2016.09.18

『解深密経』に対する唯識派による解釈

ジェ・ツォンカパ・ロサンタクパ著『了義未了義判別論・善説心髄』試訳(3)
訳注:野村正次郎

B2 その意味がどのように注釈されているのか

B2には二つ、すなわち、C1阿闍梨アサンガが主に『解深密経』に基づいている様子・C2それに基づいてどのように実義を確定するのか。

C1 阿闍梨アサンガが主に『解深密経』に基づいている様子

『摂決択分』では

勝義が五相をもつことは又『解深密経』の通りに理解すべきである。(DT zi 44a2-44a4)

と『解深密経』の勝義の章などを引用しており、さらに

諸法の相は『解深密経』の通りであると考えなければならない 。(zi 54b6-7)

と三つの特質を示す特質の章(グナーカラ章)を引用し

諸法無自性相は『解深密経』の通りに考えなければならない。(zi 56b7-56a1)

と経典における矛盾回避の質問とその応答と、了義・未了義等を示す「無自性章」を引用している。同様に、八識身や、究極的な決定種姓についても『解深密経』で説かれるものを典拠としている。『菩薩地』実義章とその『摂決択分』、『摂大乗論』でも『解深密経』で「依他起は、個体や特殊体として記述されている遍計所執に関して空であることが円成実である」と説かれたこれを説明しようとし、それを様々な異門によって確定なさっておられる。『大乗荘厳経論』『中辺分別論』等に説かれる実義の意味とそれらの諸註釈で説かれることの枢要はまた、この経典が意味しようとしてうrことを趣旨が完全に一致したものである。しかるにこの〔唯識派の〕教義は、この経典の意図したものを確定することを主要な所行としたと思われる。

C2 それ(『解深密経』)に基づいてどのように実義を確定するのか

C2には三つ、すなわち、D1 二辺を断じる形式の概括・D2増益辺の詳細な否定・D3それによって教説の了義未了義を判別する仕方。

D1 二辺を断じる形式の概括

D1には三つ、すなわち、E1『菩薩地』で解説される形式、E2『摂決択分』で解説される形式、E3それら以外の典籍で説かれる形式。

E1 『菩薩地』で解説されている形式

E1には二つ、すなわち、F1増益・損減としての見解の形式・F2その両者を否定する形式。

F1 増益・損減としての見解の形式

まず『菩薩地』では次のように説かれている。

〔実義は〕如何に有るかといえば、無に対する増益という不正な把握を排除し、正しいものを損減する邪な把握を排除したものは有る。(wi 25a1-25a2)

では増益と損減を断じた形式で有るという場合、その増益と損減は一体どのようなものなのであろうか、この両者は『菩薩地』で次のように説かれている。

ある者は「色」等の諸法や「色」等の事物において記述される文の自性は、その自己の特相は存在しないが、増益し思い込んでいる。(DT wi 25b3-25b4)

これが増益の形式が説いたものであり、それに続けて、

また別の者は、文を記述する際の表現の基体であり、文を記述する表現が所依とするものであり、表現不可能であるという本性であり、勝義として有るものであり、真なる事物を、いかなる場合にも無いと損減し、害している。これら両者は、これら正法と律を損っていると理解しなくてはならない。(DT wi 25b4-5)

とあり、前半で損減形式が示される。「害している。」以降では大乗甚深法を損減するものであると指摘されてる。「色等の……事物」という箇所で、遍計所執を仮設する基体を示しており、そこで「文を記述するときの自性」と言っているのは「記述された文の自性」を指しているであって、「記述主体である文」を指している訳でない。このことは『摂決択分』などで明らかに説明されている。

『菩薩地』の他の諸箇所もこれと同様に解釈しなくてはならない。文によって記述されたものそれ自体は、自己の特相によって存在するものではないが、自己の特相によって有ると仮定していることが「増益」である。記述された文の標示の基体とは「記述された文が標示の所依としているもの」と説かれており、遍計所執たる記述の基体のことである。これこそが「表現不可能」であるので「勝義として有るもの」であり、それに対して、如何なる場合にも無いと把えることが「損減」である。

しかるに「遍計所執は勝義有である」とするのは「増益」であり、「他二つ(依他起・円成実)は勝義無である」とするのは「損減」である。何故ならば第一のものは世俗有であり、他の二つは勝義有であるからである。

「勝義有であるが、無い」とする見解が損減であると説明されることの逆概念を摘要すれば、「勝義無であるのに有る」とする見解が増益であると説く必要がある。っしかしながらここでは「遍計所執は自己の相によって有る」とする把握を「増益」であると説くのであって、「それは勝義有である」とする把握のことは文脈上明治されていない。しかしながら「自己の相により有るのならば、勝義有である」ということが〔唯識派の〕典籍で意味されていることであるから、「遍計所執は勝義有である」とすることが「増益」となる教義なのである。

『解深密経』では、遍計所執の特質の所依、行の兆候、個体・特殊体として仮設する基盤を依他起であると説かれることにより、この典籍は「表現されている文の標示の基体は、勝義として有るけれども、それに対して〔勝義として〕無い」と説明される箇所で直接指示されるものは「依他起」であるけれども、それ(依他起)が勝義として無いなら、円成実もまた勝義として無くなるので、〔損減対象を〕両者(依他起・円成実)を指して説明した場合でも過失は無いのである。何故ならば『菩薩地』で

〈色〉などの諸法という事物単体を損減する時、実義(円成実)さえも無く、表現主体(依他起)も無いことになる。これは両方とも正しくない。( wi 25b7)

と説かれているからである。事物たる依他起に対して損減する内容は「言説において無い」とか「一般に無い」とすることではないのであって、先程の箇所で「勝義として有るのに、〔勝義として〕無い」とする「損減」と説明した通りである。

F2 その両者をどのように否定するのか

増益や損減の形式がそのようであるとすると、その両者をどのように断じるのだろうか。そこ(『菩薩地』)で増益辺とは「如何なる法においても、当該の個体・特殊体として表示されたものによれば、それは勝義として空である」と示すときに否定するものであり、詳しくは後で説明したい。〔もうひとつの〕損減は『菩薩地』で先程の引用した二つの聖言に続いて、

たとえば「色」などの諸蘊が有れば、「人」を表示することができるのであり、もしも〔諸蘊が〕無いのならば、事物をもたないものを「人」であると表示することはできない。これと同様に「色」などの諸法の単体の事物が有るのならば、「色」などの法を表示する文を記述することができるのであって、事物として無いものを表示する文は記述することができない。それであると表示する基体が無ければ、基体は無いのでその記述もまた無くなってしまう。(wi26a1-2)

と説かれる箇所で否定されている。

さて、この箇所、すなわち損減を否定する箇所における前主張の承認者は一体誰なのか。他派であれば無意味であり、自派であっても、声聞部には「名称や記号によって言説表現する基体となる、色などの事物は、その自己の特相により存在しない」と承認する人はいないのである。しかるに『摂決択分』で説かれるように、大乗の学説論者であり、しかも「諸法は自己の特相によって成立していない」と説いている無自性論者のことなのである。彼らは、依他起の諸法を、一般に無いとか、言説として無い、とは決して主張しない。そうではなく、勝義として無いと述べるのである。したがって「事物として無いもの」という否定は、さきに述べたような「勝義として有る、正しい事物は、有り得ない」という否定であり、これはすなわち、この教義によれば、遍計所執の場合には「自己の特相によって成立してないもの」「勝義として無いもの」であれば、必ずしも畢竟無ではないが、それ以外の二自性(依他起・円成実)が「勝義として成立していないもの」「自己の特相により成立していないもの」であれば、必ず「無いもの」であるという遍充関係がある。

「依他起たる心・心所は、自身の因縁に依存して生起し、それが自己の特相によって成立している生起ならば、勝義生起となるだろうが、そうでなく、意識が『生起する』と思惟するで『生起する』とされている単なる表現に過ぎないのであって、心・心所という事物における有生起にはならない」というこの考えを、この〔唯識派の〕教義は〔中観派の教義として〕想定している。

したがって〔これが損減となる唯識派の指摘に対して、その中観派は〕「依他起の生滅は、錯乱知によって生滅すると単純に想定している思惟にとってのものであり、それ故に世俗としては生滅は有るから、損減とはならない」とは返答はできない。

〔反論〕「たとえば〈縄を蛇である〉と思う錯乱は、〈縄は蛇であり、普遍的に縄は蛇として成立している〉とする経験ではない。同様に依他起たる因果も、因果の真実把握の迷乱にとって因果であるが、依他起それ自身は因果としては成立しない」と〔中観派が〕主張するかもしれない。

そのように承認していることはまた「善・悪の業によって、楽・苦が生じる」という業果を記述する基盤が無いこととなるので、〔中観派たちは〕損減を回避できないのであり、そのような〔中観派が言っているような類いの〕ものではない因果を〔唯識派が〕主張するのならば、「自己の特相によって成立した因果」であるから「勝義として有るもの」という意味が成立する。〔唯識派は〕こうしたことを想定し「記述される基体が無いのならば、記述すらも無くなってしまう」とすることで、〔中観派の主張の通りに〕「一切法は単なる記述である」とし、なおかつ「まさにこのことが実義の意味である」とするのは不可能であるので、〔こうした中観派の見解を〕断見の主要なものであると説明する。このことは『菩薩地』で次のように説かれている。

以上のことから、ある人は、難解な、大乗を備えたもの、すなわち、甚深なる空性を備えた、密意が示される経典を聴聞しながらも、解説されたものの正しい意義を如実に理解せず、誤った考察をなしてしまい、正理以外のものに由来する単なる分別に過ぎないより「これらすべては記述に過ぎないのであって、これが実義なのである、とこのように見ることが正しい見解である」とこのように考えて主張している。もしも彼らの〔主張〕通りであるとすれば、表現する基体である単なる事物さえも無くなってしまうので、まさにその表現すらも如何なる場合でもいつも無いことになってしまう。その限りにおいて、〔そのような理論を〕表現しようとしているに過ぎず、〔それが〕一体どうして実義を見ている」ということにどうしてなるだろうか。それ故にこの意味で、彼らは「実義」と「表現されたもの」というこの両者に対し損減することになる。〔こうした彼等の見解は〕「表現されたもの」と「実義」に対する損減であるので、無見の主要なものである、と理解しなくてはならないのである。(wi26a2-6)

〔世尊は〕このことを意図なさって〔宝積経などの経典で〕「人である」とする見解の方がよりも良いのであり、空性を誤って把握することはそうではないのである」と説かれたのである。何故なら、前者(人であるとする見解)は認識対象に対して無知であるだけなのであって、〔中観派のように〕一切の認識対象に対して損減しているのではないし、それ(損減)を基盤として地獄に生まれることも無く、〔たとえば唯識の教義というような〕他の法を主張しようとするときにも障げとはならず、僧院規律(所学)に対しても怠惰にはならないが、後者(損減の見解)は、それらとは逆になってしまうからなのである。(wi 26a7-b3の取意)

