Last Updated: 2020.09.22

『無尽慧所経』でどのように了義・未了義が説かれているのか。

ジェ・ツォンカパ ・ロサンタクパ著『了義未了義判別論・善説心髄』試訳(4)
訳注:野村正次郎

A2 『無尽慧所説経』に基づく立場

A2の『無尽慧所説経』に基づいて、了義・未了義を判別する立場には二つある。B1 経典でどのように説かれたのかを提示する、B2その意味が如何に解釈さているのか。

B1 経典でどのように説かれたのかを提示する

主龍樹父子は、了義・未了義を判別する経典の典拠を直接述べて、了義未了義を区別することはないが、経典の意味を解釈するという方法で、意味上説明しているものは有る。これはまた『明句論』(1)L. de la Vallée Poussin, ed. Mūlamadhyamakakārikās (Mādhyamikasūtras) de Nāgārjuna avec la Prasannapadā commentaire de Candrakīrti. Bibliotheca Buddhica 4. 1903–13. Reprint, Tokyo, 1977. PrP (b) P. L. Vaidya, ed. Madhyamakaśāstra of Nāgārjuna. Buddhist Sanskrit Texts 10. Darbhanga, 1960. 『般若灯論釈』『中観光明論』では『無尽慧所説経』Akṣayamatisūtraを典拠とされて、その通りに了義・未了義を設定すると説かれているので、ここではこの経典を典拠としなくてはならない。その経典は次のように説いている(2)Cf. Prasannapadā: uktaṃ cāryākṣayamatisūtre, katame sūtrāntā neyārthāḥ katame nītārthāḥ / ye sūtrāntā mārgāvatārāya nirdiṣṭā ima ucyante neyārthāḥ / ye sūtrāntāḥ phalāvatārāya nirdiṣṭā ima ucyante nītārthāḥ / yāvad ye sūtrāntāḥ śūnyatānimittāpraṇihitānabhisaṃskārājñānānutpādābhāva (nirātma) niḥsattvanirjīvaniḥpudgalāsvāmikavimokṣamukhā nirdiṣṭāḥ, ta ucyante nītārthāḥ / iyam ucyate bhadanta śāradvatīputra nītārthasūtrāntapratiśaraṇatā, na neyārtha(sūtrānta)pratiśaraṇatā, iti // 。

了義の経典とは何であり、未了義の経典とは何か。

如何なる経典であれ、世俗の証明を説くもの、それは未了義と謂われる。如何なる経典であれ、勝義の証明を説くもの、それらは了義と謂われる。如何なる経典であれ、様々な文や文字を説くもの、それは未了義と謂われる。如何なる経典であれ、甚深にして見難しく、解しがたいものを説くもの、それは了義と謂われる。

如何なる経典であれ、我、有情、命、養者、意生者、儒童、作者、受者と様々に称されるもの、それは未了義と謂われる。如何なる経典であれ、事物は空性であり、無相であり、無願であり、無作為であり、生じることはなく、生じたものでもなく、有情は無く、命は無く、人は無く、所有者は無いという解脱門を示しているもの、それらは了義と謂われる。これが了義に依るのであって未了義に依るべきではない、といわれることである。

最初の文では、二諦が了義・未了義とされ、言表されている対象を通して了義・未了義が区別されている。次の二文では、世俗を説くものは、異なる様々な文で様々な対象を示すもであり、勝義を説くものは、理解しがたい義である戯論を排除した一味なるものを説くものである、と説明しているが、異なった設定の形式が有るということではない。如何なるのが、説かれることで、世俗・勝義が説かれるのか、という説示の形式について最後の二文で説かれている。すなわち、「我」や「有情」等が有る等と説くものが「世俗を説くもの」であり、それはただ単に説かれるだけでなく、これらの行為者に基づいた、行為対象・行為たる事物は有ると説かれたそのすべてのものが表現されている。「事物は空性であり、…生じることはなく」などと説かれるのは、〈法〉の無自性〉を説いており「有情」は無く…などの説明は〈人〉の無自性を説いている。こうした説示形式で説くものが「勝義を説くもの」である。

ここで両者とも説明される文脈によれば、前者(世俗)にも、〈法〉と〈人〉の二つが有ることが説かれてなければならない。しかも何かの別な常住な〈法〉たるものを限定基体とし、〔それが〕不生等であると説明されるのではなく、『同経』で説かれるその「蘊」等の事物(法)や〈人〉を限定基体とし、それらが真実は無いと示している。それらの基体が真実として成立していることを単に否定排除しただけの、それだけのものが勝義であることによって、「勝義を説示する」と謂われている。『三昧王経』でも、

善逝によって空であると説かれるその通りに、
了義経の個々のものが知られるのである。
そこで有情・人・士などと説かれている、
そのすべての法が、未了義であると知られる

