2006.11.05

心性本浄論

心の本性は光り輝くものであり、煩悩は客塵である

またもうひとつ問題があります。無明とは心の自性にまでその影響を与えているものなのかどうかということです。インドの外教徒ミーマンサー学派の論理では、垢は心の本性にあるとしていますので、だから心が尽きなければ、垢が尽きる事はないとしています。しかし、この問題について仏教では、垢は心の本性に影響を与えていないとします。これが「心性本浄論」と呼ばれるものです。

心には「対象を明らかにし分かる」という本性がありますが、仏教ではあらゆる煩悩などの垢などはこの心の本性部分にまでは及んでいないと考えています。煩悩などの垢は一時的に心を覆い隠しているに過ぎず、それだからこそを煩悩を取り除くことができるのです。もしそうではなく、真実把握が心の本性として有るのならば、無我の理解を起こすことも不可能となってしまうでしょう。

また心の本性が「怒り」にあるとすれば、どうなるでしょうか。もしそうであれば、心が活動している間中、怒りの感情が持続していなければならないことになってしまいます。ある人間の心の中のその本性が瞋恚であるならば、その人が慈愛の心を起こしたり、修習することは不可能になるでしょう。しかし実際にはそうではありません。私たちはもちろん怒る時もありますが、それとは逆に、やさしくなる時もあるのです。ですから心それ自体は煩悩を本性とはしているとはいえないのです。

これと同じ事が真実把握にも言えることですが、真実把握が心の本性として有るのであれば、無我の理解は決して起こりえない事になります。しかし実際には起こるのです。無我の理解というのもはどんな人でもそれを修習すれば起こすことはできるものです。このことからも煩悩は心の本性までは影響していないのです。

心の本性はどうかと言えば、心の本性は「無記」なるものです。心それ自体は、善でも悪でもありません。善心でも悪心でもない。「無記」なるものです。ですから心は善い心にもなれますし、悪に心になることができるのです。

このように煩悩が心の本性にまでは影響していませんので、煩悩は心の本性においては無いものであるということになります。これは心の本性上に煩悩が一時的に存在していることですので、この煩悩と逆の把握形式であるものが心の上になるのならば、それが煩悩を払拭するための対抗手段(対治)となるのです。対抗手段となる無我を理解する智慧は、その知の正しさを裏付ける根拠があるものですが、煩悩はその裏付けの根拠を持っていません。

正しさを裏付ける根拠ある認識とそのような根拠をもたない誤った認識との二つを比べてみますと、概して時間が経てば、誤った認識はその力を徐々に失い、最終的には負けてしまうものなのです。何故なら自らを裏付けるための根拠をもっていないからです。例えば日常の対象でも、それを誤って認識していれば、例えば、弥勒仏は外教徒の神だと誤解する人がいれば、これは外教徒の神だと決めつけた認識が有りますが、他の人に聞いてみると「これは外教の神じゃないよ、仏教の神のひとつの弥勒ですよ」そう言われても気にしないで、更に色々調べてみたとしても、外教徒の神であるという理解には何らの根拠も無いのです。彼は何かの理由で、何となくこれは外教徒の神だと決めつけて思い込んだに過ぎないのであって、よくよく調べてもそれを裏付ける事は出来ません。

また遠くの対象に対して、遠くに赤い光が見える時に、そこには火が有ると思いあれは火だと思います。この時 無分別の知には、赤く見えるものが顕れています。その赤く見える顕れに対し、無分別の眼の認識によってもたらされた分別知が「これは火である」と思っているのです。それは実際には火ではなく、赤いガラスだとしましょう。赤いガラスが光の具合で火の如く顕れるとしましょう。その顕れているものに対し、分別は「火だ」と思うとしましょう。感官知には赤く見えており、感官知でもたらさる分別がそれを火であると思うのです。

この時誤った認識が起こっているのです。しかしこの火だと思う知がどれだけ強力であっても、近くに行って調べたり、遠くから様々に検証し、他の人に聞いたり、その日だけじゃなくて次の日も見てみるとか、天気が変わって光の具合も変化した時に調べてみます。そうすると火だと思う誤解を持続する事は不可能なのです。何故ならば実際の対象は火ではありませんし、赤いガラスの光なのです。