以上のことから「xにyが無いとき、xはyに関し空であり、余れるものzは有る」とこうに見ることが、空性に対して不転倒に悟入することである。「色」などの諸々の事物xは、それらとして文で記述されるyに関して空である、ということが前半句の意味であり、「余れるものが有る」というのは、「表現するときの基体である事物それ自体」と「表現それ自体」が有ることであると『菩薩地』で説かれている。

「それyに関して空」というyは遍計所執であり、「xが空である」という基体xは依他起であり、「yに関してxは空である」という空性は円成実である。それらの有無の意味は先述の〔「勝義として有る」という意味〕である。

同様に「増益辺」を断じたことにより「有辺を断じている」のであり、「損減辺」を断じたことによって「無辺を断じている」ことによって、不二として完全に判別されており、このような空性が勝義の究竟であると解説される。すなわち『菩薩地』では次のように説かれる。

何であれ、その先程の〔増益された〕有とこの〔損減された〕無という二つの有無から離れるという法の特質によって、纏られるこの事物は二としては無いのである。二としては無いもの、それが中道なのであり、二辺を断じたものが「無上なもの」と呼ばれるのである。(DT wi 22a5-6)

E2 『摂決択分』でどう解釈されるのか

E2には二つ、すなわち、F1前主張の提示とその意味についての問いと解答・F2(中観派により)提出された解答の立場の否定。

F1 前主張の提示とその意味についての問いと解答

『摂決択分』ではまず次のように述べている。

大乗の人の或る人は、自ら過失に執われて「世俗としては一切は有るが、勝義としては一切は無い」とこうに述べる。(zi 42b6-7)

〔この記述は〕「すべての法は勝義としては無いが、言説として有るものである」と説く中観派たちによる諸法の有無の区別を述べているのであり、それに続き、

(中観派)に対して、「長老よ、勝義とは何であり、世俗とは何かということを述べてみよ」このように(我々唯識派が)問い掛けた時に、(中観派は)「一切法の無自性であるもの、それが勝義である。無自性であるそれらの法に対し自性であると見ているもの、これが世俗である。何故ならば、すなわち、それ(世俗)は、諸々の有ではないものに対して、覆われているものにおいて動作をなし、仮設や言語や言説において働いているものであるからである。」という解答を提出する。( zi 42b7-43a2)

と説かれ「二諦とは何か」という〔唯識派による〕問いに対し〔中観派により〕与えられた解答を前主張となさっている。

さて、ここで「勝義とは何であり、‥‥」という問い掛けは「勝義諦」の定義基体を問い掛けているのであって、「勝義として無い」という「あるものとしては無い」という表現で勝義無における無の基盤を問い掛けているのではない。さもなくば(中観派が)「諸法の無自性が勝義である」と語るのは正しくない。何故ならば、中観派が「勝義」であると主張する「法無我」(真実無)というこれとしては有ることによって「勝義有」(真実成立)であるとは記述しないからである。「世俗とは何か」という問い掛けも、「世俗真実」という場合の「それにとっては真実である」と記述される際の「世俗」を問ってているのであって、言説有の有の基盤たる「言説」を問っているのではない。さもなくば「無自性に対する自性の把握は世俗である」ということが正しくないのである。何故ならそれ(世俗)が真実把握であるということによって、その思惟基体が言説無であると中観派は主張するからである。すなわち「無自性」という場合の無に帰すものは「真実自性」であると言わなければならないからである。

F2 〔中観派により〕提出された解答の立場の否定

F2には二つ。G1他者の学説における矛盾点の指摘・G2自己の学説における矛盾の回避。

G1 他者(中観派)の学説における矛盾点の指摘

まず「世俗」の確認に対する否定は『摂決択分』で次のように説かれる。

(中観派)に対して次のように述べよう。この自性を所縁とする主体(世俗者たる真実把握)は、言語や世俗という因によって生じていると主張しているのだろうか、あるいはそれとも単なる言語や単なる世俗であると主張しているのだろうか、そのいづれかであろう。もしも言語や世俗という因より生じたとすれば、それを根拠とし、つまり、言語や世俗という因より生じていることから、「(勝義)有ではない」と語ることはできない。もしも、単なる言語や単なる世俗者であるとするのならば、それを根拠とし、基体をもたないので「言語や世俗である」とも語ることはできないのである。(zi 42b7-43a2)

〔先程の箇所で〕「勝義としては無自性であるものに対して自性が有ると把握するもの」というこの〔中観派が確認している〕「世俗」(真実把握)は、〔発話されていない〕内的言語としても生じる。その場合に、〔この「世俗」は〕、自己と同類の先行した過去の因によって生起しているものなのか、あるいは世俗分別や言語分別によっている単なる表現なのかのいづれかなのである。

もしも「〔真実把握は〕前者(自己と同類の過去の原因によって生起したもの)である」とするならば、「原因によって生起したもの」であるので、「『有ではない』と語ることはできない」のである。この『有ではない』と言っているのは「勝義として有るものではない」ということである。何故ならば(この箇所は)「勝義として有るのか無いのか」を議論している事例であり、他者(中観派)は「勝義として無い」と承認しているのであって「普遍として無い」と述べていないからである。

もしも〔真実把握が〕後者(分別による単なる表現)であるとすれば、「分別による単なる表現」として妥当なものではない。何故ならば、表現する基体を無いからである。「世俗者や言語は、分別による単なる表現である」とすれば、それ以外のものも〔すべてが〕それだけのもの(分別による単なる表現)となってしまうからである。

次に〔中観派の〕勝義の確認に対する否定は『同書』で次のように説かれる。

彼に対して「長老よ。何故、所縁とする主体が無いと言えるのか」と述べてみよう。このように問いかける時に、もし彼(中観派)が「〔所縁とする主体(真実把握)は〕転倒している事物であるので〔所縁とする主体が無い〕」と答えを提示するのならば、彼にはこう言えだろう。すなわち、その転倒は有ると主張しているのか、それとも無いと主張しているのか。もしも〔転倒が〕有るならば、それを論拠として「一切法の無自性性は勝義である」とは語ることはできない。もしも〔転倒が〕無いとするのなら、これを論拠として「転倒した事物であるので、所縁とする主体は無自性である」と語ることはできない。(zi 43a2-43a4)

これらの諸法において「自己の特相により成立している自相」を所縁としているにも関わらず、「それは無い」としているということが一体どうして正しいだろうか。何故ならばそこ(諸法)においてそう認識する量〔それ自身〕で損傷されるからである。

もしも〔中観派が〕「そのように認識する意識〔それ自身に〕による損傷は無いのである。何故ならばこの意識そのものは迷乱という事物であるから。」と主張するとしても、その場合に「この迷乱〔それ自体〕は、自己の特相により有るものである」とするのならば、「無自性」ということが「勝義」として妥当なものではなくなってしまう。また「〔倒錯それ自体は、自己の相により〕無いものである」とすれば、〔倒錯それ自体も無いものとなってしまうので〕「迷乱であるので、所縁とする主体も無い」というこのことも不適切になるのである。〔厳密には〕この箇所について〔迷乱という依他起は勝義であるのかどうか、ということだけでなく〕さらに「勝義として有るか、無いか」という考察をしなければならないけれども、内容的には同じであり、このような考察をした方がより分かりやすいので、そう説明した。

この箇所で〔中観派が〕遍計所執や円成実の二つは、勝義無であるが、言説有である、としている過失が〔唯識派によって〕指摘されているのではない。そうではなく、「世俗者である知」とか「倒錯した意識」が勝義有・勝義無のどちらなのかを考察して、それを通じて過失が指摘し、「依他起は勝義無であり、世俗有である」とすること否定するのである。すなわち、ほかならぬこれ(依他起)は、円成実の有法(空の基体)であり、遍計所執の表現主体であり、表現の基体であるからこそ、〔唯識派と中観派の〕学者たちは主としてほかならぬそれ(依他起)が勝義有なのか勝義無なのかを議論する。これはまた『摂決択分』で次のように説かれている。

そのうち依他起自性と円成実と対し遍計所執自性であると強く執着していること、それが増益辺であると知らねばならない。(中略)損減辺とは、依他起自性と円成実自性とは〔勝義として〕有るにも関わらず、〔勝義として〕無いとして、それ自身の特相を損減したことなのである。こうした〔増益辺と損減辺との〕二辺をどのように断じた形で、実義の対象の様相が証得される。(zhi 194b2-5)

後二自性(依他起・円成実)は自己の相により有るものであるが、「それとしては不成立である」とすることが、〔ここでは〕「それ自身の特質に対する損減」と説かれており、『菩薩地』とこの(『摂決択分』)両者は、増益辺・損減辺、およびそれを断じる形式は一致している。また「遍計所執が無い」という場合も「勝義として」であって「言説として」無いということではない。『摂決択分』ではこう説かれている。

これらの強い分別は、何らかの名称や言語による表現は、それを自性としていると語るべきなのか、それを自性としていないと語るべきなのか。言説からしては「それを自性としている」と語るべきであり、勝義としては「それを自性としていない」と語るべきなのである。( zhi 279b1-279b2)
そのうち言語上習慣化した名称に依存した〔世間の人々の〕識が所縁としている遍計所執自性は、何であれ、それは…(中略)…仮設有であって、勝義有ではないからなのである。(zhi 32a)

たとえば二我たる遍計所執は、所知には有り得ないけれども、それだけで、すべての遍計所執が有り得ないということにならないので実体有・勝義有を否定しても、仮設有・言説有であると〔唯識派は〕記述するのである。

それ故に、ある『解深密経』の大註釈は「遍計所執は二諦の両者として無く、所取・能取という二者たる依他起という縁起しているものは、幻を化作するのように世俗有であり、勝義なる円成実でもあり、無自性相としては有るものが勝義有である」と説明しているが、この経典の意図するところではない。

『摂大乗論』では『解深密経』が引用され、外部対象は存在しないと証明することを通じ、内外の所取・能取は遍計所執であると説明するのと矛盾しており、『菩薩地』や『摂決択分』とも矛盾してしまっており、そこで『量決択』の教証が引かれることで、ある者はアサンガの著作であると語っているが、考察していないのも甚だしい。『摂決択分』では『解深密経』の序品以外のほぼ大部分の章を引用し、難所を正しく決択されているのであり、それ故にこの阿闍梨〔アサンガ〕(『解深密経』の)註釈を別途著作される必要性も感じられない。

また後代の人は、「第一自性は言説無である。第二自性は言説有だが勝義無である。第三自性は勝義有である。これらをアサンガご兄弟は意図なされっている」と説明している。しかしながら、これもこの教義とは全く別ものとなってしまっている。特に〔中観派が〕「依他起が言説有である」という時に意味されるのは「倒錯した意識によって、そこに生滅等が有ると思い込んでまれているに過ぎないのであり、事物としては生滅などは無い」とする主張が、依他起に対する損減辺の極みであり、それを論拠として他の〔遍計所執と円成実との〕二自性に対しても損減することとなり、三性すべてに対する損減たる断見の根本となるということである。先に『菩薩地』で説かれていたことも、このことなのであり、〔このような誤った中観の見解は〕『解深密経』を了義であると主張する〔唯識派の〕立場では〔指摘される論難を中観派が〕払拭できない矛盾であると知らなくてはならない。

