2016.09.18

『解深密経』で了義・未了義がどのように説かれているのか

ジェ・ツォンカパ・ロサンタクパ著『了義未了義判別論・善説心髄』試訳(2)
訳:野村正次郎

A1 『解深密経』に基づく立場

A1には二つ、B1どのように経典で説かれているかを提示する・B2その意図をどのように注釈されたのか。

B1 どのように経典で説かれているかを提示する

B1に四つ、すなわち、C1経典における矛盾を回避しようとする質問・C2その矛盾を回避する答・C3三性とは何かを確認する・C4 それらにより成立している意味の説明。

C1 経典における矛盾を回避しようとする質問

『解深密経』では次のように説かれている。

 世尊よ、あなたは多くの異門を通じ、諸蘊の自相をお説きになられています。生相、滅相、永断、そしてその遍知をもお説きになられています。蘊と同じように、諸処・縁起・食までお説きになられています。またこれと関連し、諸真実それ自身の相、遍知、断、現観、修習、そして諸界に関するそれぞれの相、様々な界や多くの界、永断、その遍知、三十七菩提道品それぞれの自相、異なった立場、対治、未生のものの生・已生のものの持続、忘失しないこと、反復して生じるもの・増長し広大になるものもお説きになられています。
これに対して、また一方、世尊よ、あなたは一切法は無自性で、一切法は不生不滅で、本来寂静で、本性涅槃している、ともお説きになられています。
世尊よ、何を意図なされて、一切法は無自性であり、一切は不生不滅であり、本性涅槃している、とおっしゃられたのでしょうか。一切法は無自性であり、一切は不生不滅であり、本性涅槃しているとお説きになられたその時に意図なされていたまさにその意図を、世尊よ、私はあなたにお伺いしたい。(25a2-26a1の取意)

この質問は、ある経典では「一切法は無自性である」等と説かれ、また別の経典では「蘊などは自己の相等が有るものである」と説かれているが、この二つは言葉上では矛盾しているが、矛盾していないはずであるから、何を密意なさって「無自性」等と説かれたのか、ということを質問している。これと同時にこれは「自相により有るものである」等と説かれたものについても、それは一体何を意図なさって説かれているのだろうか、という〔初転法輪の〕密意をも問い掛けている。この箇所の「それ自身の相」という箇所に対し、中国の大註釈などでは「他のものとは共通しない独自な特相」のことだと説明されているが、これは正しくない。何故ならば、そもそも『同経』が「遍計所執は自己の特相によって成立しているものである」と説いているのことは明白であるし、遍計所執にも「他のものとは共通しない独自な特相」は有るので、「相無自性である」と「遍計所執」を言及できなくなってしまう、という過失に陥いるからである。「様々な界と沢山の界」という箇所について、註釈者たちは別のものを支持していると解説しているが、後続の経文を参照すれば、それは「十八界」「六界」を指示しているものであるといえる。「不忘」とは、忘れないことである。

C2 その矛盾を回避した回答

C2には二つ、D1どのように無自性であるのかを意図し「無自性である」と説かれたのかの説明・D2 何を密意として不生等が説かれたのかの説明。

D1 如何なる無自性を意図し「無自性である」説かれたのかの解説

D1には三つ。すなわち、E1略示・E2詳説・E3それらの喩例の提示。

E1 略示

『解深密経』では

パラマールタサムドガダよ、私は、諸法の三種類の無自性性、すなわち相無自性性・生無自性性・勝義無自性性のことを意図し、一切法は無自性であるとと示したのである。(26a6-26b1)

と三無自性を三つを意図し「無自性である」と説かれている。『摂決択分』でも次のように説かれている。

世尊は何を意図して諸法は無自性であると説かれたのか、といえば、所化の能力によって、それぞれに三種の無自性性を意図なされて説かれている。(DT zi 16b5-6 )

また『三十頌』でも次のように説かれている。

三種類の自性は三種の無自性であることを意図され
一切の諸法は無自性である、と説かれているのである。(二三偈)(shi 2b6)

したがって、たとえば「般若経等の経典で〝一切法は無自性である〟と説かれたのは、世俗の一切法を意図なされたものであって、勝義を意図なされたものではない」と解説するのは、『解深密経』やアサンガ兄弟の文献に矛盾するだけでなく、聖者父子の学説にも反するものとなる。

