作成日: 2011-12-23 最終更新日: 2016-01-21 作成:野村 正次郎

【口から耳へ、そして心に伝わるブッダの教え】

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講師:ゲシェー・ロサン・ゲレク師
訳編:野村正次郎
拠所:牛田山龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院

来年から『菩提道次第略論』をベースに再び止・観の章を学んで行きたいと思います。先月は『道の三要訣』で道次第の体系の全体を復習しました。「すべての禅定をまとめると止観になる」といわれるように止観というのは仏教では極めて重要なものです。『菩提道次第略論』の止観には大変難しい議論もありますが、まずはこの章をゆっくりと読んでいきたいと思います。これについては来年から毎月やっていきたいと思いますので、本日はもうすこし簡単なところからお話からします。

ブッダのことばに耳を傾ける

今日はみなさんお忙しいなか遠くから来られた方も居られるようです。はじめてお参りされている方も居られますが、私たちはブッダの教えを学ぶために今日ここに集まっています。みなさんは「聴聞」をされるために集まっておられるのです。私はブッダの言葉をみなさんにお伝えするためにここでお話をしているわけです。

仏教では「聴聞」はとても大切です。ブッダが説かれた「ことば」を「耳から聞く」ということが大切なのです。この伝統はお釈迦さまのころからあるものですし、我々がこうして法話会で集まるのも、「聴聞」をするためです。

ブッダは沢山の教えを説かれています。八万四千の教えがあると言われています。ですので私たち弟子もまた沢山聴聞をすることはとても大切なことなのです。

では聴聞をするとどんないいことがあるでしょうか。そもそもブッダが私たちに説法をしているのは、我々が苦しみに直面しており、その苦しみからこうやったら解放されますよ、ということがブッダの説法の内容です。ですから、説法に耳を傾けることで、私たちは幸福になるためには何をすべきなのか、そして一体何をすべきではないのか、このことを理解できるようになるのです。

聴聞をするとどのようにいいことがあるのか、ということは『ウダーナヴァルガ』には次のように説かれています。

聴聞によって諸法を理解する
聴聞によって罪障を退ける
聴聞によって無益なことをやめる
聴聞によって涅槃を得ることとなる

私たちは聴聞をすることで、ブッダが我々に教えてくれたことが一体何なのかが分かるようになります。そしてそれを分かるようになったら、ブッダが行動・言動・心の動きとして何をすべきであり、何をすべきではないのかということを理解できます。そうすると私たちはブッダがこういうことをしない方がいいですよと教えられたこと、それを「罪障」といいますが、そういう行いをしなくなるようになるのです。

そうすると私たちは無益に人生を過ごすのではなく、この人生を有意義に過ごすようになれるようになります。それが「無益なことをやめる」ということです。人生を無益に過ごすのではなく、ブッダの説かれたすべての苦しみや悲しみがなくなっている境地、つまり「涅槃の境地」へと至ることができるのです。単に仏教のお話を聞くということが、最終的にはすべての苦しみから逃れた涅槃の境地へと至るものなんだ、だから自分はこれから聴聞しよう、そういう気持ちをもつことが大切です。そしてできれば、自分はすべての生きとし生けるものの苦しみを解放するために最終的にブッダとならん、そのためにこれから聴聞しよう、そう思うことでその聴聞は大乗の聴聞ということになるでしょう。

聞法した内容を実践する

それではブッダの教えを沢山聞くだけでいいのか、といえばそうではありません。ブッダの教えを聞いたら、その教えの内容を自ら毎日の生活で活用しなくてはなりません。仏教の教えを知ったのならば実践しなければ意味がありません。単に聴聞好きというだけではブッダの説いている教えの内容を実現することはできないのです。

これは一体どういうことかといいますと、仏教というのは「薬」のようなものだと考えるといいと思います。たとえば病院に行ってお医者さんに薬をだしてもらいますよね。お医者さんがいくら立派な人でも、またその出してくれる薬が素晴らしいものであっても、その薬を飲まなかったら病気が治ることはありません。これと同じくブッダは我々が幸せになるためにどのように暮らせばいいのか、ということを説いてます。それは薬と同じようなものです。