G2 自己の学説における矛盾の排斥

アサンガの学説の内部対立を指摘する論難

もしも『菩薩地』と『摂決択分』で「依他起は勝義として有る」と説かれている通りでしよう。それならば、『解深密経』(勝義諦相品)で、

八聖道は、その特質がそれぞれ相互に異なっているように、もしそれら諸法の真如・勝義・法無我もまた特質がそれぞれ相互に異なっているとすれば、そのことにより、真如・勝義・法無我もまた〔八聖道と同じように〕因を有するものとなってしまう。〔諸法の真如・勝義・法無我などが〕因から生じたものであれば、〔それらは〕有為となるだろう。〔それらが〕有為であるならば勝義とはなくなってしまうのである。(ca 17b6-18a1)

と「有為であれば、勝義ではない」と説かれており、また『中辺分別論』では

勝義は一つから〔知られるの〕である。(三︱一〇偈d)

と説かれ『同書』の〔ヴァスバンドゥの〕註釈でも

勝義諦は、円成実自性というこの一つで理解すべきである。(zhi 288b7)

と説かれている。さらに『大乗荘厳経論』でも

有でも無でもなく、同様でも別様でもない。生じるものでも滅するものでもなく、増加するものでも減少するものでもなく、清浄となるものがはなく清浄となるもの、これが「勝義」の特相である。(六︱一偈)

と勝義諦は五つの特質を有することが説かれているこの箇所で「無生滅」と解説され、〔ヴァスバンドゥの〕『大乗荘厳経論註』でも、「依他起と遍計所執の相によって有るものではなく、円成実相によって無いものではない」と説かれ『摂決択分』でも

兆候とは、世俗有であると述べるべきか、勝義有であると述べるべきか、と言うならば、答えよう。世俗有であると述べるべきである。( zhi 288b7)

分別は世俗有であると述べるべきか、勝義有であると述べるべきか、と言えば、答えよう。世俗有であると述べるべきである(zhi 289a2)

と説かれている。これらとどうして対立していないのだろうか。

それに対する解答

どうして矛盾していないのかを説明したい。そもそも「世俗や勝義として有るもの」には二つの設定形式がある。

勝義有・世俗有の第一設定形式

第一〔の設定形式では〕は「言説の力で構成された有」を「言説有」とし、「その力によって構成されることのない、自己の特相による有」を「勝義有」であるとする。たとえば経典で「それはまた世間の言説の力によるのであって、勝義においてではない」と多く説かれるものはこれである。これが中観派と自他の実在論者たちとが「勝義もしくは言説として有無を論争する基盤となっている。この意味で、先に解説した第一自性は言説有であるが勝義無であり、後二自性は勝義有であるが言説無である。それ故に『菩薩地』と『摂決択分』に前述のように説かれる。また『摂決択分』では次のように説かれている。

〔無始時以来〕言語化を修習し、名称として存在している識の所縁たる「色」などの名称を有する事物である「色」等のそれ自体で有るこれは、そのもの自体によって、実体としても勝義としても有る訳ではない。そうしたものであるので、「色」等の名称を有するこれら諸法の自性が有るのではないが、それ(名称に依存した分別)によって遍計執されたこれは表現されたものを根拠そして存在するものであると知らねばならないのである。
一方、言語化を極度に習慣化したことを排除して、名称を有する識の所縁たる「色」等の名称を有する事物(依他起)は、語ることのできない本質によって存在し、それは実体としても勝義としても両方としても同じように有るものであると知らねばならない。( zi 32a2-5)

実体有と仮設有の規定

実体・仮設についてまた『摂決択分』では次のように説かれている。

どのような任意ものであれ、あるものがそれとは異なる諸々の他者を照合することもなく、それとは異なる他者に依存することもなく、自己の特相を表現しているこれ、それはすべては実体有であると知らねばならない。どのような任意ものでもあれ、あるものがそれとは異なる諸々の他者を照合し、それとは異なる他者に依存し、自己の特相を表現しているこれ、それはすべては実体有であると知らねばならないのであって、実体有ではない。( zhi 199a7-b2)

蘊にもとづいて「我」「有情」と表現されるこれをその譬喩とされている。異なった捉えた他の法と照合しなければ、把握できず、照合しながら把握する必要がある「仮設有」と、「言説の力で構成されない、自己の特相によって成立しているもの」との二つはこの〔唯識派の〕教義上では矛盾しないので、たとえば阿頼耶識の習気は「仮設有」であると説かれているに関わらず、先述の「勝義有」であるしても矛盾しないのであり、「名称や分別で記述された仮設有」であることは矛盾するのである。

勝義有・世俗有の第二設定形式

(勝義・世俗の)第二の設定形式はどのようなものであろうか。『中辺分別論』では、

対象と目的と修行とで、勝義は三種類と言われる。(三︱一一偈前半)

と説かれている。〔ヴァスバンドゥの〕『註』でも

対象たる勝義は真如であり、それは勝れた智慧の対象だからである。(DT bi 12a7)

と「勝」とは無漏三昧の智慧を表しており、その「義」つまり客体となるものであるのから「勝れたものの義」とか「勝義」と説かれるが、「無我」を意味する「真如」であり、それは清浄所縁たる勝義でもある。そこには他の二自性は無いのであって、円成実だけであるので、このように説かれるのである。『中辺分別論』で

清浄な活動客体は二種あるが、ひとつだけであると語るのである。

と説かれ、その『註』で

〔勝義には〕円成実自性だけであると語る。それ以外の自性は二種清浄なる智慧の活動客体でないからである。(bi 12b5)

とはっきりと説かれている。「二種の智慧」とは二障を浄化する〔対治としての〕智慧を表している。

「この教義では、そのような智慧を自己認証であると御考えになられる。したがって智慧もまた客体とならないのだろうか」と考えるかもしれない。何らかの客体に依存してから実義の対象を証得するという場合の客体のことが意図されているので、過失は無い。したがって、そのような〔第二設定形式の〕勝義が無為であることと、そのような「勝義」としては成立していないけれども「言説の力では記述されない、自己の特相によって存続しているもの」である「勝義」としては成立していることとは、この派では矛盾しないのである。『智心髄集』で、

所取と能取を離れている、識は、勝義として有るものであり、
智慧の海の彼岸に到っているのは瑜伽行派の典籍で有名である。(tsha 27b2-3)

と説かれる場合も第一形式の「勝義有」が意図されているのである。中観派の多くの論書における瑜伽行派との議論の際、依他起が有るのか無いかが議論されているが、これも言説に関連するものではないのであり、勝義として有るのか無いのかを議論しているのであり、それ故にこの二つの勝義をよく区別しなくてはなならない。阿闍梨御兄弟の典籍には、後者の「勝義」を規定する立場に依拠したものも多く見受けられるのである。

それでは前二自性はどのように「世俗有」であるのか。『摂決択分』で標示と分別は世俗有であることの論拠として次のように説いている。

雑染を動機付け、仮設の基体であるからなのである。( zhi 288b7-289a2)

第一の論拠は『解深密経』における清浄所縁を指し「勝義」と説明する場合の対項を想定するならば、「それを所縁とすることにで、雑染を動機付けしてするもの」という意味で「世俗有」と記述され『阿毘達磨集論』にも一致しているる。第二の論拠は、「名称や記号の言説によって記述された自性」であり「言説を記述する標相の基体となっているので、「言説有」であると説明されている。『釈軌論』でも、

世間の知による迷乱した客体であり、出世間者の知による客体のことを意図し、二諦という、世俗諦・勝義諦が説かれているのである。語るということは、世俗であるので、それによって理解されるべき真実は「世俗諦」なのであり、それを語って機能しているもの、たとえば、両足で渡る渡しを「足渡し」と言い、革製の舟で渡る渡しを「船渡」というのと同じである。(zhi 94a3-5)

と説かれており、また『摂決択分』では

真如を証得する三昧という聖者の智慧は勝義有である。(zhi 289a3-4の取意)

と説かれるが、これは「世俗有」とする先の二つの論拠が無いことを意図している。さらに、その後得智は「世俗と勝義との両方として有る」と説かれるが、これは「言説の標相」という観点で「言説有」と説かれたものである。

〔第二の論拠である〕「言説表現する基体たる標相たるもの」と〔第一の論拠である〕「雑染のすべてを動機付けする」つまり所縁化することで「世俗有」と「自己の相により成立している勝義有」とが矛盾しないのである。これは『釈軌論』で、

〔反論〕

声聞部は『勝義空性経』で〈業と異熟は有るけれども、動作主体は認識されない〉と説いているが、これが勝義であるとすれば、「一切法無自性」であることにどうしてなるのか。それが世俗においてであるとすれば、そこにおいては動作主体は有るので何故〈認識されない〉と語られるのか。

〔答論〕

答えよう。世俗・勝義が何かを理解すれば、そのなかにもそれぞれ二つずつ有ることが分かる。それ故に、その二つのいずれなのかと問われた時、「名称・言表・仮設・言説は世俗であり、諸法のそれ自身の特相は勝義である」とする場合には、その通りであるが、業と異熟との二つは、名称としても有り、それ自身の特相としても有るので、その〔業と異熟との〕両者のどちらでも任意に有るものであると考えることができるのである。(DT zhi 109b4-7の取意)

と説かれている。「勝義有」の形式を前者とし、「世俗有」の形式を後者とする場合、その「〔勝義と世俗の〕両方として有る」といえることが意味されている。その〔第一設定形式の〕「勝義有」であると主張しても「勝義として一切法は無自性である」と説かれたものを言葉通りには主張しないので、この学派では矛盾しないのである。

たとえば「人は世俗有であるが、実体無である」「業や異熟は世俗有であり、実有であるが、世間者の知の客体であるので、第二設定形式の勝義無である」「その両者は出世間人の認識対象ではない。その客体は言表出来ない共相であるから。」と言ったり、大乗のある人が「一切法はそれ自身の特質としては無いが、言説有であると説かれている」と言う場合でも、〔既に唯識派の方では〕上記のような反論が準備されているのであって、これは『釈軌論』で解説される当該箇所からも極めて明白である。また『中辺分別論』では

仮設されたものと認識と言表としては、粗大である。(三︱一〇bc)

と説かれ〔微細実義は勝義諦であるから〕「粗大実義」すなわち世俗諦には「仮設されたものたる世俗」「知たる世俗」「表現たる世俗」という三種があるとし、三自性と結び付けられ、その最後のものこそが、他の〔第二転法輪の〕経典において「真如などは、世俗有である」と説かれる場合に意図されているものである、と〔ヴァスバンドゥが〕解説しているのを理解しなくてはならない。

このように上下の学説における「実有・仮有」「世俗有・勝義有」の形式、更に一学説の内部でも異なった設定の形式があり、それらの差異を詳しく判別できれば、重要な学説を正しく決択可能となり、実在論者が「仮有」「世俗有」と承認しているものの殆どが、中観派によるならば、彼らに対して「それは勝義無である」と証明する必要があるものであることも理解出来るようになる。さもなくばただ単に上下の学説における差異を区別するのを愉しんでいるだけに過ぎない。

