2016.09.28

三義心髄観想次第・兜率往生の梯子

B1 今生の実践たる継続的本尊行法

本偈にはこうある。

無常・苦を想起するのである
大悲を完全に起こすのである
頭頂には師を 心臓部に本尊を
自心は不生を修習すべきである

ここで意味される行には四つある。C1縁分たる増長の教え、C2本分たる菩提心修習の教え・C3方便たる師本尊に対する請願の教え・C4本体たる自心不生の修習の教え。

C1 縁分たる増長の教え

C1について一行目で〔「無常・苦をを想起するのである」と〕示される。

これも「無常」「を想起する」「苦」を「想起する」と〔文章を〕連節し、前者で、今生に対する期待を退ける因として、死期は不確定であるという死の無常の修習が説かれており、後者で一切の輪廻は苦を自性とすると知ることで、一切の輪廻の円満への期待を退け、輪廻から解脱したい、という不作為の意識を起こすための方便が説かれている。
この二つを代表とする下士共道次第修心次第と中士共道次第修身次第でのすべての観処をこの段階で実践すべきものである。ここでそれらを挙げると多くなる恐れがあるので、〔それらの詳細は〕勝者〔ジェ・ツォンカパ・〕ロサンタクペーペルが著された菩提道次第それ自体から理解するとよい。

C2 本分たる菩提心修習に関する教え

〔本頌では〕

大悲を完全に起こすのである

と説かれている。

自らが輪廻から解脱することだけ追求するのではなく、一切有情の利楽を成就せねばならない、という責務を自身の心に固くて起こす。そしてそのために最勝菩提へと発心し、勝子行を学ぼうとする強い心を修習する。これも因果七訣による菩提心の修心・自他等換による菩提心の修心という二つがあるが、これも『菩提道次第』や『大乗修心口訣』などから理解するとよい。

C3  方便としての師本尊への請願に関する教え

これに関してまた、自身が最勝菩提に発心し、二資糧を究竟し仏位を成就した後、一切有情を輪廻から解脱させるのは当然だが、いま現在の自分にはその能力はないので、輪廻と悪趣のこの耐え難い苦から一切の衆生をいますぐ救済する帰依処が必要なのであり、それもままた聖観自在および賢劫千仏に請願する必要がある、と考える。

avalokiteshvara

〔そして次のように思う。〕自らの頭頂に水晶の無垢な仏塔がある。それには千の門があり、外から見れば、内部から光を放っており、光明を本質としている。この内部には蓮華座と月輪があり、その上に、本体としては〔現在のいまの〕恩師・根本師であるが、相としては至尊聖観自在菩薩が居らっしゃる。御身は雪山の如く白く、一面四臂にして、第一臂・第二臂は合掌し、右下臂は摩尼水晶の数珠を持しており、左下臂は白蓮華を持している。御足は結跏趺坐にて座しており、宝石や様々な緞子で飾られた御衣をお召し給われる。相好で荘厳されているその御身が、顕れているが無自性であるのは、天空の虹のようであり、光明の大きな集塊の中に座して居られるのである。このように修習する。
千の門には賢劫千仏、しかも東方には御尊身は白色たる大日如来、南方には御尊身は黄色たる宝生如来、西方には御尊身は赤色たる無辺光如来、北方には御尊身は緑色たる不空成就如来だけがおられる観じる。以上が頭頂に師を修習する作法である。

ある指南書ではカサルパニ観音の修習を書いているが、意味上は違いはなく、現在六字念誦の時、四臂念住を修習する者が多いので、このように〔四臂観音で〕記しておいた。
心臓部に本尊を修習する作法は以下の通りである。

まず自分の心臓部に、紅い蓮華があり、千枚の花弁が咲き開いていると修習する。その中心の月輪の上に、自分の心と無区別な本尊大悲観音がいらっしゃる。それは頭頂に修習するものと全く同じく、光明を本性とし、無垢なる白い阿字を修習し、観音の御胸元の月輪の上に白いキリーク字とその端で回っている、六字真言輪とを善く修習する。その後に、頭頂の師・観音及び賢劫千仏を所縁とする強烈な信心が生じ、眼からは涙がこぼれ、身体の毛穴が動き、強い悲痛一心となる。そのことによって、「師本尊大悲者よ、私の父母たる六種の有情たちは、輪廻という苦海に縛られており、護り主がを持たない。救いを持たず、悶え苦しんでいる。この者どもを、輪廻の苦しみというこの大海より救い給え、速やかに救い給え、この場で救い給え。」と強烈に請願することで、頭頂の観音の御身より光が放たれ、心臓部の観音を照射し、賢劫千仏の御身よりも光が放たれ、心臓部の千の阿字を照射する。

それにより心臓部の観音及び千の阿字から、本性はそれらの不二の智慧であるが、形相は白い甘露たる者の無量の流れが流出し降り注ぐことで、身体の内側のすべてが〔甘露によって〕満ち溢れる。〔身口意の〕三門の罪障及びその習気のすべては、煤・炭・蠍の形相で、身体の毛穴及び全ての根門より黒い膿として外に排出され、瑕疵なき水晶の如く、はっきりと相好を具足した観音の身体と成る。