と説かれているが、この了義・未了義の区別も、先のもの(『無尽慧経』)と意味内容が一致するものとして『明句論』は説明する(3)Cf. Prasannapadā: tathā cāryasamādhirājasūtre / nītārthasūtrāntaviśeṣa jānati yathopadiṣṭā sugatena śūnyatā / yasmin punaḥ pudgalasattvapūruṣā neyārthato jānati sarvadharmān //

未了義経によって所化たちを導く必要があるが、それが〔未了義、つなわち導くべき意味という場合の〕「導く」という意味ではない。経典で示される意味が、それであるのか、もしくは、それとは別のものへと導いて解釈する必要があるのかどうか、というこれがここでの「導く」という意味である。

意味を解釈しなくてはならない場合にもまた二つがある。すなわち「父と母を殺して」という「父と母」を殺すと説かれるものを、直接表示される「父と母」とは異なる「業の有と愛」のことだと解釈しなければならない形式がまずひとつである。これに対し第二の形式としては、「白黒の業から楽苦は生じる」と説かれるとき、〔立論者が〕「二業から楽・苦が生じるこのことはその二つの真理である。他にはそれらの真理は無いので、この経の意味はこれだけのここで確定しており、他のものへと解釈するのは不適切である」と語る人たちに対して、「その二つのものが意味する真実義は、直接表示された以外の他の〔不生不滅などの〕ものだと解釈しなければならない」と語ろうとすることもあるだろう。このようなことから『中観光明論』では次のように説かれる。

了義とはまた何を指しているのか、といえば、何であれ、量を備え、勝義について言及し説明しているもの、のことなのである。これはそれ以外の他の如何なるものへとも導けないからである。

もし説かれた通りの意味の有無を了義・未了義とするのならば、それは量を備えているだけで充分なのであるが、それだけでは不充分であり「勝義について言及し」と説かれているのである。

しかるに「種からは芽が生じる」等と説かれる場合、説かれた通りの表現対象には、量たる能証が有るにも関わらず、勝義について言及するものではないので未了義となる。この意味とは異なった他の意味へとどう解釈するのかは既に説明した通りである。それ故、諸々の事物において、「真実なる生起は無い」と説かれる場合、量をも備えており、説示されたこの意味がその法の実義ではない異なった他の意味であるとは解釈出来ない類の諸々の経典が了義なのである。何故ならば、二つの解釈形式のいずれの観点からも、他のものであると解釈できないからである。

この意味を他のへと解釈する必要があるのか否かを述べて、了義・未了義であると設定する時、教説それ自体を定義基体として、他のものへと導く必要があるものは未了義であり、他のものへと導く必要のないものは了義である、とする時には、世俗・勝義を指して未了義・了義と言われているのである。『本地分』では、「人に依らず、法に依れ」という場合の「法」に「句」と「意味」との二つがあり、「意味」には「未了義」・「了義」の二つがあり、「了義」には「識によらず智に依る」と説かれるのと同様である。

また『智光荘厳経』でも「何であれ了義なるもの、それが勝義である」と説かれており、『無尽慧所説経』では不生等が勝義であると説かれているのは、不生等だけが勝義であり、それを説くものだけが了義であると捉えるのである。「否定対象に対する限定語がその箇所では付加されていない不生等は言葉通りではないから了義ではない」と捉えるのではない。たとえば『十万頌』では「これはまた世間言説においてであり、勝義においてではない」と諸法の生起等に関して一箇所で付加されば、別の箇所にも意味上既に適用されているので、直接は語らないそれらはまた言葉通りのなのである。

B2 その意味が如何に解釈されたのか

 B2には二つある。C1主龍樹は経典の意味を如何に註釈したのか、C2それに従う者たちが如何に註釈したのか。

C1 主龍樹は経典の意味を如何に註釈したのか

 C1には二つある。D1 縁起の意味が無自性の意味であると如何に註釈したのか、D2 そのことが教説の意味の心髄であると如何に讃嘆したのか。

D1 縁起の意味が無自性の意味であると如何に註釈したのか

経典では〔初転法輪では〕「生滅等は有る」とも〔中転法輪では〕「〔生滅等は〕無い」とも両方ともが説かれ、〔無尽慧所説経などの〕ある経典では不生等と説かれたのは了義であり、また別の経典(『解深密経』など)によればそれは未了義と説かれる。