E3 それら以外の典籍で説かれる形式

E3には二つ。F1『大乗荘厳経論』で解説される形式・F2『中辺分別論』で解説される形式

F1 『大乗荘厳経論』で解説される形式

般若経などで無自性であると説かれる密意基体

『大乗荘厳経論』では次の様に説かれている。

それ自身が無いので、それ自身の特質としては無いので、それ自体に留まらないものであるので、また把握しているその通りには無いので、「無自性である」と言われる。(十二︱五〇偈)

これは「有為の三つの特質」と、「凡夫が思い込んでいる通りの自性は無い」ということととを意図して「無自性」と説かれたということである。『阿毘達磨集論』では「その二つと三無自性とが意図して『極広大般若』で無自性と説かれたのである」と解説されている。

諸法は縁に依存しているから、「それ自身が無いので」無自性なのである。この意味は、「それ自身と同体のものによって生じるものが無い」と『中観光明論』で解説される(DT143b2)通りである。すなわち、何であれ、「滅した法」(過去)は、二度とその法と同体のものとしては生じないので、自己と同体のものとしては無い。したがって「無自性」である。「既に生じているがまだ滅していないもの」(現在)は刹那であるので、それ自体に次の時点では停滞していない。したがって「無自性」である。要するに、「未来の芽」はそれ自身の力によっては生じることはなく、「過去の芽」が再度「芽」という同体のものとして生じることはなく、「現在の芽」はそれ自身が成立したその次の時には存続しない。以上のことから三世の諸法には自性は無いと解説される。〔「把握しているその通りには無い」という第三句の意味は〕

凡夫が常楽我浄と思い込み、遍計所執性という別のものとして思い込んでいるその通りの自性は無い、ということで「無自性」である。(174a5-174a6)

とヴァスバンドゥが〔『大乗荘厳経論釈』において〕解説している。「別のもの」とは所取と能取という別異実体であると思い込むことである。

〔『解深密経』で解説される不生の説明と同じように〕「無自性であるその通りに不生であり、不生であるので不滅であり」などを、それぞれ前のものが後のものの理由であり、それぞれ次のものを証明する、ということは『同書』では、

無自性であるので、それぞれが後者の所依となり、不生であり、不滅であり、本来寂滅であり、本性涅槃ということが成立する。(十二︱五一偈)

と説かれている。このことは先程解説した。

無生法忍の意味

また、『大乗荘厳経論』では次のように説かれる。

始・同・別・自相・自体・変化・
雑染・殊勝の点で、無生法忍と説かれる。(十二︱五二偈)

「無生法忍を得る」という場合にどのように諸法の生起が無いのかが解説されている。そのうち、「始」というのは、輪廻には最初の生起が無いことを指している。「同」とは先行するもの、つまり先に生じているものが、再びそのものとして生じることは無い、ということを指している。「別」とは、後続するもの、つまり以前に無かった形象として生じない、ということを指している。以上〔ヴァスバンドゥの〕註釈で解説されている。

この意味は「輪廻に先に無かった有情は生じない」とか「先に滅したものと同類のものが生じるので、先に無かった法は生じない」と『中観光明論』で解説されるのと同様である。「自相」とは遍計所執のことであり、つまりそこには生起は決して無いことを指している。「自体」が生じない、というのは依他起を指している。「変化」という生起が無い、ということは、円成実を指している。「雑染」として生じないということは、尽智を獲得した人を指している。「殊勝」として生じないということは、仏陀の法身を指している。

無自性の内容や不生の形式について、こうした解説は、「一切法は、勝義として自性に関して空である」とか「諸々の有為には勝義として生じるものは無い」という説を言葉通りと主張しない、という教義である。それに対し、三世の法において、無自性形式のなかの現在以外と、「凡夫が思い込んでいる通りの自性が無い」という先の無自性の形式は声聞部とも共通する。毘婆沙部は「既に生じたものの後で持続(住)すると作用があり、その後から滅する作用が働く」と主張している。

一切の有為が幻の如しと説かれた意味

ある者が云う「『解深密経』で依他起は幻の如しと説かれ、『大乗荘厳経論』でもまた一切の有為は幻の如しと説かれている。それゆえ真実として成立しているものをそれらは意味していない。」と。

しかしながら、たとえ「幻」の如しと説かれているからとはいえ、真実が指示されていないという確定は不可能である。何故なら、それは「幻」等をどのような喩例とするのかに依存するからである。これは又『大乗荘厳経論』で次のように説かれる。
幻の如しと虚妄分別は述べられる、

幻の化作の如く、二としての倒錯が述べられる。(十二︱一五偈)

これは幻がどのように喩例とされる内容を示している。倒錯の基体「土の塊り」や「木」などが幻術が掛けられていることが、虚妄分別という依他起と対応しているのであり、それが前半の二句の意味である。幻の形象である「馬」や「牛」などの形状で顕現しているものが、依他起が所取・能取という隔絶した二者としての顕現に対応し、それが後半二句の意味であるとヴァスバンドゥは解説する。(DT phi 168b1-3)

一方『大乗荘厳経論』では次のようにも説かれている。

そこにそれが無い如く勝義であると語られ、それを錯覚する如く世俗である。

「幻には象などが無い」のと同様、依他起には所取と能取の二つは無いのであり、それは勝義であり、また「その幻を馬や牛であると錯覚する」のと同様「正しくないものを遍計執している」のであり、そのことが世俗諦における錯覚であると註釈で解説される。

『大乗荘厳経論』は「六内処は我や命根などとしては無いにも関らず、それとして顕現している」という点から「幻」のようであり、「六外処は人我の担い手としては無いにも関らず、それとして顕現している」という点から「夢」のようであると経典で説かれるということを解説しているのであって、(中観派のように)「内外の有為は本性空であるにも関らず、そう顕現している」ということの喩えであると解説している訳ではない。

また『摂大乗論』は、仏母経典で説かれる「幻」等の喩例について、それが依他起を指示する喩例の意味を適用する時には「外部対象が無いならば、一体どのように認識しているのか」という疑念を退けるという目的として「幻」の喩えがあり、また「〔外部の〕対象が無いのならば、一体どのように心・心所が生じるのか」という疑念を退ける目的としての「陽炎」を譬喩とし、「対象が無いのならば、意に適うものや適わないものに対して、一体どのように活動するのだろうか」という思いを退けることを目的としての「夢」などを譬喩とする、と解説する。(ri 19a5-19b4)

「幻」などを「非真実」の譬喩とする場合も、中観と唯識派との各々にとって、どのように真実ではないのかということは異なっており、それがどのようなことの比喩とされているのか、ということを混乱せず、各別しなければならない。

F2 『中辺分別論』でどのように解釈されたか

『中辺分別論』(第一章)では

虚妄なる遍計分別は〔真実として〕有る。そこには二つは無い。
空性はここに有る。そこにもそれは有る。

空ではなく、不空ではない。そのことによって、一切が説かれる。
有であるので、無であるので、有であるので、それが中道なのである。(二偈)

と説かれている。最初の偈は空性の定義を示しており、次く偈でそれが中道であることを示している。

ここで〔第一偈では〕「xにおいてyが無い、xがyに関しては空であることと、ここxに残るものzは有る、という正しい有無を如実に認識することが、空性に対して不転倒に悟入することである」と〔経典で〕説かれるものを、これ(『中辺分別論』)もそれを示し、正しい空性を示している。「あるものxにおいて」というのは「空の基体」xであり、それは「虚妄遍計分別」すなわち「依他起」である。「yが無い」という時に〈無い〉とされるもの(否定対象)は「所取・能取という二つの別異実体」すなわち「遍計所執」のことである。「そこには〔二つは〕無い」という箇所で、「xがyに関して空である」ということを示している。「それ(遍計所執)が無ければ、その代わりに残れる有とは何か」と考えるならば、「遍計分別は有る」と言われているもの(第二句)〔「空性はここに有る」という〕第三句により〔「残れるもの」が〕依他起と円成実の二つであるということが示され、さらに第四句ではそれ以外の疑念を払拭している。ヴァスバンドゥは「如何なるxが空であるなのか」ということと「如何なるyに関して空であるのか」ということの意味を以上のように説明しているが、そのことをスティラマティはより明確に指摘する。『中辺分別論註疏』では次のように説かれる。

ある人々は「一切法は兎角と同様に自性が全く無い」と考えるので、一切に対して損減しているが、これを否定するために「虚妄遍計分別は〔自性によって〕有る」と説かれている。「自性によって」というのが補足語である。(bi 193b6-7)

「遍計分別は有る」というその〔偈の〕文は、これだけでは不完全で補足語の追加が必要であり、しかも「自性によって」といわれるこれである。そう言うことで遍計分別は単なる有ではないのであって、自性による有・自己の特相により成立している有である。これらの存在形式は円成実の場合も同じである。

第二句で疑念を払拭する形式についてはまた『同書』で次のように説かれる。

「そうだとしても、経典では〈一切法は空である〉と説かれるので、何故この経典と矛盾しないのだろうか」というかもしれないが、これは矛盾していない。すなわち「そこには二つ無い」というのは「虚妄なる遍計分別は所取・能取というものを離れているもの関して空である」と言うのであって、「自性が全く無い」ということではないから、経典とは矛盾しない。(DT bi 193b7-194a1)

「依他起が自性によって成立しているならば、〔第二転法輪で〕〈一切法は自性によって有るものに関して空である〉と説かれたのと矛盾するのではないか」ということの〔疑念に対する〕答論として、そのような遍計分別は、外部の所取・内部の能取として顕現するが、所取・能取という隔絶し顕現しているその通りに有ることに関しては空である、ということを意図して〈それ自身に関しては空である〉と説かれるのであって、自己の特相によって成立した自性が畢竟無であるということではない、と説かれている。〔アサンガ・ヴァスバンドゥ〕御兄弟の典籍の意味はほかならぬこれだけの通りであり、その同じもの(依他起)が勝義として有る」とも解釈されることから、この〔唯識派の〕教義は「依他起はそれ自身が空である」と決して解釈しないのである。

第三句で疑念を払拭する形式についてもまた『同書』で次のように説かれている。

「もしもそのような二つのものが、兎角のように畢竟無であるが、虚妄遍計分別が勝義として自性によって有るのならば、そうすると空性は無であることになってしまうだろう」というかもしれない。しかしながら、それはそのようではない。すなわち「空性はここに有り」すなわち「虚妄遍計分別は所取・能取を離れたものである」というこれが空性であるので、空性が無であるということにはならないのである。( bi 194a1-2)

「遍計分別が有る」ということと「二つのものは無い」というものとで、「有とは前者(遍計分別)であり、無とは後者(二つのもの)である」ということが示されるから、「空性が無い」と思うだろう疑念が退けられている。「遍計分別が勝義として自性によって有るのならば」という論難は「自己の特相により成立しているものであれば、勝義として有るものである」という主張を採用しているのであり、彼に対してその解答でも「その通りであるとは承認していない」とは言わないのであって、その通りであると承認していることに基づいた解答をしている。