こうした、何を意図し無自性が説かれたのか、という問いは「何を意図し〝無自性である〟と説かれたのか」ということと「一体どのように無自性であるのか」ということとを問い掛けるものであり、それに対する回答も二つ順に説かれるが、まず最初のもの(何を意図し〝無自性である〟と説かれたのか)を解説しておきたい。

色より一切相智までの諸法の特殊体のそのすべてについて〝それ自体、その自性は無い〟と説かれたものを三無自性に帰属させて、それぞれがどのように無自性であるのかを説明すれば、より分かりやすいであとう、ということを意図し、無自性を三つに帰属させている。勝義・世俗のこの一切の法は三者に帰属しているということである。このようにされた必要性は、仏母等で、五蘊、十八界、十二処の諸法それぞれが〝実在しない〟・〝本性が無い〟〝自性が無い〟と説かれ、特に空性・法界・真如などの勝義の一切異門に言及し、それらに〝自性が無い〟と説かれたことにある。したがって「それらの諸経典で諸法は無自性であると説かれている法には、勝義は無い」と心ある人の一体誰が言うというのだろうか。

E2 詳説

〝自性が無い〟と説かれる諸法無自性が三つに帰属するとすれば、その三つとは一体何であり、どのように無自性なのだろうか。これについて説明しよう。

第一無自性 相無自性

まず第一無自性を説明すれば、これは『解深密経』では次のように説かれる。

そのうち、諸法の相無自性性とは何だろうか。それは遍計所執相のことである。何故ならば、それは名称や記号で表現された自相であり、自相によって存続しているものではないので、これは「相無自性性」と呼ばれている。(DK 26b1-26b2)

最初の二文の問答は「遍計所執は相無自性である」ということを表わされている。それに続く「何故ならば」とその論拠を問い掛け、その回答として、否定面では「自相によって成立していない」、肯定面では「名称や記号で表現された」という〔二つの〕論拠を説いている。こう経典を分析し、後出の二つも理解する必要がある。

遍計所執上で無いとされる相自性は、自相によって成立し存続しているもののことである。ここで、自相によって有るのか、無いのか、と説かれるそのすべては、名称や記号を根拠として表現されているものか、そうではないものか、といういうことであり、表現されるものすべてが存在していなくてもよい。また如何に表現されるのか、ということについても、帰謬派が、諸々の存在は名称言説で表現されている、とする場合とは全く異っているので、自相によって有るのか無いのか、ということの意味も〔唯識派と帰謬派とでは〕異なっているのである。

しかし、この〔唯識派の説く〕自相によって有るという把握が有れば、帰謬派における自相によって成立しているという把握は存在しており、ある基体に対し、前者のように把握していなくとも、後者のように把握することは有りうるのである。

第二無自性 生無自性

第二無自性を説明しよう。『解深密経』では、次のように説かれる。

諸法の生無自性とは何か。それは諸法の依他起相のことである。何故ならば、それは他の縁の力で生じているおり、それ自身と同体のものによってではないから、それ故に、これは「生無自性性」と呼ばれる。(26b3-26b4)

依他起上で無いとされる生自性、すなわち自性による生起とは「それ自身と同体のものによってではないので」と説かれることから、それ自身と同体のものによる生起のことを表している。すなわちそれは自身の力で生起するものである。

依他起には、本性によって生起するといった性質の自性は無いことから、無自性であると説かれるのであって、〔帰謬派が説くように〕「自相によって成立しているものは無いので、無自性である」とは説かない教義である。

第三無自性 二つの勝義無自性

第三無自性であるとされるものには二つがある。

依他起勝義無自性

まずは依他起のことを指してどのように勝義無自性であるとしているのかを説明したい。『解深密経』では次のように説かれている。

諸法の勝義無自性とは一体何だろうか。何であれ、縁起している諸法、それは生起無自性であることで無自性である。それらは、勝義無自性性であることからも無自性である。それは何故かと言えば、パラマールタサムドガタよ。諸法のなかで清浄な所縁であるものは何であれ、それは勝義である、と明示したが、この依他起の特質は、清浄なる所縁ではないからである。それ故に「勝義無自性性」と言われる。(26b4-7)

