2020.11.21
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

どんな悪い仲間がどこにいるのか

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第6回
訳・文:野村正次郎

悪い仲間だと角をつけ やって来るわけでない

微笑みかけ 愛し大切にしてくれる仕草をして

共に楽しんでくれ悪戯し放題へとさせてくれる

そんな時を共有してくれる者が悪友なのである

感染症のように永遠に絶縁するがよい いざ

6

私たちの心は煩悩に満ちているからこそ、煩悩が起こるのは簡単なことであり、煩悩に支配されるのも簡単なことであるが、その逆の善業を心にもち続けるのは、大変難しいことである。

一心不乱に善業へと向かうためには、悪い仲間と絶縁しなくてはならない。しかしこの悪い仲間というものは、大変厄介なものであり、そもそも悪い仲間というものは角を生やして鬼の格好をして、「私はあなたを破滅へと陥れるためにやってきた悪い仲間ですよ」と告白し、恐ろしい形相でやって来るわけではない。むしろ、あなたはもっと自分を大切にしなさい、もっと人生を楽しむべきである、もっとこんな楽しいことやあんな楽しいことや、こんなスリルのあることや、あんな心が落ち着くことがありますよと、私たちが煩悩によって心が思わず動かされてしまうような誘惑を、満面の笑みを携えて語ってくれる。まあまあそんな固いことばかり言わずに、どうぞ、どうぞ、もしひとりでやるのに気が引けるのなら、私もいつでもお供しますよ、そんなことを言って我々を悪事へと導いてくれる。これが悪友の正体なのである。彼らに感染症のように近くだけで感染してしまうのであり、その悪影響の伝染力は半端ないものである。だからこそ、自らを悪友から隔離して、どんな誘惑があったとしても、それらと交わらないようにしなくてはならない。

世間は魔物だらけであり、人と接触して交われば、様々に厄介な問題が起こることも確かであろう。とはいえ、この人も、あの人もまた、決して私たちを陥れようとしている訳でもないし、そこまで私たちが注目され、愛されているわけでもない。世間が魔物だらけだといって、世間と絶縁して人でなしの国に行くことなどできない。そこにいる彼らはひょっとしたらこういう試練を私たちに与えてくれる菩薩たちの化身かもしれない。そんなことを考えてみるとどうしたらいいのか、わからなくなってしまう人もいることも確かであろう。

悪友の正体は、本当はそんな私たちの外側にいる人たちではないのである。私たちの弱い心、煩悩や誘惑にすぐにも負けてしまう私たちの心自身が悪友の本体である。戦うべき、絶縁すべき相手は、私たち自身に潜んでいるのであって、私たちの心を和ませてくれようとしている他人の笑顔を疑うべきではない。腹黒いのは側にいる誰かではないのであって、自分の堕落に微笑みかけている私たち自身なのである。学問をするということは、私たち常に自己愛との戦いであり、その敵は自分自身のなかにいる。そのための善なる友もまた、外側にばかり求めるのではなく、私たちの心に潜ませることができる。本当のやさしさとは何か、いますべきことは何か、私たちを一歩ずつ高めてゆき、仏の境地へと進んでいくとはどういうことか、このことを常に問いかけている姿勢、それが善なる法を学ぶということなのであろう。

友だちってのはいいものである


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