このことについてはまた『唯識三十頌註』でも、

また「識と同じように、所知も実体にほかならないのである」とある者(婆沙部と経量部)は考えている。また別の者たち(中観派)は「所知と同じく識も単なる世俗有であって、勝義有ではない」と考えている。しかし単純化して説いているこの二種の説を否定するため、プラカラナは著わされている。( shi 147a1-2)

というようにこの阿闍梨(スティラマティ)はおしゃっている。したがって依他起を畢竟無であるとする説は、先に引用した『菩薩地』の場合のように「勝義有である事物は畢竟無であり、いかなる場合でも無い」とすることを否定しているのであって、「所知のなかに有り得ない」と主張するこれを否定していないのである。

第四句で「二空が遍計分別に確固として有れば、なぜ証得されないのか」という疑念が払拭されている。何故ならば、空性という「それ」に対して、二顕現を迷乱する遍計分別が有るので、それ(遍計分別)によって〔空性が〕蔽われているからである。

「一切法は単純に空であり、不空であり、有であり、無である」とすることは、まさに「辺」となってしまうから「中道」ではなく、それ故にそれらを退けるために第二偈が説かれているのである。

遍計分別と空性に関しては「空ではなく」であり、所取・能取の二者に関しては「不空ではなく」、「一切〔が説かれる〕」とは、遍計分別という有為と空性という無為のことである。この〔第二偈前半の〕解釈は「仏母経などで『これら一切は単純に空でもなく、不空でもない』と説かれているそのことと対応している」とヴァスバンドゥが解釈した通りであるとしなければならないのであって、「不空は円成実であり、不空ではないものは他の二自性である」と解説することは意味されていない。

〔第二偈後半の〕「有(であるので)」とは遍計分別のことであり、「無(であるので)」とは二者のことであり、「有(であるので)」とは遍計分別と空性との両方がが相互に有ることが示されている、とヴァスバンドゥ師弟の解釈通りにしなくてはならないのであって、「その二つは、一方が他の対象として有ることにより、もう一方のものは空である」とこれらとは逆に解釈し、それを彼らのご意図であると解釈するようなものであってはならない。

スティラマティは『迦葉所問章』では有無の二辺がそれぞれ〔何であるのかを〕説かれ、それに続けて、その両者の「中」とは、諸法における無礙解中道のことであると述べ、まさにそれが中道であることがこの〔経典の〕密意であると説明している。したがって「まさにこの唯識性の理趣こそが中の意味である」と註釈することで、他の中観派から見るならば、前者(この唯識派が説く「中」の意味)よりも後者(迦葉品における中の意味)の方がより勝れていると考えるが、この〔唯識派の中の意味の設定〕教義ではその両者(二つの形式)を同義であるとなさっている。

正理随順派の解釈

ヴァスバンドゥとスティラマティがどのように解釈しているのか、ということは、既に述べたが、ディグナーガも『八千頌般若経』の諸々の意味を『摂大乗論』と同じように『八千頌梗概』で註釈されている。ダルマキールティも『量評釈』(第三現量章)で次のように説いている。

そのうちの一方が無いことによって、
更に両者ともが損なわれることになる。
したがって何であれ、二空であるもの、
これはまたそれの実義である。(二一三偈)

これは「所取と能取という別異実体に関して空である」いう空性が依他起の実義である、ということを説いており、「諸法無自性」と経典で説かれる密意もまさにこれにあると註釈し、〔『量評釈』で〕

別異な事物として存続しているこれは、それを別異とすることに依る。
それが汚染されていれば、それら別異なも汚染されたものとなる。
所取と能取という形象と異なった、何からの特相は存在しない。
しかるに特相は空であり、それ故に無自性であると説かれている。

と説かれている。諸々の事物は「生」などの別異ものとし区別しているのは、自己認証だけによってではないのであって、ほかならぬ二顕現している認識が区別しているのである。二顕現もまた「汚染された」つまり虚偽であるので、それによって設定されているものもまた虚偽である。所取と能取の形象には、それとは異なる別異な対象の特相も無く、二顕現する特相も顕現通りには存在しないので無自性であると解釈している。また『量評釈』(第三現量章・二一六偈)では次のように説かれている。

「蘊」などの区別があることで、一切は規定され限定を有している。
しかしそれは実義ではないのであり、それ故に、それらは特質を離れている。

〔第二転法輪で〕「色蘊」などは規定されるものであり、「形をとり得るもの」は規定主体たる定義であると説かれるのは「すべてのものは動作対象・動作主体によって限定付けし、その基体は実体として有るものであるが、動作対象・動作主体であるものそれ自体は実義として成立していない」ということを意図することを通じてもまた、「特質に関する空である」と説かれていると解説しているの。これは声聞部(経量部)とも共通するものである。『量評釈』(第三章)

もし「一切が無能力である」というのならば、種子などの芽に対する能力が見られるだろう。また「それが世俗である」と主張するのなら、まさにその通りとなる。(四偈)

と説かれているが、これは先程『摂決択分』で説かれたものと要点は同じである。これらの解釈の仕方の詳しいことは膨大になる恐れがあるから、ここでは記さない。

D2 増益辺を詳しく否定する

D2には二つある。すなわち、E1否定対象である増益の確認・E2それをどのように否定するのか。

E1 否定対象である増益の確認

増益と増益辺の確認

この教義での「正理の否定対象」には二つ有る。

そのうち「損減」は単に学説で設定されたものだけのものであり、しかも自派の無自性論者(中観派)の教義のことである。これはこれまでに説明してきた通りである。

「増益」には分別起・倶生起の二つがあるが、分別起は他派・自派の実在論者の教義のことである。倶生起に含まれる「人我に対する増益」は後で説明するから、まずは「法我に対する増益」を説明したい。何故ならば、学説によって法我を想定するのは倶生起の把握する法我を定立するためであり、正理の否定対象の中心もまたこちらであるからである。

この多くの典籍では、所取と能取という別異実体として把握することを法我執である説明されているが、それ以外にの法我執に対する解説しているものはない。しかし『解深密経』では「依他起は、個体や特殊体として遍計執されているものにおいて、それ自身の特相には依拠していないので相無自性、すなわち法無我なのである」と解説され、その間接的意味によれば、依他起において個体や特殊体として表現されているものが、その自己の相により成立していると把握することが「法我執」であることが示唆されている。『菩薩地』『摂決択分』『摂大乗論』は「それによって把握される通りのものに関して空である」という空性を「中」の究極的意味であり、法無我・円成実のことであると様々なな努力で証明しているので「依他起において増益された法我」であるこの遍計所執は一体如何なるものかを理解しなければ、この教義の「法我執」と「法無我」を分析して理解していないこととなる。

「遍計所執をその自己の特相によって成立していると把握することが法我執である」と主張する場合、この遍計所執とは、「蘊」などにおいて「これが色である」という場合の個体や「これが色の生起である」などという場合の特殊体として、名称や記号において表現されるもののことである。単純に「蘊」などは有るので、そう把握することは「増益」ではないのであって、「蘊」などに対して「それは自己の特相により有るものである」と把握することが「増益」である。

それに対する論難の排除
論難

「色」という名称・記号たるものが自身の相によって成立しているとすること(増益)を否定する場合、(論難の主題)、もし「言語表現の主体が直接の客体としていること」を否定しているとしよう。

そうならば、直接の言語表現の際の対象と主体が、対象普遍・言語普遍であることは対象実在論者にとっても既に成立済みのことであるので、いまさら〔声聞部に対し〕「依他起はそれに関して空である」と証明しなくてもよい。「それに関して空である」ということを成立させる量により法無我が成立することはないし、「それを所縁とし修習して所知障を浄化する」ということにはならなくなってしまう。それゆえに『解深密経』で「遍計所執は自相として成立しているものに関して空である」と説かれているこれを法無我・円成実であると解説したが、一方で『菩薩地』ではその空は所知障を浄化する所縁であると解説したことが矛盾してしまう。

「色」などが、言語表現の主体の思惟基体であることを否定する場合「思惟対象たる基体孤立体は、自相によって有る」ということを否定しているとすれば、「依他起は自己の特相によって成立している」ということを否定してしまっている。

「思惟基体の自体孤立体は、自相によって成立している」ということを否定しているとしても、「比量の計量対象が共相であり、非事物である」ということは経量部によっても既に成立済みなので、不適切なのである。

また、『大乗流転有経』(BT no.892)(『大方等修多羅経』)

様々な名称によって、様々な諸法が述べられるけれども、
そこにそれは存在しない。これが諸法の法性である。

と説かれる〔この〕聖言は、声聞部にとっても不成立であるので『解深密経』の遍計所執空の法性が、これよりも特に勝れているとも思われない。この空の形式は所取・能取という別異実体を否定した唯識性の意義が無化するものであるのので「法無我とは所知障を清浄とする所縁である」という解釈が一体どうして適用されることになるだろう。それ故この教義で何故矛盾しないのか、その論拠を説明する必要がある。

論難に対する解答

では解説しよう。この空の形式を『菩薩地』では「所知障を清浄にする智慧の所縁」であり「二辺を断じた無上の究極の中道」であると解釈し、また『摂大乗論』ではこれを通じて悟入することが唯識性への悟入であると説かれる。したがって声聞部により既に成立済みなものではない。

したがって、これ(唯識性への悟入)とは逆方向たる「増益」を「個体や特殊体として名称によって仮設されているものにおいて、色などはその自己の特相により成立している」とする把握であるとする〔唯識派と共通した〕学説を承認することも声聞部には有り得ることである。そしてこの説を否定するために『菩薩地』では聖言を用いて否定しているのであり、他派(外道)に対し〔『大乗流転有経』のような〕自派の説法師の聖言を用いて否定するのは不適切であるので、否定しようとする対象としては、自派(仏教徒内部)〔という場合〕にも有るものであり、無自性論者と瑜伽行派との差異を否定をしている訳ではないから、声聞部のことを表していることが分かる。これを論拠とし『解深密経』の聖言を〔反証として〕引用するのではなく、彼ら(声聞部)にとって〔正しいとして〕成立している三つの聖言を用いて〔声聞部の増益の見解を〕否定しているのである。彼ら(声聞部)における「倶生起の増益」を確認しておくのなら、それは次のように『摂決択分』で説かれているものである。

また、凡夫たちは言表される事物(依他起)において、五因により、名称や言語表現の通りの自性を思惟していることを知らねばならない。(zi 21a)

〔凡夫たちに対して〕「この事物の自性は何だ」と問いかけた時、「その自性は〈色〉だ」と答えるのであって、「名称が〈色〉だ」とは答えない。これが第一の理由として説かれている。これが意味しているのは〔凡夫に〕「〈色〉という言語表現が指示対象とする自性は何か」と問い掛ける時、〔凡夫達は〕「その自性は〈色〉だ」と言うのであって、〔倶生起の増益を断じた聖者のように〕「〈色〉という名称で表現されただけのもの(遍計所執)が、〈色〉と言表するその指示対象の自性だ」とは言うことはあり得ないのである。