この甘露の流れ自体はまた、毛穴や根門から外に溢れ出て、はじめに地獄世間へ至り、地獄のすべての場に充ち溢れて、地獄の者たちは、灼熱・寒冷といった苦とそれらの因たる一切の業と煩悩が根本から浄化され清浄なものとなる。そして彼らの器世間たる、燃え上がる鉄の大地、燃え盛る家宅、凍える暗黒の耐えがたい狭い独房、これらすべての器世間は忽ちに無くなり、極楽浄土の如く、宝石を本性とし、広大なものとなり、それに触れるとなめらかであり、楽のみのものと成る。そこに住む一切有情も聖観自在の御尊身、すなわち顕現しているが無自性な虚空の虹のようなものだけの者たちとなった、と修習するのである。

これと同じようにこの同じ甘露の流れは、順に、餓鬼・畜生・修羅・人・欲天・色天・無色天といったすべての場にも至る。そして順に、餓鬼たちは飢えと渇きの苦しみ・畜生たちはお互いに食べ合い、蒙昧で話ができないなどといった苦しみ・修羅は争いの苦しみ、人は、生老病死の苦しみ・欲天は死後の転生で下落する苦しみ・色天、無色天の遍行する苦しみ、そしてそれらの因たる一切の業と煩悩は浄化され、清浄となり、それらが位置する一切の器世間は、極楽浄土の如きもののみとなり、そこに住む一切衆生も聖観自在身以外には居なくなった、と修習する。

この〔頭頂・心臓部における観想の〕後、六字真言を念誦したければ、聖者として顕現している自分の口より、摩尼の音声が発現する。観音たる一切有情たちの口からも、摩尼の音声が見える限りのものが揺さぶられるように、すべての者たちが発声している、と信解する。そして可能な限り〔六字真言を〕念誦する。

最後に座を措く時、自己の心臓部の本尊の胸元のキリーク字から光が発し、極楽の如く顕現した一切器世間を照射し、それらはまた光の中にすべて溶解し、観音として顕現しているそこに住む衆生へと溶解する。それもまた光にすべて溶け込んで、それが自己へと溶解する。頭頂の観音は光に溶解し、〔それはさらに〕心臓部の観音へと溶解し、賢劫千仏の千阿字へと溶解し、〔頭頂に観じている〕仏塔は天空で虹が消えるが如く消滅する。観音として顕現した自己もまた、心臓部の阿字を有する蓮花の花弁へ、更にその中心の観音へ、更に胸元の真言輪と蓮華座へ、更に胸元のキリーク字へと溶解する。最後にそれ自体はまた認識できないと思い、〔空性に対する〕見に三昧することとなる。

C4本体たる自心不生の修習の教え

C4の本体たる自心不生の修習の教えには、人無我の修法・法無我の修法との二つがあるが、ここで簡潔に述べておきたい。

はじめに、私たちの心相続には〝私である〟と捉える強烈な意識が自然発生している。したがって、この意識にどのように〝私〟が顕現しているのかを考える時、自らの五蘊の上に〝私〟と仮説されただけのものであったり、顕現しているだけのものではない、五蘊の上に、その意識が対象としているはずである、何らかの〝私〟というものがはじめから成立して有るかのように顕れているのである。これはちょうど、〝天井を支える用途を果たし得るもの〟を見ている時、そこに〝柱〟であると思う意識は自然に発生しており、その意識に柱が〝顕現している通りである〟と考える時、その木材の上に、この意識によって〝柱〟であると仮設されているだけでのものではない、この木材そのものの上に、〝柱〟として成立しているかのように顕れているのと同様なのである。

そのように成立しているかの如く顕れているにも関わらず、五蘊という対象の上には〝私〟というべきものがきちんと成立していることなどは決して無い。たとえば、〝柱〟も、天井を支える木材に対して、分別によって命名されているもの以外に、この木材の対象の上には、〝柱〟として存在しているものは全く無いからである。自らがそれを〝柱〟であるとする言説を為さない限りにおいて、〝柱〟であるという意識が起こったり〝柱〟という言説を為すことは無いので、〝柱〟としては成立していないが、その後に、その上に「柱」と命名して以降、それを見ることを「柱を見る」などという言説が起こることになる。

それ故に〝柱〟とはその木材の上に命名されただけのものに過ぎないのであって、それの側から〝柱〟として成立するべきものなど少しも無い。同様に、母親から生まれたばかりにある子供に「タシー」などと命名した時、その子を見ると「これはタシーだ」と思う。これもその子供の側から「タシー」として成立しているもののように現れてはいるけれども、その子供の方から「タシー」として成立しているわけではないのである。何故ならば、もし成立しているのならば、そのような命名をする以前にその子を見たときに「これはタシーである」と思う意識が生じ得るはずである。しかしながら、そのようなものが生じることなどは無いからである。したがって「タシー」というのももた、その子に対して、意識によって命名しただけのものとしては成立しているが、これらの比喩で表現さる〝私〟・〝蘊〟などの一切の諸法も各々の仮設基体上に仮設主体たる分別によってそちら側へ仮設されているに過ぎないものなのであって、対象それ自体に基づいて成立しているものは何も無い。このように常に確定する三昧を修習し、後得においても、顕れている対象は顕れているそのすべてのものが顕現してはいるけれども、顕現しているその通りにそれ自身の側から成立しているもに関して空である、幻の如きものが顕れていることを学ぶのである。ここでは見の修法を短く分かりやすく説明したに過ぎないが、詳しくは〔この文章の〕ほかに見を指南する文書があるので、それより理解するとよいだろう。

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