そしてこの実際の対象は、いつでも知り得るもので、そのチャンスは常にあるので誤解する知には常に対治、つまり反証が有る状態なのです。更にあれは火ではなく、赤いガラスだ思う知には、その理解を裏付ける根拠は無数に有るのであって、自分で調べてみると、どうも赤いガラスのような気もし、常に正確に知り得るチャンスが有ると同時に、誰に聞いても赤いガラスだというのが根拠が有りそうで、火であると思うのは、自分が間違って何となく火だと思う分別が有るだけで、そこには根拠は無いのです。

同様に、 真実把握これも根拠は有りませんので、それを源とする煩悩にも根拠は無いのです。真実把握の逆のものである。無我の理解にはそれが有るのです。

そしてポイントが有ります。貪欲や瞋恚といった煩悩の類いはすべて非如理作為(※)の増益により発生しているものです。ですから、それらは誤った認識なのです。

それらは真実把握が基になっているものです。煩悩には粗いものと微細なものとが有りますが、粗い煩悩は真実把握より生じたものです。
たとえば、たとえば真実把握によって独立自存の人我執が生れます。この独立自存の人我執は、粗い人我執ですよね。この粗い人我執によって、貪欲や瞋恚は生じますよね。この粗い人我執によって生じた貪瞋は微細な真実把握と相応しませんが、
しかしそれから生じたものです。微細な真実把握が直接引き出した微細な煩悩は、真実把握に相応して働いているものです。

ですので、粗い煩悩は痴と相応しなくてもそこから起こったものです。微細な煩悩とは相応しなくてもそこから生じます。微細な煩悩の方は、痴に相応しています。痴に依存しない煩悩はひとつも無いと言えるのです。

これに対して善き心、信心・慈愛・慈悲等の善い心が痴を伴わないようにするのは難しいです。我々初心者には難しいです。

たとえば信仰の対象は、真実として顕現しており、その通りに有ると思い込む真実執着によって強く執着してそれと同時に信心が起こり得るでしょう。

またある本には“有染汚の悲”というのが有りました。“有染汚の悲”これは、恐らく我々が ????貪欲と混ざり合った愛情を起こす場合のようなものでしょう。正しい論書ですよ 。そこに、“有染汚の悲”と有りましたよ。“有染汚の悲”が有れば、“有染汚の信”は有るでしょう。

我々初心者には信・悲等のある種類のものは ‥‥“有身見は仏の骨格である”という説と同じで、恐らく煩悩が、煩悩が補助する‥‥補助するとは言えませんが、煩悩と一緒に活動している。

即ち、痴である真実把握を伴う善い心というのは多分有り得る事だと思います。ですが、主として慈・悲・信というものは、痴に依存する必要があるものではありません。ですから、このように善き心は痴には依存してません。悪しき心は痴には依存してます。痴は根拠の無い知ですので、煩悩は根拠のない知なのです。善なる心は根拠のある知です。それだけではなく、我々の持つ感情の中で、自然な感情は突如として起こってくるもの。そういう感情の殆どは根拠のないものです。恐らくは誤った認識でしょう。

たとえば、強い慈悲心が起こる場合これは感情です。強い信心が起こる場合も恐らく感情でしょう。しかし、根拠を考えてその心を鍛練してゆけば発展させる事もできます。鍛練して作り上げた感情、これには根拠があるのです。正しい認識に裏付けられています。自然に突発的に起こる感情には根拠は無く、恐らくは誤解によって起こっているのでしょう。

このような事から、“心の本性は照明である”と謂われるのです。“心は心には無いのである。心の本性は照明である”このように心の本性が照明である。と説かれるのです。

ですから、痴 ・真実把握には対治がある事、 そして心の本性が照明である事。この二つの事は ??????痴には根拠が無く、無我を理解する智慧には根拠が有ること。このような事が理由となり、“心の垢は取り除ける”と確定できるのです。そして前世と来世の存在証明がここに出てきます。

たとえば、我々は身体的な鍛練を行うならば、跳躍などの練習する場合その所依は粗い身体ですね。所依は粗いものです。粗いものであるからこそ、それには限界が有ります。
何故なら粗いものは、物質的限界が有るからです。たとえば跳躍ですよ、みなさんの日本のあれですよ、力比べですよ。 何でしたっけ?「柔道? 相撲?」それそれ。みなさんの相撲を例にしても、どんなに太って力持ちでも限界があるじゃないですか。象のように力持ちには鍛練してもなれませんよね。それは本質的にムリでしょ。あくまでも粗い肉体に依存したものじゃないですか。