したがって〈色〉という言語表現が記述される時、〈青〉(基体孤立体)が〈色〉(自体孤立)の言説を記述する基体(依他起)と見做されているもの(遍計所執)は、顕現している通り見えているので「名称や記号で表現されない、それ自身の実相の力によって成立しているもの」であるかのように顕現している。この〔ような〕〈青〉(基体孤立体))を「顕現している通りに成立しているものである」とする把握が、「〈青〉(基体孤立)において〈色〉(自体孤立)という名称による表現したものにおける、自己の特相によって成立しているものである」と把握する増益なのである。これが凡夫たち〔の感官知〕に有る、ということは先に解説したことによって成立するのであり、こうした把握の形式そのものは〔倒錯ではなく対象に対応している分別なのであり〕適切である、と〔毘婆沙部・経量部という〕対象実在論の二派も主張している。したがって「ことばが言表対象とする自体孤立体は、分別によって表現されている」(経量部と唯識派の共通の学説)けれども、「その基体孤立体として、自相が適用される」とする〔経量部不共の〕教義とどうして一致しようか。

特殊体として仮設されるものに対する増益形式や別の法における仮設形式もこれによって理解される。同様に、客体・主体という二つのものとして顕現するものに対して、その二つが別異実体として顕現している通りのものとして有るとする把握もまた法我執の増益である。残りの論難の解答はあとで説明する。

E2 それを否定する形式

E2には2つ、すなわちF1 否定そのもの・F2 それに対する論難の排除。

F1  否定そのもの

『解深密経』で〈依他起は遍計所執に関して空である〉と証明する正理が説かれていないものを理解させるために『菩薩地』『摂決択分』はそれぞれ三種の正理を説いている。『摂大乗論』でも「依他起の個体が、遍計所執の本体として顕現する通りのその本体ではないことが何故明白なのかと言えば」という提示される問いの答として、

名称に先行した意識は無いからである
複数であるので不確定であるからである
それと同体の本体は複数で本体が混在するのは矛盾するからである
これらのことによって成り立するだろう。( ri 15b4)

と説かれている。

ここでまず「ある法と同体である」という矛盾により、依他起は遍計所執に関して空であるとどのように成立するのかを分かりやすく述べると、〈胴部が隆起したもの〉が〈瓶〉という言説の基体や所依であることが、もし〈胴部が隆起したもの〉の実相もしくはそれ自身の相によって成立しているのなら、記号化では構成されないものとなり、記号の客体を有する意識も記号には依存しないので、〈瓶〉という名称を構成する以前に〈胴部が隆起したもの〉を〈瓶〉とする意識が生じることとなる。

「単一の指示対象しかないものが、複数の指示対象を本体とする」という矛盾で〔依他起は遍計所執に関して空であることが〕成立することになるのは、前主張の立場では、単一の指示対象を「帝釈」「自在者」「街を破壊する者」等といった複数の名称が参照しているこれは、事物の力によって参照しているはずであるが、分別上に顕現する通り事物において有ることで、その指示対象が複数であることになる。

「混同しない指示対象が混同している」という矛盾によって〔依他起は遍計所執に関して空であることが〕成立することになるのは、、前主張の立場では、二人の人物に対して単一の〈ウパグプタ〉という名称を使用する時に、「この人がウパグプタだ」と思う意識が生じるのには差がないので、その名称や分別はまた、事物の力によって二人の人物を参照しているので、二つの指示対象が同一の対象であることになる。

「色等という分別の思惟基体たるこれが勝義や自らの相により成立している」と把えても、「名称として記述される場は自相により成立している」と把えるのと同じなので「この名称はこちらである」という記号化を知らない者にも、否定対象の増益は有り、それを否定する正理もまた同じである。

『菩薩地』では「もし先行して存在する指示対象に対して〈これはこれである〉と名称を後で表現すれば、そう表現されていない時に、この指示対象それ自体が存在しないことになってしまい、いまだ表現されていない時にも、それ自体は存在し、それに対して後から表現するならば、命名していない時点で、〈これは色である〉という意識が生じることになってしまう」と否定している。(wi 25a5-b2の取意)

ある記号化におけるその直接の客体が、もしもその指示対象の個体として自相によって成立しているのならば、記号との結合化には依存しないで、その名称に対する意識を生じてしまう等の過失が有るのは確かであるが、〈色〉等といった記号を付託する場や分別の思惟基体であるこのものが、自身の相によって成立していることについて、そうした過失は起こらないと声聞部は語っているのと同じなのである。

このように色等という分別の思惟基体たるこのものは、名称や記号で構成された遍計所執であるが、量によって成立しているから、否定不可能であり、それ自体は、こうした事物、それ自身の相によって成立していることは、単なる名称で構成された遍計所執という所知には存在しえ得ないものであるので、名称や記号で構成されているにも量による成立者とそうでないものとの二つが有る。しかし、名称と記号で構成されただけのものである限り、それには因果は妥当しなとこの派(唯識派)は主張する。

対象実在論の二派は、色などという分別の思惟基体や記号を付託する場に、それ自身の相によって成立することを否定すれば、それらが有ると想定できないので、論理学者に知られている「自相」ではない。たとえば、「瓶は無い」は絶対否定であり、それと場とを〔「瓶不在の場には、瓶は無い」というように〕共通基体として合体させても、絶対否定と事物との両者とが対立すると否定しないのと同様、「識」という分別の思惟基体であるものが、勝義不成立な遍計所執である、ということと、識は勝義として成立している、というこの二つもまた対立していないのである。

したがって、「様々な名称によって」等と説かれるものは、声聞部にとって成立する経典であるけれど、彼らが説明しているものと意味上区別がないということではない。たとえば、大衆部の聖言では「根本識」とあるものは、この派では阿頼耶識であると解釈するのと同様なのである。

先に説明した、個体や特殊体として構成されたものが、それ自身の相により、もしくは、勝義として有るとする把握は、所知障の根本であり、それ故に、それが把握している通りのものとしては無いと決択する対象は所知障を浄化する所縁としても適切なものなのである。

これらの正理によって唯識性にどのように悟入するのだろうか。色から一切智までの諸法は、名称の言説を記述する基体であり、分別の思惟基体となるが、それたるものが勝義として成立することを否定する時、言表主体たる名称、言表対象たる指示対象、名称と指示対象の関連付けに依存し、言表対象たる指示対象の個体や特殊体として顕現する意分別は、顕現通りの思惟する基体の指示対象が無いので、そのように把えることは不迷乱なものは無い、と思うことで、所取・能取という二者が無い、唯識性へと悟入しているのである。『摂大乗論』でこう説かれる。

このようにして菩薩は唯識性へと悟入しようと努める。すなわち彼の菩薩はこの文字や指示対象として顕現する意志言語は、そこに文字のその名称も意志の分別したものに過ぎないと完全に正しく分別する。文字に依存しているその指示対象も、意志言語に過ぎないと正しく分別する。その名称もまた、個体や特殊体として仮設されているのに過ぎないと正しく分別する。それゆえに単なる意志言語を所縁とし、名称が参照している指示対象を、個体や特殊体として表現可能であって、個体や特殊体を伴った指示対象の相であるとは認識しないのであり、その時、四尋思・四如実遍智により、文字や指示対象が顕現しているそれら意分別は、単なる表象であること(唯識性)に悟入する。( ri 24a6-b2)

[反論]これは意知が分別に依存した所取・能取を否定しているのであって、堅固な習気から生成された無分別知に依存した所取。能取を正理で否定しているのではないので、唯識性への悟入としてどうして妥当なものとなるのだろうか。

[解答]そのような過失は無い。すなわち、所取たる青という別異対象を把える分別の基体たるものが、自己の相によって有ることを正理で否定される限り、青という思い込みの基体であるものは顕現し、その青に対する把握は、顕現客体に迷乱して成立し、それが顕現する時、自己の相による成立者として現象するからである。それが成立すれば、その青は、自己現象化する知とは異なった別異実体として無いことが成立する。

[反論]では、「識という分別の思惟基体であるものは、勝義として成立している」ということを正理によって否定すれば、それが顕現しているその自己認証は顕現客体に倒錯している〔現量ではない〕ものとして成立することになるだろう。それが顕現している時点、自身の相によって成立しているものとして顕現しているからである。それが成立しているならば、その認識の経験上、自己の相により成立しているものは無いので、瑜伽行派の学説を捨ててしまうことになってしまう。

[解答]そのような過失は無い。何故ならば、自己認証にとっては識という分別基体であるものは不顕現であり、青の把握には、青という外部対象として思惟される思惟基体であるものが顕現しているからである。思惟基体であるものは、、二顕現を欠いた自己認証等の上に顕現不可能であるが、二顕現を伴う青の把握に対しては顕現する、ということは矛盾していないからである。

分別基体たるものそれ自体が顕現している時、必ず二顕現が有る、ということの論拠は、それの普遍像が分別に示現する時、必然的に二顕現の形象を伴い示現することにあるが、これは〔すべての〕知に共通しているわけではない。分別に普遍像が現象していても、単なる経験のみである、形相を伴い現象するからである。分別に二顕現は必然的に有ることが一致するからといえ、それは同一であるとは言えない何故ならば「分別に二顕現が有る」ということと「その対象が二顕現という形象で現れる」ということとの二つは、同義でないからである。さもなくば「二顕現を欠いたものが、分別上に現象することは不可能であると承認しなくてはならず、もしそうであるとするとこれもまた正しくないのである。何故ならば「二顕現を欠いたもの」は「有り得ないもの」となってしまうからである。

[疑念]〈青〉という分別の思惟基体たるものは、単に分別によって記述されるだけのものであるので、無分別には不顕現ではないだろうか。

[解答]〔もしもその通りであるとすると〕幻である馬牛たるものも、無分別に顕現しないことになってしまう。分別が記述しただけのものであるからである。したがって「個体や特殊体として仮設される遍計所執に関する空が円成実である」と『解深密経』で説かれるこれは、所取・能取という別異実体を否定したものではなく、その経典の止(奢摩他)の箇所で外部対象を否定するものであると明瞭に説かれている。

一般に、遍計所執には、共相のすべてや虚空等の多くが有るが、これらを〔そのような遍計所執が〕『解深密経』で説いていないのは何故なのかといえば「遍計所執に関する空というこれが円成実である」と記述する時には不要であるからである。これらの多くは名称や記号によっては記述されない有であるが、それ自身の相により成立しているのではなく、単に分別によって記述されるだけものであるからである。

外部に依存する所取・能取の否定には、『摂大乗論』の夢や鏡像等の正理、『唯識二十論』の無分の極微を否定する正理、ダルマキールティの所取・能取相がその通り生じることを否定する正理、ディグナーガの元素の積集と原子とが把握対象である正理、といったものがある。