ブッダの教えという薬は、私たちが日常的に味わっている悲しみや苦しみの原因となる「煩悩」という病を治療するための方法そのものです。ですからその教えを活用して日々の生活のなかで実践しなければ、薬ばかりあつめてそれを服用しないで放り出しているのと同じことなのです。ブッダは私たちのいまのこの状態は苦しみであり、その苦しみから解放されるために、煩悩を抑制しなくてはならないとおっしゃっているのです。そしてその方法はこうなんです、と説かれているのです。

 

信仰と実践

ブッダの教えを信じている人は沢山います。世界には仏教徒はかなりの数がいます。私たちチベット人やみなさん日本人であれば、先祖代々仏教徒ですから、日常さまざまな場面で仏教に関わる機会も沢山あります。また仏教以外にもさまざまな宗教がありそれを実践している人もたくさんいます。ですが実践というものはあくまでも心で行うものであって、外側の行為だけで充分だというものではありません。

たとえば信心が深い人は、人生のなかで宗教に関わっています。たとえば信心深い人は御寺参りをしたり聖地巡礼をしたり、お経を読んだり、写経をしたりする人も多くいます。これらの行為はもちろんいいことですが、そういうことだけをやっていればよい、というものではないのです。

東チベットのアムド地方にゴロクという場所があります。昔そこからチベットの首都ラサまで五体投地をしながら巡礼をして移動する家族がいたそうです。ゴロクはいまの青海省にあり、ラサまでは何ヶ月もかかります。ラサはチベットで最も重要なジョウォ・リンポチェ(ラサのトゥルナン寺にあるジョウォ・釈迦牟尼像)がいらっしゃる場所です。

ゴロクの人は信心深いことでも有名です。このゴロクの家族は遊牧民でしたので、ヤクや羊などの沢山の家畜を連れて巡礼に旅立ちました。ツァンパなどの食料を沢山もって何ヶ月もかけて、毎日五体投地をしながら少しずつラサへと進んで行くわけです。大変な苦労ですので、このこと自体はとてもいいことなのです。しかしこの家族の巡礼には大きな問題がありました。家長の父親は毎日マニ車を使って「今日はこのヤクを殺して食べよう、明日はあの羊を殺して食べよう」と毎日次ぎに殺して食料にする家畜がどれなのか、ということを家族に指示をだし、家族はそのことを悪いとも思わずに毎日殺して食べながら巡礼をしていたのです。

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マニ車というものには、観音菩薩の真言である「オンマニペメフン」が沢山経典になって詰められています。マニ車自体は、善業を積むためにある道具です。ですが、マニ車を毎日殺生の道具として使い、そして毎日殺生をしながら巡礼するというのはどうでしょうか。せっかく巡礼という善い行いをしていてもこれでは無意味ではないでしょうか。そもそも巡礼などといった善業をしたいという動機と殺生をするという行為はその動機に矛盾があります。ですのでこの家族はせっかく五体投地をしながら巡礼をしても全然意味がないわけです。このエピソードは、信心をもって宗教的な行為をするだけでいいのかといえばそうではない、ということを教えるエピソードです。

そもそも「信仰」というものは、盲目的に信じるだけではだめです。私たちは自分の家族や国に昔からある宗教を信じ、その宗教を実践するだけでは不充分なのです。こういう人の「信じる」という気持ちは、単にその自分に関係しているものが「好きだ」という感情と代わりません。自分の家や国に伝わる宗教が「好き」でその宗教でよしとされている善業を外見上実践しているだけなのです。

医者のたとえを考えると、単に自分の担当のお医者さんのことが「好き」だったり、「名医」と呼ばれているからといって、そのお医者さんのことを「信じる」というのではだめじゃないですか。それに自分が好きなお医者さんから薬をもらうというそのことが「好き」だからといって病気が治るわけではないんです。

教相家と事相家

また昔チベットにある仏典をあまり勉強したことがなく、儀式ばっかりやっている僧侶がいました。ゴマン学堂では僧侶が全員仏典の勉強をするために僧院に住んでいますが、地方の小さな僧院では、仏典の勉強はあまりしないで、近隣の村の方たちのためにご祈祷ばかりやっている僧侶の方が実は多くいますので、これは普通のことです。