それらのなかで〔般若経で〕「勝義として、もしくは自らの相による、生起等は無い」と説かれるものを〔唯識派の解釈のように〕もし言葉通り〔の解釈〕とすれば、正理の拒斥が有るとしよう。もしそうであれば、自らの相によって成立している個体と生滅等が無い、というのは遍計所執のことが密意される、他の二つはそれ自身の相によって成立している、否定されて無いと説かれる〈法我〉とは、諸法の個体や特殊体として言語化された個体として、自らの相によって成立している所取・能取という別異実体たる遍計所執に過ぎない、と解釈し、それらが欠けていること自体が究竟の実義である、と〔『解深密経』〕解釈することが正しいことになるだろう。しかしながら、そうした〔般若経に対する〕そうした拒斥は有り得ない。何故ならば、この〔唯識派の解釈の〕ように、もし勝義として、あるいはそれ自身の相によって成立している自性が有るならば、諸々の果が因縁に依存していることが極めて対立するからである。

しかるに因縁に依存していることによって、自らの相によって成立することが無いものであるが、〔自立派が〕「自らの相によって成立していなければ、繋縛・解脱・取るべきもの・捨てるべきもの・因・果は畢竟無となる」と述べることはは、自らの相による成立者たる自性に関する空を証明する究極のものを〔自立派は〕究極の拒斥として捉えることなのである、と説明し、主龍樹が「仏母経典とそれに相応する教説の意味は、他の意味へと解釈できず、その意味に確定している了義である」ということを証明する能証原理であり、それらに相応しないことを説く経典(『解深密経』など)は言葉通りでは原理上拒斥がある、と示すという道統を開いたのである。

「自らの相によって成立していないと見ているなら、三相すべてに対して損減見を生じる」と『解深密経』で説かれるのは、そのように見ている〔中観派を含む〕すべての者に対してではなく、〔唯識派等の〕最勝なる知を有していない所化に対してである。それ故、所化の思惑によってそうに説かれているのであって、釈尊の御意向なのではない。最勝なる知を有する所化(中観派)は、因果を規定しなければならないから、自らの相に関して空であると理解しているので、この者(中観派)にとってはそれが損減見(唯識派の見解)を排除するための方便となるからである。その〔損減見を有する〕所化(唯識派)にとっては仏母経典は未了義であり、『解深密経』は了義となり、これは『四百論』で〔「最高のものは無いが、我執が勝れたものである」とする〕無我を説示する器として不適切な所化には、我・無我という二つの説示のうちの前者がより勝れたものとなる、と説かれるのと同様である。

『根本中論』でも、

もしもこれらが一切が空であれば、
生じるものも無く、滅するものも無くなるだろう。
聖者にとっての真実である四つのものが、
汝にとっては無いこととなるだろう。

等と説かれている(4)Mūlamadhyamaka-Kārikā XXIV k.1:  yadi śūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ / caturṇām āryasatyānām abhāvas te prasajyate //これに対する「諸法は自らの相によって成立する自性に関して空である(無自性)とすれば、生滅は不可能であるので、輪廻・涅槃という〔縁起の〕一切の規定が妥当しないことになる」という〔声聞部・唯識派からの〕論難であり、仏母経典を言葉通りとした場合の対立原理を示すものである。

これに対する反論として、

もしもこれら一切が空でないならば、
生じるものも無く、滅するものも無いことになる。
聖者にとっての真実である四つのものが、
汝にとっては無いこととなるだろう。

等と自性空でない場合には、生滅たる縁起は妥当しないので、一切の規定が妥当せず、「自性空であるという命題において、それら一切が極めて妥当する」と自性空の意味が縁起の意味であること(5)「縁起の意味が空の意味である」ということについては長い議論が『四注』や『入門大註』にある。を説いている。

阿闍梨はまさにこの次第を中観論書において確定するのだが、これは生じるなどの真実が無いと説かれた教説が言葉通りで正理の拒斥が少しも無いことを解説しているものである。それがなければ、他の観点からそれらを未了義であると注釈する術も無いので、それらは了義として明確に成立することになることを意図して『明句論』では、

阿闍梨(ナーガールジュナ)は了義・未了義の経典の区別を説くために、この中観論書(『中論』)を著されたのである。

と諸法における滅から異義に至るまでの八者が有ると説かれているものとないと説かれているものとは対立するという論難に対する答えとしてそのように説かれているのであり、また『同書』では、

このように説かれた密意を理解しない者は、ここで実義の意味を有する教説とは何であり、密意をもつものとは何か、と思う疑念をもつだろう。また知性が劣っている者は、未了義の教説を了義であると理解してしまうのである。この二つの疑念と誤解を正理と聖言の両方を通して否定しようとするために、阿闍梨(ナーガールジュナ)はこれ(『中論』)を著作なされている。

とも説かれている。

『経集』では、甚深法とは何かという質問の答えとして『十万頌』『能断金剛』『七百頌般若』等の甚深を説く経典が引用されており、正理集成でもこれらの意味が説かれる通りのものとは別のものへと解釈しようがなく確定されるために、それらは了義であり、それらとは異なって説かれているものが、密意のあるものであるとお考えなのである。『菩提心釈』では、