仏母経典で「無い」と説かれるものがすべて遍計所執を否定していると『摂大乗論』で説明されるのは、この『解深密経』の遍計所執の否定の形式を理解しなければ、所取・能取という別異実体たる遍計所執だけが説かれているから、瑜伽行派自身の教義上全く正しくない多くのことを語る必要がでてくるし、また常・無常等のいずれにものとしても把える基盤が無いと説かれるものをこの〔唯識派の〕教義が説明することが困難になってしまうのである。したがって「何らのものとしても把握される基盤が無い」と説かれたのは三昧のことを指しているのであって、こちらはそうであるが、あちらははそうではないと区別して、把える基盤が有ると説かれたものが、後得を判別している時のことである、と密意されていると言わねばならず破綻してしまう。

『菩薩地』や『摂大乗論』や『阿毘達磨集論』などで四尋思・四遍智が説かれるのは、唯識派の見解を確定するための方便であり、唯識性に悟入するための最勝門であり、諸煩悩の基盤を支えている分別という所知障に対する対治であると説かれていることなのであり、それらの意味を理解するためには、『解深密経』で説かれる遍計所執を否定する正理と否定対象である増益とを微細な点から理解しなくてはならないように思われる。特に彼らの正理により、所取と能取が別々の実体であることを否定したものを通じて唯識性に悟入するのである、という形式を理解する必要があるように思われるが、考察すらも行われていなかったように見受けられるので、智者たちに考察の入口だけ示しておいたのである。

F2  それに対する論難の排除

『解深密経』との対立の排除

[論難]『解深密経』(第七章)では「依他起を遍計所執自性であるとする思惟は、煩悩を引き起こすものであり、それによって業は積まれ輪廻流転する。しかし依他起を遍計所執の相自性が無いと見るのなら、それらは順次退けられるのである」(28b3-7の取意)と説かれ「声聞・独覚・菩薩の三者とも、まさにこれと同じ道と同じ成就によって涅槃を得るので、彼らの清浄道と清浄は単一のものであり 第二のものは無いのである」(DK 30a4-30a6の取意)と説かれるが、これは依他起が遍計所執に関し空であるとこれまで説明してきた形式と異なるものを説いているのではない。しかるに声聞・独覚も法無我を解することをこの経が密意するのか否か、密意するなら先程〔この空形式は唯識派〕不共であると解釈したことに対立し、密意しないなら、経典の密意を一体どのようにに解釈するのだろうか。

[解答]これについては『菩薩地』で

個体や特殊体としての分別と塊を把握する分別によって、分別の所縁たる事物を戯論するの所依が生ぜしめられて、それに基づいて有身見が生じて、それによりそれ以外の諸煩悩が引き起こされ、輪廻するが、四尋思と四遍智によって、「分別が捉えている対象は無い」と理解するならば、それらは退けられる。(wi 28b3-31a3の取意)

と説かれている。同様に、諸法において個体や特殊体として仮設されているものが自己の相により成立している、と把握する法我執によって有身見の根本が作られると御主張なさっている。法我執が人我執の基体となることは、声聞独覚に法無我の証解はない、と主張する中観派(自立派)もまた主張している。その場合、法我執を滅尽すれば人我執は退けられるが、法我執を滅尽しないと人我執が退けられない訳ではないので、輪廻の究極の基体(法我執)を退けなくても、輪廻から解脱することは矛盾していないのである。

それゆえに〔『解深密経』で〕「まさにこの同じ道」と説かれるのは「依他起が遍計所執の特質によっては空であると理解する道」を指しているけれども、「法無我の道」を指している訳ではないのである。何故ならば、「依他起が遍計所執によれば空である」ということを指して「人無我」とされることも『阿毘達磨集論』で説かれているからなのである。「人無我を理解することにより、煩悩が浄化されて、煩悩を断じただけで解脱する」という点では大乗・小乗の差異はないということによって、「清浄道と清浄とも一つである」と説かれているのである。

「蘊などが依他起であり、それに対し法我として増益されたものが遍計所執であり、それ(依他起)がそれ(遍計所執)に関して空である、というこれが法無我たる円成実である」と設定することが大乗教典の目的であると『解深密経』で註釈されていることの間接的意味によれば「蘊という依他起は人我という遍計所執に関して空である、というこれが人無我たる円成実である」と設定する三自性のこのような設定するだけのことが小乗経典の目的であると理解することが可能であり、それゆえに第一転法輪を説いた所化は「人無我を指している特質無自性を理解するに相応しい器量としては妥当しているが、法無我を指している特質無自性を理解するのに相応しい器量として妥当ではない」と説かれる、と『解深密経』により間接的に註釈されるので、「善く判別された法輪(第三転法輪)はすべての向乗者のために説かれた」と説かれたのものそのことなのである。

『除害論』と対立しても過失ではないことの解説

論難の提示

もしも「個体や特殊体として仮設されている遍計所執」と「所取・能取が別々の実体である遍計所執」とによれば空であるとするすべての箇所で、依他起のみが空の基体とされ、それは、二つのものによって、真相によって空である、というこのことが円成実であるとする必要があれば、ヴァスバンドゥが『三母除害論』で

(「眼は眼によって空である」という場合)そこで「眼」というのは「法性の眼」のことである。「眼によって」というのは「遍計執された眼と仮設された形象という眼とによって」ということである。「空である」というのは「離れている」という意味である。〔したがってそれは「法性の眼が遍計執された眼と仮設された形象をもっている眼とを離れている」という意味である〕同じように「耳は耳によって空である」などということにも適用されるのである。(pha 54b7-55a1)

〔「法性の眼」という〕円成実を空の基体とし、他の二自性に関して空であると説かれているのは、どのように解釈するのか。

それに対する解答

依他起の遍計所執に関する空が実義であることの妥当性

まず瑜伽行派や中観派のいずれの教義でも法無我たる円成実を確定する際、何を空の基体とせねばならないのかは、法我執が法我であると把えているその基体に依存している。たとえば縄に対し蛇であると把え、怖がっている苦しみを取り除くとき、縄を空の基体とし、それは蛇に関して空である、と示さねばならないのであり、縄の蛇に関する空を空の基体として捉え、これは縄や蛇という別異な対象として有ることに関して空であると語るのは不適切である。法我執についてもまた同じことがいえ、たとえば、原子は方分をもたない、それは集積体として把えられる、時間的な先後に分割不能な識が刹那である、それを結びつける相続の識が有ると把える、といった、学説で意識が変化した者たちだけにが記述していることは、、彼ら学説を述べる人たちだけにとって有るが、それ以外の有情には無いものである。それゆえ単にそれだけが無いという空を示したとしても、無始以来付きまとっている倶生起の我執に何らの損傷も与えることができないので、倶生起の我執で「我」であると捉えるこの基体が、その把えている通りの我に関して空である、ということを示さなくてはならないのであり、学説が想定して構成されているものを否定することは、単にその否定の一部に過ぎないものであることを知らねばならない。それ故、普通の有情たちは、見たり聞いたりしている対象たる眼や色等の内外の事物、すなわちこの単なる依他起を「我」であると把えているで、これを空の基体として空を決択しなければならないのである。そうではなく、円成実は、他二自性と別異な対象として有ると思い迷乱し把えているわけではないから「円成実は他の二自性という別異な対象として有るものに関して空である」という無我を一体どうして決択しなくてはならないというのだろうか。

また「法我が有る」と把えることは「峠には火が有る」と把えるような、ある何らかの別異な対象が有ると把えることではなく、自身の心が、それ自身とは異なる外部の客体、もしくは内部の主体として、各々隔絶し顕現するが、その顕現通りに成立していると把えていることなのである。だからこそその対治として〈客体や主体として顕現しているそれは、所取・能取という別異実体として不成立である〉と示すのであって、〈所取と能取という別異な対象としてはそこに無い〉と示すのではない。

このような理由で『中辺分別論註疏』では〔この空の形式は〕「〈経堂は比丘などに関して空である〉同様ではなく〈縄が蛇に関して空である〉と同様なのである」と説かれており、法我に関する空のもう一方の形式もこれと同様である。

しかるに世間で「魔が東門に差せば、身代は西門へ置く」というようなものではなく、それに対して「我」であると思惟している基体たるこの依他起が、把える通りの遍計所執たる我に関して空でありこれが円成実であるというこの空の形式の空性を修習するならば、我執の対治となるのであり、この教義とは別な空の形式の空をいくら修習しようとも、我執に対して何らの損傷を与えることができないのである。

『除害論』の意味を別途解釈すると矛盾しないこと

『三母除害論』の解釈は次のようなものである。すなわち、分別における言表主体である言語普遍、言表対象である対象普遍、これが顕現しているのは「遍計所執たる眼」であり、把握されるものは「色処」であるが、それを把握するものと同体な眼として顕現している「仮設された形象たる眼」であり、言葉普遍や対象普遍となっている表現対象と表現主体とを離れているから「表現不可能なもの」であり、眼の所取・能取としてそれぞれの顕現しているものとなっているものを欠いた者、すなわち、三昧という自内証される円成実が「法性眼」である、と主張する。それゆえに「眼の法性」というこれは「聖者の三昧によって知られる対象は、表現対象・表現主体、所取・能取として顕現するが、二顕現を離れている時、他二自性に関して、この三昧の客体は空である」ということである。何故ならば、前二者の顕現が遍計所執であり、後二者の顕現が表現対象の形象であるからである。『同書』(『除害論』)ではまた、

そこにおいて、表現対象と表現主体という形象で把握している「眼」という事物が遍計所執たる眼である。その同じものが所取・能取と同体なものとして存続し、眼の形象として、各々顕現しているものが、形象として表現される眼である。その同じものは、表現対象、表現主体という形象を離れた表現不可能なものであり、顕現を伴っていることは離れた自内証たる円成実自性であり、法性眼と呼ばれる。このように汝が勝義の思惟を修習する時、行の標相である事物は顕現しないから、勝義としてはそれは無く、世俗としては有ると知らねばならないのである。(pha 54b7-55a1の取意)

と説かれており、「聖者の三昧対象は二顕現が無い」と解説されるからである。したがってそれはより根本的な見解たる法無我・円成実を確定する形式ではない。『除害論』は、聖者の三昧にとって単に有る対象を「勝義として有る」と解釈しているが、三昧によって実義を理解しようする者は誰であれ、自身の主体に客体が有ることを認めているに過ぎないのであり、勝義有・勝義無を議論する際の勝義有のことを示唆していることに一体何故なるだろうか。真相を考察する正理による考察に耐える勝義有をそれ(『除害論』)が全く主張しないということは、空性空性・勝義空性・無為空性の箇所でそのような主張を分析し多くの否定を述べていることから分かるが、そのことは冗長になる恐れがあるのでここでは説明しない。

『除害論』の所説と著者の検討

仏母経典における色から一切智までの各々に三つずつ想定し、空の基体たる表現対象たる形象は、否定対象たる遍計所執に関して空であり、それは法性であり円成実である、と解説しているので、表現対象たる形象の眼は遍計所執の眼に関して空である、ということが法性である、と解釈しなくてはならないのである。しかるに「三昧において前二者に関して後者は空である」ということを経典の密意であると解釈しても善いものとは思われないのである。