この僧侶がある日山の中腹に「ゲシェー」の位をもった僧侶が洞窟で瞑想をしているという話を聞きつけて、一体仏典の勉強をして「ゲシェー」になった僧侶ってのはどんなものなのだろうかと思い、友人と一緒にそのゲシェーが修行をしているところを訪ねて行くことにしました。そして、そのゲシェーにこんな質問をしたそうです。

「あなたは仏典の聴聞をメインにしている方(教相家)ですか、それとも実践をメインにされてきた方(事相家)なのですか。どちらですか。」

ゲシェーはこの質問に対してこんな風に応えたのです。

「その質問はなかなか難しい質問ですね。聴聞をするのは実践をするためですし、、実践をするのには聴聞しないといけません。じゃあどちらかなのかと言うことは判断できません。私にはどちらなのかと言うことはできませんが、ところであなたご自身はどちらなんですか?」

こう逆に質問されてこれまで儀式ばかりやって仏典をあまり学んだことが恥ずかしくなって、さっさとその場を去ってしまったらしいです。

このエピソードにもありますように、仏典の聴聞すれば、それは必ず実践をしなくてはならないものですし、実践をするためには聴聞をしなくてはならないのです。

時間をかけて仏のことばを聞き、その意味を自らのものとする

このように仏法を聴聞して、その意味を自ら考えて、ブッダが教えてくださったやるべきことややるべきではないことをやらないようにする、つまり実践することは大切なことです。そしてブッダの教えはさまざまな教えがあるだけではなく、そのひとつひとつの教えが意味していることを自分自身の暮らしのなかで役立て、そして実践することがとても大切なことです。そのようなことを「聞・思・修」と仏教では説かれています。

またブッダが教えてくださっていることは簡単なことではありません。短時間で理解できて、すぐに実践できるようになるようなものではありません。

たとえば私がゲシェーになる前にゴマン学堂で毎日ほとんど仏典の暗記、講義の聴聞、問答ということを二十年以上繰り返しやってきましたが、その仏典の様々な箇所でいまだに分からないことは山のようにあります。ひとつひとつの教えも実際にその内容を自分の暮らしや生き方に活用できているわけではありません。

ですから数時間とか数日間とか数ヶ月仏教を勉強しただけで急激にいい人間になったり、高い境地に達することなど難しいということを最初から分かっていただく必要があります。

私たちが説明している仏教は簡単なことをするための簡単な教えなのではないのです。それは最低でも何年もかけてひとつひとつのブッダの教えに思いをめぐらせて、自分自身の場合にあてはめながら何度も何度も考えることによって、教わった苦しみを少なくする方法や幸せを増やす方法を実際に実践することができるようになるわけです。

我々が仏典を学んで問答をする時に、いわゆる異教徒、外教徒が暗記している般若経が果たして本当の般若経なのかどうか、という議論をすることがあります。もちろん過去世で多くの修行を行ったものは記憶力がよくなり、『般若経』の文章をすべて暗記して唱えることができますし、その意味もある程度解説できるようになる人もいます。しかしその人はあくまでもその『般若経』を文章として知っているだけであって、そこで説かれていることばの内容を実践しようという気は全然ないわけです。こういう場合にその人が覚えている『般若経』は、ほんとうの『般若経』とは言えません。何故ならば、『般若経』はすべての生きとし生けるものが苦しみから逃れるために、無我や空というものが一体どのようなものであり、それを理解してブッダの境地に至るために説かれているものだからです。

『般若経』はことばや文字ではなく、その教えです。ですのでみなさんもお経を唱えたり、暗記することは大切ですが、その経典の内容を理解して、その教え通りに実践すれば必ずその教えに説かれている結果が起こるであろう、という確信をもててはじめて、その経典は信仰の対象である般若経たり得るようになるわけです。ブッダの教えというのは単なることば上のではないのであって、そのことばによって描かれている身口意の実践でもあるのです。

『阿毘達磨倶舎論』で「仏教には二種類ある。ことばと思想である」と言われるように、教えというのがことばとそのことばが意味している内容を繰り返し頭に思い浮かべることが大切なのです。

このあと、さらに『菩提道次第論』を読み進める箇所が続きます。それについては次回のお楽しみ。