最終更新日:2019.09.19

三宝のうちの僧宝とはどのような存在なのか〜『現観荘厳論』第1章一切相智品二十僧伽の偈頌

先月はお休みしていた関東定例法話会も無事におわり、今週末の土曜日は久しぶりに京都にて法話会があり、日曜は真光院にて定例法話会があります。

現在は『菩提道次第広論』と『学説規定』を同時に行なっていますが、『学説規定』の方は、毘婆沙部の修行の結果として得られる境地の説明のところに入っています。

毘婆沙部の学説は主に、チベットでは世親の『倶舎論』を中心に学んでおりますが、日本でも奈良の興福寺や東大寺などでも『倶舎論』の学問の伝統は現在も続いています。

毘婆沙部の学説の解説のところの説明はなかなか進んでおりませんが、ここの箇所の修道論の説明は、仏教の修行が進行して具体的にどのような境地を得るのか、ということについての重要な議論が進んでおります。

今回東京での法話会は主に三乗の五道や四向四果(八輩)の箇所の説明があり、預流・一来・不還・阿羅漢などについても説明がありましたが、それに付随して「二十僧伽」というものがあると少しだけ言及しました。

二十僧伽については、次回詳しく説明してくださるとのことですので、その箇所の『現観荘厳論』本頌の部分だけを翻訳して、次回までに予習しておきましょう、という提案がありましたので、その『現観荘厳論』の本頌の部分を翻訳しておくならば、次のようなものになります。

鈍根・利根の二根 信と見に従う者、家から家へ生まれる者、 一間の者、中間の者、行の有る者、行の無い者、色究竟へ往く者、 躍ねる三種の者 色と貪を離れ有頂を極めるもの、 現れる法で寂静する者 身で証す者 果へ向う者 如犀独覚という二十である。

『現観荘厳論』第1章一切相智品 第23-24偈

この偈頌の意味については次回の法話会の時に解説する予定です。

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