『同書』では、声聞上士の八分別を『評釈』で補足するが、これに該当するものは『二万五千頌評釈』に有り、依他起・円成実の両方は、真相を考察する正理による考察に耐えないと否定している。それ以外に、ヴァスバンドゥは「仏母経典の密意は『解深密経』で解釈される通りとすべきである」と『釈軌論』で説いているが、この解釈の方法とは全く異なっているものである。したがって、これはヴァスバンドゥが著されたものではなく、これまでの過去の書で「ダンシュターセナ作」とされてきた、この通説通りなのである。

D3 彼らが教説の了義・未了義をどのように判別したのか

自説の了義・未了義の設定

事物の実義を阿闍梨ご兄弟が註釈なされた形式を上記述べてきた。第一転法輪における外部対象を指し、所取。能取の二者が説かれたことを未了義であると解釈しているが、その密意の基体を『唯識二十論』は

そこから生じる種子と対象として顕現する表象というこの二つは
各々それ(表象)とその処との二種類であると牟尼は説かれている。(九偈)

と説いている。その目的はまた『同書』で

色等の処が有るということが、それによって所化の人たちに
密意により説かれたのである。化生の有情と同じである。(八偈)

と説かれているようなものである。「内外の処から、色を見る識が生じる」と示されているのは「それら以外の見る主体などが無いと理解させること」を目的としている。言葉通りでは支障があるのは、外界を否定する諸正理である。諸法において、個体や特殊体として仮設される遍計所執は法界法処であるので、その両者を区別せず自己の特相によって成立していると説かれたのはまた未了義である。

『阿毘達磨集論』では、「『大方広』で一切法無自性と説かれているのは、三無自性のことを意図して説かれているのである」(DT ri 105a2-3の取意)と解説されており、『摂大乗論』では「『大方広』で無いと説かれているものすべては遍計所執を指しており、「幻」などの譬えが説かれたのは依他起のことを指しており、四種清浄が説かれるたのは、円成実のことを指している。」と説かれる経典は仏母経典と思われるので、「第二転法輪は未了義である」と解釈するのも、それ自身(般若経)とそれに準ずるもの(第二転法輪に属する他の経典)であると主張している。『釈軌論』でも仏母経典で説かれた無自性などが言葉通りであると主張することが否定され、「『解深密経』では、一切法無自性等と言うそのすべてが了義ではないと解釈される」と説かれるので、仏母経典を第二転法輪として主張しているのである。

これを未了義であると解説する形式は、第一法輪で説かれた所取・能取とが未了義として適用される形式とは非常に大きく異なる。何故ならば、すなわち眼識が異熟した習気と呼ばれている、それ自身(眼識)の異熟種子である、そこから〔眼識が〕生じている種子と〔眼識に色などの外界の対象として〕顕現とを意図して『眼処や色処が有る』と説かれた意図はそれら小乗経典の〔説かれる所化に示そうとする〕言表対象として解説できないけれども、〔第二法輪で〕無自性の説の意図している、三無自性形式は、仏母経典の〔説かれる所化に示そうとする〕意味していること(言表対象)である、と解説できるからである。また「外処が有る」ということは小乗経典の内容として解説するけれども、無自性形式が区別されないで「勝義としてものは全くない」とする主張は仏母経典の内容として解説しないからである。したがって、「これら(三無自性)によって区別しないで、『一切法が勝義として無自性である』と解説することは仏母経典の意味していることであるけれども、それは未了義である」と註釈するのではないのであって、「そういったそれ(三無自性によって区別されないまま一切法が勝義として無自性であるという説)を言葉通りのものであると捉えるのは不適切であるために、単なるその意味していることだけでは確定していないのであって、再度その意味を解説する必要がある」という観点から「未了義である」と解説するのである。

解釈内容としては〈遍計所執の諸法は、自己の特相によって成立しないので、勝義無自性である〉〈依他起の諸法は、清浄所縁たるその勝義としては成立していないので、勝義無自性である〉〈円成実である諸法は、勝義でもあり、諸法の我たるものとしても無いので、勝義無自性である〉と註釈されている。

したがって「言葉通りの意味で把握しているのは、仏母経典によって目的として説かれている所化である」とは主張しないから、「それ(仏母経典)が目的としている所化はその経典の意味を『解深密経』で註釈される通りに理解している」と御主張なさっていることによって、後の二つの転法輪の密意は同じものなのである。

『方広(般若経)』に対して信解しているけれども、それを言葉通りと捉え、その経典の密意は、言葉通りの意味内容であると述べることが否定され、言葉通りの意味ではない経典の密意が有ると『解深密経』が明確に解釈してものにより、それを了義であるとするが、仏母経ではその意味が明白に区別されず、〔仏母経典の〕言葉通りに捉えるのは不適切であるので、未了義であるとしている。

「言葉通りのものに損傷するもの」は、「言葉通りに捉えるならば、三つの特質すべては、自身の特相によっては成立していないと把握する損減となる」という先程説かれていたそのことにほかならない。『釈軌論』でもまた次のように説かれている。
般若経で「一切法無自性」等といったこのようなことなどが何度も示されているし、またそこ(般若経)で解説されたものは、菩薩の過失無き悟入をしようとすることであり、……(中略)……また一切の罪障を各々懺悔することなども示されている。……(中略)……もしも「無自性」などの諸文節が、言葉通りに過ぎないものを意味しているとすれば、これはすべて対立していることになってしまう。何故ならば、守るべきことが何も無くなってしまうからである。そのために、「この原因からこのようなことになる」というような守るべきことも不適切になってしまうのである。更にそのような守るべきことを「一体何が守られて、何を守るというのか」とこのように思ってしまうのである。したがって〔般若経の〕それらの文節を言葉通りの意味としては捉えることは決して出来ないのである。それでは一体何なのか、と言えば、それは「密意を有するもの」なのである。(si 116b7-118a2)

「無自性」などが言葉通りのものであるとすれば内部対立してしまう、と指摘している。対立の内容としては「無自性であるならば、これとかあれを獲得しようとすることによって、仏母経典で学習しなさいと説かれている守るべきものや獲得しようとするものや、布施によって大きな受容をもたらす因果は、不適切である」と言うことであり、主として「依他起が妥当しない」とすることだと〔ヴァスバンドゥは〕お考えになっている。「仏母経典は了義である」と御主張される方々(中観派)も「それ(因果など)はまた世間の言説として〔有るの〕であって、勝義として〔有るの〕ではない」と取るべきもの・捨てるべきものとか、原因と結果などについては、説かれている通りであると何度も主張しているのであって、「一般的にものは全く無い」とか「言説として無い」とは主張していない。経典ではそれぞれのものに〔勝義として無いという否定対象の〕限定付けをしないけれども、全体に対しては〔勝義として無いという否定対象の〕限定付けがなされているので、〔唯識派にとっては〕「勝義として無い」ということを言葉通りであると主張すれば、因果などが妥当しないということを意味するのである。何故ならば、〔そのような主張は〕『菩薩地』や『摂決択分』でも「勝義として一切が成立してない」とする損減であると解説されて、否定されるからである。

勝義をはじめとして説かれた教説における了義・未了義の判別は、「〔「勝義として無い」と説かれた〕言葉通りでは正理の損傷が有るのか無いのか、ということで充分なのであり、これに損傷が有ると示す時、〔すなわち解答を与えて〕勝義有を正しく否定することができて、なおかつそのように否定されている〔本性によれば空である〕事物において、因果や束縛・解脱などを、量によって成立している(基体成立)と設定することがよく出来るならば、〔そのような人は反論をすることが出来るので〕反論を与えるのである。そうではなく、「芽の生起が量によって成立していれば、勝義生起となるので迷乱知によって生じると思惟することで〔のみ〕生じるので、世俗としてはそれら一切は妥当である」と〔いう誤った中観の学説である反論を〕述べていても、〔唯識派によって反駁される前述の正理による〕損傷を排斥できない。したがって、瑜伽行派が解釈するこの形式に基づいたらよい。〔一般に〕未了義であるという解釈形式にも沢山の形式があり、瑜伽行派は第二法輪を未了義であると解釈する形式は、まさにこのようなものなのである、と智者たちは理解されるとよいだろう。

『解深密経』では法輪が順に三つ説かれるのは、法輪の弟子の集団や釈尊の御齢等によって記述しているのではないのであって、表現されている対象の側面によるものなのである。しかも〔それらすべては〕無我なる対象を確定することに関連し、初〔時〕にベナレスで〔声聞の種姓を有する者を所化として四諦を始めとして〕人無我が説かれ、蘊などの法を、極めて細かいものへ帰属させることなく、真実として成立しているものを否定することもなく、「真実として有る」と多く説かれたのが一項目である。その後に〔中時に大乗の種姓を有する人びとを所化として〕、分類を特定せず、蘊などの一切法が真実として成立していることを否定したのが、また一項目である。更にその後〔第三時に三乗すべての所化に対して〕でそのなかの第一自性(遍計所執)は、それ自身の特質により成立しているものではなく、他の二つ(依他起・円成実)はそれ自身の特相により成立しているものであるという形式を、それぞれ区別した一項目が生じたので、それ(無我の確定)に関連したもののことを指している。こうした説かれる形式とは別様に説かれる他の諸経典がこれ(『解深密経』)の了義・未了義を考察する基盤として適用されるのは無意味であろう。

ラトナーカラシャーンティの学説の否定

『般若波羅蜜多口訣』で次のように解説される。

経典の密意が言葉通りのもの、それは『了義」である。その密意には第二の意味が無く、その意味に確定しているので「了義」とされる。では何によって意味が確定するのかといえば、経典それ自体、別の経典、その両者によってである。(hi 136a6-136a7)

第一のもの(経典それ自体)は『入楞伽経』や『解深密経』などであると主張され、それらによって自性の有無が明確に区別されていると考えられている。第二のもの(別の経典)は『八千頌』などであると主張している。これによれば自性が有るのか無いのかがが『解深密経』と同じように区別されてはいないと考えらえる。第三のもの(経典それ自体と別の経典との両者)は『二万五千頌』などであると主張し、その「弥勒請問章」に対して言葉通りのものであると思い込む転倒を排斥するのは未了義であるという解釈があり『解深密経』でもそれは未了義であると解釈していると考えている。

これらは第二法輪には「弥勒請問章」が無かったということに依拠している。彼の立場では、「弥勒請問章」によって設定されている三性説と『解深密経』で解説されているものとの二つは同義である、と主張している。その二つが意味することが同じであるとすれば、そのようなことは適切であるけれども、ヴァスバンドゥは、仏母経典で無自性などと説かれているものを『解深密経』などの他の経典によって「未了義である」と証明しており、仏母経典それ自身については言葉通りのものでは〔第一転法輪と第二転法輪との〕前後で対立していると指摘しており、「弥勒請問章」によって証明しているわけではないのである。したがってこれは御兄弟のお考えになっていることではない。〔「弥勒請問章」と『解深密経』という〕この二つは似ている箇所が有るので、区別するのは難しいが、その二つの意味することが同じであるとすれば、「一切法は勝義として無自性であるが、言説としては有るということが仏母経典の意味することであるである」と解説するのは不適当なのであり、唯識派の見解がその通りのものとなってしまうし、考察する基体も極めて重要なことであるから、中観派の箇所でそれを解説しよう。