夜が明けるように、そして明日があるように


Created: 2015-10-04 Last updated: 2016-01-20 Author:野村 正次郎

私たちは毎日夜になると眠りにつき、明日の朝起きるだろう。今朝もそうだったし、明日の朝もまたそうだろう。特に今の秋の時期の夜明けは何よりも美しく、夜になるとさらに清澄な月が輝いている。

この世の誰しもが明日があることを前提に暮らしている。「明日はもう来ないから、今夜で終わり」そう思って生きている人はほとんどいない。今日は日曜日なので仕事も休みだが、明日からまた仕事だなってほとんどの人が思っているはずである。私がこの文章を書いている時も、そして人々がこの文章を読んでいる時も、誰しもが明日があることを疑っていない。

いまの日本で、明日は来ないと思い、その日暮らしで過ごしている人など殆どいないだろう。スーパーに行って明日の朝食のための買い物をしない人など殆どいないからだ。

私たちは明日が来る思っているのと同時に明後日、明々後日、そして来週、再来週、来月、来年くらいまでは確実にあると思っている。「将来のことを考えなさい」ということは家庭や学校で教わってきたことだし、「その日暮らしで享楽的に生きるのはよくない」と教わってきた。成人すれば、もう少し先のことを考えるようになり、仕事をしはじめれば数年先、数十年先のことまでの活動計画や事業計画を建てるのが一人前の大人としての常識とされる。もちろん1日1日のその日のことは大事であるが、その日のことは次の日以降の「未来」のために活動している人がほとんどなのである。あらゆる仕事は明日のためにある。

そのうちいい歳になれば、私たちは老後のことを考えなくてはいけなくなる。同時に社会の行く末をも考慮しながら年金を支払わなければならなくなる。これは二十歳前後で年金の支払い義務があるにも関わらず滞納している人間であっても、そのうちやってくることだ。もう少し歳をとれば、家族の死、友人の死を経験する。そして、同時に自らの死を見つめはじめるようになる。墓地を買ったり、葬儀のことを考えたり、自らが築いたほんのすこしの財産を、遺る人たちに残すことを考えるようになる。いつかは必ず訪れる自らの死のことを考え、死の準備を行い出すのが普通の人間なのである。

すこし思いとどまって考えてみよう。

私たちの大多数の人間が自らの死をいまの我々の終焉であると考えている。自らの死後、自分がこの世にいなくなった時に、たとえば大地震が起こったり、宇宙から隕石が落ちてきて、この地球が滅びてしまうことなど考えていない。自分の死後もこの世はそこまで急激な変化はやってこないことを前提で考えている。

死は、私たちの人生の一応の区切りであり、その後のことは実は曖昧にぼんやりとしか考えていない。というのも考えても結論がなかなか出るものでもないし、そのことを考えても今のところ関係なさそうだし、考えても仕方ないような気がするからである。これがこの日本で暮らす私たち日本人の一般的なメンタリティであり、常識である。

 

 

 

 

しかし私たちと見た目も良く似ているチベットの人たちは全く違うことを考えている。

チベットの仏教では「宗教」というものは、まずは自分たちの死後のことを考えることからすべてが始まるといわれている。現世のことだけを考えることは宗教ではないとされる。

だからこそ多くのチベット人たちは、今生のことだけではなく、まずは次の世のことを考えて、真言を唱えたり、仏跡巡礼を行ったり、聖地巡礼を行ったりしている。今生で何をするべきか、今生がどうあるべきか、それは来世がどうありたいのか、来世にどうなりたいのか、そのことを考えることからその行動や思考は決定されるのである。私たち日本人が明日のことを考えて、今日様々な活動をして生きているのと同じような感覚で、インドやチベットの人たちは来世以降のことを考えて、今生で様々な活動をして生きているのである。

では、いまの我々のように今生の終わりまでくらいしか考えていないということはどういうことなのか、考えてみよう。

それは来世やもっと先の先の事まで考えている人たちから見ると、きっと「その日暮らしの人」「将来のことをちゃんと考えていない人」ということになる。

これはよくよく考えると実に残念な感じだ。多くの日本人はアジア一の文明国家で暮らしていることで、自らに誇りを持っているが、インドやチベットの人たちから見ると「将来のこともちゃんと考えれない人」にしか見えないのである。もちろん彼らがそれを口にだして言うことはない。しかし彼らのメンタリティと視座に立ってみると我々は何とも情けないことをやっているわけだ。

我々は来世やそのずっと先から考えて生きている人たちから見れば、「享楽的に現世だけことしか考えていない人」に過ぎないし、それは我々が「2、3日先の事しか考えていない人」と見下しているのと全く同じ構図なのである。

チベットの僧侶たちが私たちに教えてくれる、とても大切なことは「死は、いまの身体といまの精神とのつながりがなくなるだけであって、その精神、つまりあなたの心、それはあなた自身がこれからもずっと付き合っていかなくちゃいけないものなんですよ」ってことである。