ですが心の中のこと。例えば空性を理解する智慧等は、最初は憶測で分かるようになり、
その後で聞所成の慧(※)によって、憶測は智慧とはならないまでも、それから何度も思うことで思所成の‥‥‥‥最初の聞所成の慧は、憶測といっていいんですかね?
どうでしたっけ?憶測と智慧は両立しましたっけ?え? 両立しませんか。聞所成の慧があり、 憶測だけの理解。これは多分有るんじゃないですか?有り得ますか?そうですか。先生の支持を得ましたよ。

そして、思所成の慧(※)はそれよりも強く、何度も何度も考えて得たものです。その後に修所成の慧(※)は、もっと強力な知となるのです。智慧はこのように連続的に強くなり、無限に発展出来るものです。

たとえば一度の人生でも、若い十代の時に考えていた事は、それを継続して何度も何度も考えれば相撲の力士の肉体の様ではなく、心を拠所とする性質であるので、修習してどんどんその思いは強くなります。

そして『量評釈』(※)では、次のような事が説かれています。心のもつ性質とは、堅固な所依(※)だとの事です。逆に身体のもつ性質は、堅固な所依ではないのです。身体には限界が有ります。人生は長くても百歳程度です。それに対して心は、特に微細な心について考えると、心相続は無始時以来存続しているものです。そのことの証明は非常に詳しく有りますが、時間もなさそうなので省略しましょう。

我々の心には識というのがありますよね。善し悪しの判断をしていますよね。この方たちは、チベット語が分かるみたいに頷いてますね。本当真面目に聴いてますね。私もチベット語分かると勘違いしそうですよ。みなさんがじっと熱心に聴き入っているので、私もそう勘違いして話をしてしまいますよ。それで‥‥ですから‥‥何言おうとしたんだっけ?

認識、認識ですよ。認識というのは誰でも経験しているものですよね。良し悪しを想うじゃないですか。最初に対象認識があり、対象を知覚した後から良し悪しの判断をしたり、いろいろ思いますよね。それらに基づいて様々に感受しますよね。これらはもちろん、神経に依存してはいます。神経に依存してますが、眼識の場合を考えてみましょう。

たとえば花を見ている、眼識が有りますよね。この眼識が起こるためには、眼根が有りますよね。これは増上縁(※)を為し、その花は所縁縁(※)を為し、所縁である花と感官である眼根との二つが揃ったことで、二つが揃ってその二つが有る事により眼の感官上に眼識が生じてますよね。

この眼識、つまり花を捉える眼識は、この花を捉える眼識が花を捉える認識を生じる為には、所縁縁はその花であり、そしてそのような眼識は形と色合いを捉えるに過ぎないのであり、音や香を捉えていませんよね。音声・匂い・味 、これらを眼識は捉えていませんよね。これはどうしたのかと言うと、感官のせいなのです。つまり根という不共増上縁を為すものです。眼根に基づき生じたこの認識は—-形状と色合いつまり“色”を捉えるだけで“声”は捉えません。

同様に耳根に基づく識は、音声を捉えますが形状や色合いは捉えません。これが増上縁の作用です。所縁縁の作用と増上縁の作用とが有りますね。この両方が対象認識を生じさせていますよね。所縁を花が為し、感官は眼根であり、これが増上縁を為し、その両者によってそれを捉える認識が生じるのです。

認識それ自体は明瞭に認識する本性で生じてますよね。それは何から生じたのかと言うと、向こうのものからでも感官からでも有りませんね。これは厄介な問題です。この明瞭な認識として生じる識の直前には、その識の等無間縁(※)が有ります。所縁縁・増上縁・等無間縁と謂われていますよね。このように感官知であれば、三つの縁により生じるとされます。

こうした事をゆっくりと検証して考えてみると、よくよく考えると明瞭な認識として生じるのは、直前の識の等無間縁だと謂いますが、そうすると直前の識の流れをずっと遡ってゆくと、また以前の明瞭な認識がなければ後続する認識が生じるのは困難です。

そこで問題です。神経と意識は別物なのか。同一なのでしょうか。同一ではなくても意識とは 、神経の活動の結果生じる可能態であるととすれば、神経が有るその限り意識が有るのであり、神経が無くなれば意識は無くなる事になります。粗い意識の場合には多分この通りでしょう。

