2018.05.29

供に応ず

「ご飯を食べずに戻ってきなさい」

ザンスカールのトンデ僧院

ザンスカールにあるトンデ僧院に滞在していたときのこと、僧院で行われる法要に参加しようとしていた時に、ゲンギャウ先生から窘められました。

チベットの僧院では、法要中はお茶はもちろん、朝食や昼食も寺の本堂で振る舞われるものです。ゲンギャウ先生や他の僧侶の方たちは、法要の合間に食事をいただかれます。もちろん、僧院の外からきている客人がいれば、僧侶の人たちと同じように食事が振る舞われます。ですが、そうすることをゲンギャウ先生から止められました。

「僧院でだされた食事を食べるのはあまりよくないので、戻ってきて自分で作って食べなさい」

僧院で法要の際に振る舞われる食事は、その法要の施主となっている一般の在家者からの寄進によってなりたっています。彼らは僧侶に供養することによって功徳を積もうとしているのです。そのため、出家者でもない人間がその食を受けて、罪を積むことを慮ってゲンギャウ先生は止めてくださったのです。

チベット人の在家信者の方から、「僧院でだされた食事は火を本質としているものです。ですので私たち在家の人たちが気軽にご馳走になるのはあまりいいことではありません」と聞いたことがあります。僧院の食事は仏飯、僧侶たちが仏道を成就するために供えられたものです。それをいただきながら仏道修行に励まない、ましては悪業を積むなどとはもっての他です。

出家者の人たちは、責任重大で大変だなあと、他人事のように思っていたのですが、よくよく考えてみると、在家者の食もそう変わりません。私たちは日常的には肉食をしていたり、他の生物のおかげで食料にありついて生きています。そこに責任があることは、寺の食と何も違いがありません。

「でも私は肉を食べないから、罪なんかないですよ」と思う人もいるかもしれません。特に今はチベット暦4月、サカダワです。この一ヶ月だけでも悪業をやめ、善業を積むために、肉食をやめている人も多いのではないでしょうか。ですが、肉を食べなくても、責任があることには変わりがありません。アボさんは、

「野菜だって、作られる時に畑を耕し、虫を殺した上で作られてるでしょう?また野菜を輸送してくるときに、トラックが虫や動物を殺しているでしょう。だから『自分は肉を食べない』と言っても、完全に罪を積んでいいないというのも中々難しいものです」

と説明しておられました。生きている限り、私達は食べることをやめることができません。肉を食べるにしろ、食べないにしろ、食事をたべるときにその食事がどのような他の生物によってもたらされたのかを考えることは、非常に重要です。

お坊さんたちはお料理上手

 

また、食事をいただく時は、必ず供養してからいただきます。

無上なる教師たる仏法
無上なる救いたる法宝
無上なる導き手たる僧宝
帰依処たる三宝に供養し奉らん

色々な食事の供養文がありますが、一番中心的なのは、三宝への供養です。そして、

心を動かす百味からなる善く調理された
この食事を仏たちと菩薩たちへと
信心をもって供養します
一切の衆生たちがゆとりある生活をし、禅定食を行じますように

と、諸仏諸菩薩にささげ、一切衆生のために祈ります。僧侶の方たちが料理しておられるのを見ていると、あまり味見をされないことに気が付きます。料理ができたらまずは最初にできたものを、仏たちに捧げ、その後にやっと、自分がいただくのですが、

この食事は薬の如きものと知ることから
貪欲や瞋恚ないものと頂戴します
自慢や驕慢な心を養うためでなく
力を出すためにではなく、ただ単に身体の安定のために

としていただきます。食はあくまでも、身体を養うことを目的としていただきます。私たちはややもすると、味を楽しむために食事を行います。お腹がいっぱいでも美味しいものが食べたい。体に悪くても美味しいものが食べたい。テレビをつけるとたくさんのグルメ番組があることからもわかるように、美食に対する私たちの欲求は際限がありません。食とはあくまでも他からいただくもの。自分の欲を満たすためではなく、己の身体を養うための薬としていただきましょう。

6月13日まではサカダワです。欲に流されずに、少しでも心安らかに過ごしたいですね。