ケンスル・リンポチェやゲン・ロサンは、日本人が生真面目に働いている姿を見て、「これだけ現世のために働いていれば、たとえ今生で成功しなくても、来世もきっと金持ちに成るでしょうね。こうやって日本は豊かな国になったんですよ。」とよくおっしゃっていた。

今日もまた私たちは眠るだろう。明日もあることは分かっている。眠って目が覚めたら別世界になっているわけではないし、急激に大金持ちになっている訳ではない。来るべき「明日」、そして「将来のために」生きている。しかし「来世」「後生」のために生きていることは少ないのである。

明日のこと、来週のことを考えるのと同じように「来世」「後生」のことを考えてみると、それがそんなに遠い世界のことではないような気がするはずだ。そんなに難しいことではない。

直近の明日のこと、明後日のことが突然思い通りに変わることがないように、来世のこと、数百年先のこと、そして自分とそれを取り巻く環境が今の私たちの心が触れ、感じる何かとの密接な関係があることを知っているからだろう。そして同時にダライ・ラマ法王にしても多くのチベットの人たちにしても非常に楽観的であるように、今生のこと、この数十年のことは、そんなに長いタイムスパンでないから、小さい事にいちいち拘る必要がないことが分かるようになり、気楽になれるようになる。

 

 

 

 

インド・チベットの仏教では「輪廻転生」は信じるものではなく、当たり前のことである。「輪廻」とはいま私たちが持っているこの身体と心の組み合わせであり、「転生」とは、この心が別の身体を様々に変えていかなくてはならないことである。私たちの身体は、賞味期限がある食べ物と同じように使用期限がある。しかし私たちの心は無限の未来へとパッケージを変えて継承されてゆくものなのである。

最近はスマートフォン、スマートカーなど様々なものがある。我々も「スマートな人間」になりたいと昔から思っている。まずはその日暮よりは将来のことを考えて生きる方がスマートだってことは分かる。

しかしスマートであるということと、「智慧がある」ということは少し異なっている。古来の宗教が教えていることは、「スマートな人間」なのではなくて、「智慧のある人間」(wise person)になるなり方である。

もっと「智慧のある人間」(ワイズ・パーソン)になるためにはどうしたらいいのか、そのことが知りたければ仏典を紐解いたり、多くの伝統宗教の聖典を紐解くことで少し垣間見ることができると思う。

すべての宗教が説いている、利他主義、愛や思いやり、自戒、そういったものは、「智慧のある人間」(ワイズ・パーソン)になるためのなり方の一つである。例えばアボが言っていることは至って当たり前の言葉であるが、「智慧のある人間」(ワイズ・パーソン)の言葉であると思う。

仏教や伝統宗教というものは、私たちにとって遠い世界の教えなのではない。ちょうど今宵の後に明日が来るのでどうしたらいいのかを考える材料がいるのと同じように、私たちにとって、死後の「将来のことを考える」ために必要な叡智のひとつなのである。

勝者釈迦牟尼仏と我々とは本来優劣があったのではない。我々は無始時の過去の輪廻より同じようにように輪廻転生してきた。ある時は我々の方が王で、彼が我々の家臣や召使いであった時もあった。またあるときはこれとは立場が入れ替わっていたこともあったのである。あたかも我々は沸騰した湯のなかに居たかの様であった。しかしある時彼は大乗の種姓を覚醒し、他者を重視する心を起したのである。特に自分の相棒が火の車を引くことが出来なかったことを思いやり、その思いが耐え忍ぶことができなかったので、自分が彼の仕事を引き受けてやろうと考えたのである。そしてそれによって罪業が尽き、上界に生まれたのである。この時以来、善趣に生まれるはじめ、そして現在はは自利・利他の二つの目的を任運自在に成就する、あらゆる衆生の唯一の救いの拠り所となったのである。我々も自己愛に支配されこの世界で食物・宝物・財産・権力・名声等といった、目に見え、耳で聞こえる限りのものを、すべて自分だけが得れればいいし、そうなると考えているかも知れない。しかしながら、すべての楽しみや幸せは虹を追い掛けるかの如く、どんどん遠ざかっているのであり、一切の苦しみが太陽が影を落とすかの如く絶えずこちらに集まってきているのである。このようにさまざまな現前の苦しみと潜伏している苦しみという二つの重荷に押し潰され、如何なる術をももたず、あたかも錨の如く、強く束縛されているのである。そしてこれがいまの状態なのである。以上のことから、利己主義と利他主義とのどちらが正しい選択肢なのか、そして過失はどちらであり、功徳はどちらであるか、という差異を、そして正等覚たちと我々との優劣というこの歴然とした事実から知るべきなのである。

グンタン・クンチョク・テンペー・ドンメー著『自他等換修習法』

近年ダライ・ラマ法王の後継者問題についてよく聞かれることがある。マスコミもいつも同じようなニュースばかり流しているし、様々な意見をつべこべ言う人がいるが、まずはこの問題についてはダライ・ラマ法王自身の書かれた勅書をこのサイトに翻訳して載せてあるので読んでみてほしい。ただ少し難しいかもしれない。

しかしそれは私たちが今日も夜が明けるのを体験し、明日が来るようなものなのである。