2016.03.14

クンケン・ジャムヤンシェーパの生涯(1)幼少期

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デプン・ゴマン学堂本堂上のダライ・ラマ法王の居室に祀られているクンケン・ジャムヤンシェーパ像

2016年3月13日は、クンケン・ジャムヤンシェーパ・ガワンツォンドゥーの命日にあたる日「クンケン・ドゥーサン」で、大本山護国寺にてゲシェー・ロサン・ゲレク師によりクンケン・ジャムヤンシェーパの生涯についての簡単な紹介がおこなれました。この記事は、そのレポートです。

今日は、チベット暦の2月5日にあたる日で、デプン・ゴマン学堂の問答の教科書を書かれた十七世紀の大学者クンケン・ジャムヤンシェーパの命日にあたります。ですので通常の法話会ではなく、このクンケン・ジャムヤンシェーパの伝記を簡単にみなさまにご紹介することを通して、その供養のひとつとしたいと思います。

ナムタルとロギュー

Namthar

『クンケン・ジャムヤンシェーパ伝』

一般にチベットでは、高僧の伝記や歴史・逸話を書いた著作など様々なテキストがあります。しかし歴史や逸話については「ロギュー」といいますが、高僧の伝記のことを「ナムタル」といいます。

「ロギュー」には、さまざまな人物が登場しあれこれ様々なことが書かれていますが、「ナムタル」と違うのは、それは様々な悪いこともたくさん描かれていることにあります。実際にあった出来事などを語るものが「ロギュー」ですが、「ナムタル」は、むしろ様々な悪いことが瑣末な出来事を語るものではありません。

「ナムタル」というのは「解脱する」という意味の単語で、そのような書物は高僧の生涯を綴ったものですので、その方がどのような師に師事し、どのような伝法を受けて、どのような本尊や護法尊を信仰し、どのように善なる資糧を積んで、どのような境地に達して行ったのか、ということに視点の中心がおかれています。

これはジャータカや仏伝などとも同じですが、歴史的にどのような出来事があったのかということを語ることに主軸があるのではなく、私たち自身が罪障を浄化し、より福徳と智慧という善なる資糧を積んでブッダの境地にいたるために、どうしたらいいのか、そのことのお手本が描かれているのです。

ですのでジャムヤンシェーパの伝記を紹介し、みなさまとそのお話しを共有することで、私たちは自分たちの人生を振り返り、どのように仏教を実践するべきなのか、ということの参考にしたいと思います。

ジャムヤンシェーパの伝記は詳しくお話しするととても長いもので、1日で終わるようなものではありませんので、今日は簡単にかいつまんでご紹介したいと思います。

ジャムヤンシェーパの幼少期

まず、ジャムヤンシェーパは、1648年にアムド地方のラタディンという小さな町でペルシュル・ブンゲルという父君とタルモ・チャムという母君の息子として生まれました。このジャムヤンシェーパはいまも続いている化身ラマの転生譜の最初に数えられるお方で「クンケン・ジャムヤンシェーパ1世・ガワン・ツォンドゥー」(ཀུན་མཁྱེན་འཇམ་དབྱངས་བཞད་པའི་རྡོ་རྗེ་ངག་དབང་བརྩོན་འགྲུས་)というのが正式なお名前です。

最新のジャムヤンシェーパ全集

最新のジャムヤンシェーパ全集はゴマン学堂図書部からePub/PDFの両方の形式でダウンロードできる。

このジャムヤンシェーパの転生譜のはじまりは、マチクラプドンや『カダムレクパム』の説では、観音菩薩ですが、トゥルク・タクパゲルツェンの説によれば、金剛手菩薩(日本では勢至菩薩)であったと言われ諸説がありますが、釈尊在世の時には維摩居士であったというのが定説です。維摩居士、ブッダパーリタ、ディグナーガ、チャンドラキールティ、大成就者ジターリ、ポトワ、そしてジェ・ツォンカパの先生のおひとりであるラマ・ウマパなどがクンケン・ジャムヤンシェーパの前世の系譜として数え挙げられます。

5歳の時に、ダライ・ラマ5世が中国に向かわれる時にアムドで謁見し、手でふれていただき加持を受けるという「手灌頂」を授かります。それから7歳の時から叔父であったソナム・ルンドゥプから、文字の書き方、絵の書き方、密教の儀式のやり方、薬学、土地の見方、栄養法などといった様々なことを教わりすべて理解したと言われます。

土地の見立て

ここでジャムヤンシェーパが叔父さんから学んだ土地の見方というのは、チベットではとても大切なことのひとつです。日本にはあまりない習慣ですので、それがどんなことなのか、簡単に紹介します。