これらの一切は心に過ぎないと牟尼が説かれているのは、童子たちの恐怖を退ける目的であり、それは真如ではない。

と外部対象を否定して心に過ぎず自性を論証するものは言葉通りではないと説かれているのであり、『宝行王正論』でも、

文法家が字母の読みを教えるように、
仏は所化に忍の法を説くのである。
ある者には罪業から退かせるために説法する。
ある者には福徳を実現させるために、
ある者には二者を所依とするために。
ある時には二者を所依としないために、
甚深を恐れて慄く者たちに対しては、
空性や慈悲を本質としている
菩提を成就することを説いているのである

と第一偈では釈尊が所化に対してその思惑に叶った法を説くこと、それ以降の三節で増上生と関連するものを説くこと、その次の一節は対象実在論者の二派の種姓をもつ者に対しては人無我であり、所取・能取の二つがあることと関連するものを説くこと、次の三節で知の勝れた大乗を所縁とする所化たちには恐怖が生じる諸法無自性と大悲に関連したものを説教するということが説かれているのである。

このようなことから、「真実は無い」と説示される限りのそこにおいて、繋縛と解脱等の一切の規定を設定できない場合、その限りにおいて、ある者に対していは「真実ではない」為さねばならず、また別のある者に対しては、真実の分類を為さねばならないのである。何故なら、無我の一側面を示して、次第に則って教育する必要があり、もしも因果を設定する基体がないならば、この部分的な空すらも設定できなくなってしまうからである。しかるに「人」における「自性」を否定し、「法」については大部分は否定しないという形式であったり、「所取・能取という別異実体たるもの」を否定して、「二空の自性」を否定しないといった形式のものが説かれるのである。

縁起の意味するものが無自性の意味である、と理解可能となった時点で、こうした分類をすることは無意味である。というのも「自性」を否定するその基体において、一切の規定が適合していることを承認するだけで充分であるからである。とはいえ、大乗の種姓を持つ者のなかにも、業果等の断見に陥る危険が少ない者たちに対しても、否定対象たる粗大な真実を否定していても、微細なものから否定しているのではない事例も大変多いのであり、また微細なものから否定しているにも関わらず、量によって成立している一切の規定を為すべき基盤がない事例も大変多いのである。しかるに『解深密経』が了義・未了義を判別しているこれは、極めて多くの所化を大乗へと導くための偉大なる善巧方便であると思われる。この経典は「所化によって説かれたものである」と解釈しているが、このように、それに相応するものを説くものについても理解しなくてはならないのである。それらの密意を注釈した論書を著された方(アサンガ)が、注釈した通りのその意味を自己の学説としては認めていない〔『瑜伽師地論』などの〕論書もまた、〔唯識思想に導くべき〕所化によって、彼らの思惑に対応して注釈なされたものである、と理解しなくてはならない。

(未完)

1 L. de la Vallée Poussin, ed. Mūlamadhyamakakārikās (Mādhyamikasūtras) de Nāgārjuna avec la Prasannapadā commentaire de Candrakīrti. Bibliotheca Buddhica 4. 1903–13. Reprint, Tokyo, 1977. PrP (b) P. L. Vaidya, ed. Madhyamakaśāstra of Nāgārjuna. Buddhist Sanskrit Texts 10. Darbhanga, 1960.
2 Cf. Prasannapadā: uktaṃ cāryākṣayamatisūtre, katame sūtrāntā neyārthāḥ katame nītārthāḥ / ye sūtrāntā mārgāvatārāya nirdiṣṭā ima ucyante neyārthāḥ / ye sūtrāntāḥ phalāvatārāya nirdiṣṭā ima ucyante nītārthāḥ / yāvad ye sūtrāntāḥ śūnyatānimittāpraṇihitānabhisaṃskārājñānānutpādābhāva (nirātma) niḥsattvanirjīvaniḥpudgalāsvāmikavimokṣamukhā nirdiṣṭāḥ, ta ucyante nītārthāḥ / iyam ucyate bhadanta śāradvatīputra nītārthasūtrāntapratiśaraṇatā, na neyārtha(sūtrānta)pratiśaraṇatā, iti //
3 Cf. Prasannapadā: tathā cāryasamādhirājasūtre / nītārthasūtrāntaviśeṣa jānati yathopadiṣṭā sugatena śūnyatā / yasmin punaḥ pudgalasattvapūruṣā neyārthato jānati sarvadharmān //
4 Mūlamadhyamaka-Kārikā XXIV k.1:  yadi śūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ / caturṇām āryasatyānām abhāvas te prasajyate //
5 「縁起の意味が空の意味である」ということについては長い議論が『四注』や『入門大註』にある。

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