たとえば眼識の場合はそうでしょう。眼識の場合、形状と色合いを認識する神経が無くなれば、または眼根に瑕疵があれば眼識は起こりません。しかし明瞭な認識としての意識の流れを考えてみますと、その意識の流れを遡って考えてみますと、まず意識の流れには様々なレベルがあります。粗い意識による明瞭な認識も有りますし、この粗い意識が明瞭な認識として生じる時には、微細な意識の性質により起こることになるでしょう。

これについて大究竟の典籍(※)は非常に詳しいですよ。何であれ認識はすべて光明心(※)であるという説です。これはとても大事なポイントを突いています。

たとえば通常密教では、光明は客塵意識が現前する時には、光明は現前しないし、光明が現前する場合には、粗大な客塵意識はすべて滅している。通常はそうですね。顕明・増輝・近得が滅した後に、光明であるとしていますよね。光明が滅した後に、顕明・増輝・近得が始まるとしますよね。

大究竟のテキストでは、「現行の光明」つまり光明のみが意識に表面化している状態は、顕明・増輝・近得の後でないと起こりませんが、顕明・増輝・近得は光明より現れたものですよね。顕明・増輝・近得が光明より現れる限り、顕明・増輝・近得であれば光明の種姓を有するとしています。これはとても大事な説ですね。

顕明・増輝・近得と進む過程で八十自性の分別や粗大な客塵の意識は滅しますが、これらはすべて微細な本来意識の意識下で起こっており、それを自性としています。それゆえにすべての意識が明瞭な認識となる等無間縁のその根本のものは本来意識、即ち光明が想定しているのです。

光明という限り、 これは粗大な身体には依存しないものです。これは明かです。

たとえば人の臨終に際し、多少修習をした類いの者は、呼吸は停止しそれ故に脳神経の活動も停止します。脳内の血流も停止することで数分で脳死に至ります。そして脳死したその後に、古い肉体がそのまま留まる事があるじゃないですか。最近では、ダラムサラである行者は四日間そのままでした。それ以外に、十数日留まっていた人も居ました。
マイソールか何処かでは結構長かったですよ。確か2¥UTF{FF5E}3週間留まっていたんですよ。

この間は古い肉体は、腐敗することはありません。呼吸は停止していますよ。医者が診れば死んでいるとするでしょう。しかし死んだ後でも肉体はそのまま留まるじゃないですか。こういう例も有りますが、この現象はどう説明されるのかと言いますと、本来心の光明が未だ古い肉体に有る状態だと言います。

我々は仏典の中では、光明に留まっている者は、死の段階には居るが、死んだとは言われないのです。あなたは秘密集会を聴聞してますよね。光明が現行している段階は死につつある段階であると言いますよね。「死につつある」のであり、「死んだ」のではないのです。その後「光明が滅した」というのは、それは光明が無くなるのではなく、光明が古い肉体の外に出て行くことです。光明が肉体の外に出て行った時、「死んだ」という事になります。このような説明をしなければ難しいのです。

以前、科学者たちと一緒に死の光明に留まる人の事をチベット語ではこれを「入定する」と言いますよね。死んだ後に「入定する」と言われるこの段階についてもっと研究する必要が有るという話になっています。研究の予定は有りますが、死んで入定する人を待っているんです。お願い出来るならケンリンポチェにお願いしますよ。「入定してくださいね」と。私たちの研究のためですよ。約束して下さっても入定されないと困りますよ

心とは無限の可能性を有するものである

言い忘れました。ダルマキールティのところです。ちょっと言い忘れました。偈の文は思い出せませんがこういうことです。

心にある長所というのは、所依が堅固であること。一度修習すると、 それを再度努力を必要としないことです。たとえば肉体的な鍛練は、更なる努力を必要としますよね。たとえば、準備運動して再度練習しなくてはいけませんよね。心にある長所というのは、
一度修習してしまえば思った瞬間にまた再現でき、準備運動は必要有りません。ですから所依が堅固なのであり、それは無始時以来あるのです。

今生から来世へ、前世から今世へ。そう引き継ぐことができるのです。そのような堅固な所依であり、更なる努力を必要としません。それ故に心に起こる長所は、無限に発展する可能性が有るのです。


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