまの生においてすべてのよき性質、すなわち功徳を実現するための土台である。極楽浄土に生まれようとも、天界に生まれようとも、そして人間に生まれようとも、どんな暮らしをするのかは個人の自由であるが、いまこうしてこの人身を得ている限り、来世もまたこの安寧の身体を得るためには、自分の心の状態を自ら問いかけて、昨日よりも今日、今日よりも明日、今生よりも来世と少しずつでもより善き人であり続けなくてはならない。

戒律を常に正しく護持して生活する、それは自分自身の心に潜んでいる、邪な心の誘惑に翻弄されないよう、自分で自分の心の手綱をもち続けるということである。いまのような恵まれた環境に生まれ、修行者として生きようと決意するのならば通常課せられる俗世の喧騒から少し離れて暮らすことができる。出家して僧侶となれば、日々の生活のために働かなくてもよい。しかしだからといって僧侶として暮らすということは、そのような生活のためでは決してない。いまは大した功徳もなく、仏法に従って暮らせている訳ではないのに、格好だけ法衣をまとい僧侶の格好をし、托鉢にでかけて食料などの清浄なる志をいただいて暮らすことは間違っている。僧侶である、修行者である、ということは決して職業なのではなく、それは生きる姿勢の選択の表明である。言葉を発さなくても、俗世間の生業を何もしなくても、人々から供養を受けることができるのは、ひとえに私たちが修行者として釈尊の教団に属して、その教えだけを実現しようという選択をしたからなのであり、この法衣であれ、鉢であれ、釈尊にお借りしたものであり、自分のものではない。歌手の衣装を着せてもたえたからといって、何も歌える歌がないのならば、それは偽者の歌手となる。これと同じように釈尊の教えを実現する修行者の群れに入り、仏教の修行者としての衣装を借りて着ていても、何も仏教を実践していないのならば、物乞いが慈悲で法衣を着ただけ偽者、すなわち「詭詐きさ」の行者である。

僧侶としての生活の決意を表明したからには、俗世間の人々さえもすべきではない、邪な生き方をすべきではない。他人に媚びへつらい同調し、心にもないことばかり語るべきではない。他人が所持しているものを褒めちぎって自分に恵んでくれるように狡猾に誘惑すべきでもない。ほかの修行者に供養されたものを見て、自分もそれを得る権利があるはずだと主張し、その人に与えるよりも自分にそれを与えてもらった方がよっぽど活用できるなどと語るべきでない。また、自分の持ち物を売買し僅かの代償で得ているものを高額で転売し不当な利益を貪るべきでない。これらの邪なライフスタイルは「五邪」といい、少なくとも出家者たる比丘・比丘尼は具足戒で禁じられた生活方法であり、これらは在家の人々でしないように心がけているのであり。出家者である限り決して行うべきではない。自分が誤ったライフスタイルをすることで、在家の人々が釈尊の教えを実践する者に対して敬意をもてないような状況をつくりだすことは、仏法そのものを台無しにしてしまうからである。

本当の功徳を身につけ、常に仏の教えの通りに暮らすこと、これはそんなに簡単なことではない。しかしすべての功徳の土台はここからはじまるのであり、表ではきちんとした修行者だが、裏ではおかしなことばかりしているということは避けるべきである。どんな時も常に自らを律し、強い意志の力と用心で、いつも正しくあろうとする、それが常に他者を慈しみ、自らの行動と言動と思索を制限して生きることを表明した修行者としての生の第一歩なのである。

本偈はあくまでも出家者としての「邪命」といわれる誤った生活手段を行わず、具足戒を護持して生きることの大切さを説いたものである。しかしこれは在家の者たちの生と無関係ではない。私たち在家の者は、出家者が心に刻むこうした精神を推察し、可能な限り、彼らを敬い、供養させて頂なくてはならない。また戒律を授かりそのような生き方を選択して表明したわけではないけれど、「五邪」と呼ばれるような生活手段を貪るべきではない。経歴を詐称し見せかけだけの偽者となるべきではないし、他人にお世辞ばかりいって自分の利益のために同調すべきではないし、他者の財産をできるだけ安価に取得できるように工作すべきではないし、他者を嫉妬して必要以上に自己の権利や配当を主張すべきではなく、暴利を貪って不当な利益を追求すべきでない。

虚栄心を捨てて地道に生きるというこの地道とは、仏の境地へと向かっているしっかりとした道にほかならない。「心には善き性質をもとうとして、善とは何かを知る。この法を知るということがよきことがすべてのよきことの源である。すべての良きことのなかでも最高である仏教という栄光は、最高なる誉れであり、吉祥にして常に善である。」これは釈尊が本当の栄光とは、本当の名声とは何かを説かれている『聖妙吉祥文殊師利真実名経』のことばであり、チベット語の「タシデレー」(こんにちは)という挨拶のもとになったこの言葉は、戒定慧を学んでいくことこそが本当の名声と栄光を実現し、世界をよりよくするための吉祥であるということを示している。現在日本は緊急事態とのことである。わざわざ外出し他人や社会が緊急事態かどうかとか医療崩壊がどうかとか政府がどんなことをしているかとか、外側の世界ばかり気にしなくても、仏教では私たちが火事で燃えている家に住んでいると教えている。自分の心の緊急事態、心の衛生の崩壊、まずはこちらを何とかした方がよい。幸いにもそれは自分のことであるので、素早く改善できる。

燃えているのは他人の家ではなく、自分の心である


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