チベットでは家を建てる場所、家を建てる向きなど様々なことを土地を見ることをしてからする習慣があります。

それはこの場所にはこういう神が住んでいる、こちら側にはこういう神が住んでいるといった様々な事情があるからです。ですので、何かを土地に作るときには、土地をみて慎重にやらなくてはいけません。特にお寺の建物を建てるときなどは、土地を慎重に見ることになります。

お寺ではなくても、土地を見ることが大切なのは一般家庭でも同じようなことがります。たとえばチベットでは、ほとんどの人が鳥葬によって遺体を弔いますが、鳥葬をするときには、ある場所の地の上に遺体を寝かせて、禿鷲を呼んで食べてもらうことになりますが、その鳥葬する場所をどこにするのか、ということは大変重要なことになります。

たとえば母親を間違った土地で鳥葬すれば、その家族には3〜4年は問題が起こり、父親を間違った土地で鳥葬すれば、その家族は何世代にも渡って問題が起こるといわれています。

実際にこれは私たちの故郷のリタンにあった話しですが、ある家族に不幸な出来事が常に起こるので、ラマをお招きして土地を見てもらい、鳥葬場を変えるということになりました。いままでその家族が使っていた鳥葬場の土を掘って別の場所にまた穴を掘って、前の鳥葬場の土を新しい場所に掘った穴の上に持って行って埋めたのです。ラマは「よし、これで来年くらいにその土地でいいか分かります」とおっしゃり、そのまま次の年を待つことになりました。

翌年になるとその家族の家畜として飼っていたヤクに、オスもメスも赤い毛があるヤクはまったくいないにも関わらず、生まれてくるヤクは赤い毛がすこし生えているヤクばかりだったそうです。家族の人は不思議なことが起こるな、と思ってそのラマに報告すると、そのラマは

「それは移転した埋葬場がよかったことの吉兆です。実は新しい場所の向こう側の丘に生えている樹は赤い葉や枝があります。それは向こう側の丘に住んでおられる神々に由来するものです。あなたの家のヤクに赤い毛の子供が生まれたのは、その場所に鳥葬場を移動したということが正しかったことを表しています。」

とおっしゃいました。それからはその家族には不吉な出来事が続かないようになったとのことです。

このようにチベットでは土地の見方ということを大変大事にしますので、ジャムヤンシェーパはそれを習ったということになります。

また通常チベットでは簡単な病気などは、薬草などから簡単な薬を調合をして直しますので、薬の作り方などを小さいころから親戚に教わるというのも一般的なことです。いづれにしても7歳、というのはチベットの7歳ですので数え歳ですから、いまの小学生くらいの年からジャムヤンシェーパは叔父さんに読み書きや仏様の供養の仕方や、さまざまな知識を教わり、それをよく身につけたということになります。

出家から成人まで

その後13歳のときには、ドゥルジンパ・イシー・ギャツォから沙弥戒を授かり出家します。同時に怖畏金剛(ヴァジラバイラバ)の許可灌頂をその師から授かり、怖畏金剛の供養を始めることとなります。クンケン・ジャムヤンシェーパ後にも怖畏金剛の偉大な行者としても知られることになりますが、この時から怖畏金剛を本尊として修行をなされたようです。

クンケン・ジャムヤンシェーパはとてもまじめに実践を行いましたので、ある時夢で、怖畏金剛タントラのチベット訳をしたラ訳経師ドルジェタクが現れて直接教えを受けることになります。ラ訳経師ドルジェタクは怖畏金剛の教えをチベットに伝えるために怖畏金剛ご自身が化身として出現したものであるとのお話しも有名ですが、クンケン・ジャムヤンシェーパは真言念誦なども非常に熱心に修行をされたのでそういった偉大なる過去のラマから直接教えを受け、さらに熱心に修行をされることになりました。

そして16歳のときには、「生涯帯を外して寝ない」という誓いをたてられることになります。クンケン・ジャムヤンシェーパはこの誓いを16歳のときに立てられて生涯貫かれたことはとても有名です。

「帯を外して寝ない」というのはどういうことかといいますと、チベットの僧侶は「シャンタプ」という下袴をはくわけですが、これは大きなスカートのようなものです。その「シャンタプ」というのは筒状になった一枚の大きな布でできています。シャンタプを履くときには、腰に巻く時には帯をつけて腰で固定します。通常私たちはその帯を外して、シャンタプを畳んで、シャンタプの下に履いている下着のまま寝ることになります。しかし、これは寝るための準備をきちんとしてぐっすり寝るということになるわけです。

ジャムヤンシェーパはそういう所作をすること自体を省いて、いつでも起きられる状態で、寝過ぎてしまって修行を怠らないために「私は帯を外して寝ない」という誓いをクンケン・ジャムヤンシェーパは立てられたということになります。

 

クンケン・ジャムヤンシェーパが最終的に建立したラブラン・タシキル僧院

 

〔続く〕

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