依他起は「勝義自性としては無い」ということによって「勝義無自性」(清浄なる所縁という勝義自性ではないもの)といわれる。何故なら、勝義とは、それを所縁とし修習することで障が尽きるものであるが、依他起を所縁とし修習しても障を清浄化できないからである。

それでは遍計所執も「勝義無自性である」と表現しないのは何故なのか。もしも 「清浄なる所縁ではない」という観点だけで表現するのなら、それはまた正しいだろうが、誤分別を排除するという観点によって、依他起は清浄なる所縁ではないとされ、それを理由に「勝義無自性である」と表現される。これに対し遍計所執には(そのようには)表現されることはない。それは何故かと言えば〝依他起は遍計所執に関して空である〟ということを所縁とし、それを修習することで「障を清浄化する」と理解している時、有法たる依他起をも必ず所縁とている。この時に「〔依他起である〕これも清浄なる所縁となるのではないか。それ故〔依他起も〕勝義となるのではないだろうか」といった懸念が起こるのであるが、しかし遍計所執に対しては、そのような懸念は起こり得ないからである。この懸念〔それ自体〕は過失は無いものである。たとえば〝声は無常である〟という確定は、〝声は常住である〟と把握することを排斥しているが、〝声〟を所縁とし、それを〝常住である〟と把握することを排斥しておらず、それは矛盾していない、ということと同様なのである。

依他起は、「清浄なる所縁」を指して「勝義」とする場合のこの「勝義」としては成立していないが、これとは異なる「勝義」として成立しているかどうか、それについては後で述べることとする。

円成実勝義無自性

勝義無自性の第二の設定形式についてはまた『解深密経』で次のように説かれる。

また、諸法の円成実相もまた「勝義無自性性」といわれる。それは何故かといえば、パラマールタサムドガタよ、諸法法無我、というこれは「無自性性」といわれ、それ(円成実)は勝義であり、勝義とは、一切法無自性性たる「諸法の法無我」、すなわち円成実たる清浄所縁であるので「勝義」でもあり、「諸法の我という自性が無い」ということで特徴付けられており、ただそれだけによって〔円成実であると〕設定されるものであるので、諸法の「無自性」とも言われる。以上のことから〔円成実は〕「勝義無自性」(勝義でもあり、無自性でもある)と言われるのである。(27a1-27a3)

また、『解深密経』では次のように説かれる。

もしも行の相と勝義の相とが別異なる相であるのならば、そのことによって、諸行の無我に過ぎないものや無自性に過ぎないものが勝義の相ではないことになるだろう。(13a2-13a3)

〔後述の〕喩例の箇処でも、虚空を単純な無形体であるとするように、無我を設定すると説かれるので、基体たる有為(依他起)上で「法我」を否定排除しただけの戯論の絶対否定を指してそれが「法無我円成実である」としているのは極めて明白である。

しかるに「この経典の示されている実義が了義なのである」と主張しつつ、不変円成実が、否定対象を排除しただけという抽象孤立化を通して設定せず、知の客体として顕現している否定対象を排除作業に依存していない、として〔不変円成実を〕自律的肯定であると主張するのは対立しているのである。

この円成実は「諸法の我」を否定排除しただけのもの(絶対否定)であるので諸法の勝義無自性と説かれるのであって、否定それ自体が、自身の相によって成立しているものが無いことによって「無自性である」とは主張しないのが〔この唯識派の〕教義なのである。

E3 それらの譬喩の提示

この三無自性は如何なる譬喩に対応するか『解深密経』では次のように説いている。

ここで空華の如しと相無自性を観ねばならない。パラマールタサムドガタよ。幻の化現の如く生無自性を観なければならない。勝義無自性の一方のものは同様に観なければならない。虚空は単に形質をもたないことで規定されるものであり、すべてに遍在するものであるが、これと同様に、この勝義無自性の法無我によって規定され、すべてに遍在するものとして、もうひとつのものを観なければならない。(27a3-27a7)

遍計所執は空華の如くたることは、分別で仮設されただけのものの譬喩であり、所知に有り得ないものの譬喩ではない。依他起がどのように幻の如きものなのかについては後述するが、円成実の譬喩の意味と対照すれば明白である。

以上、無自性と説かれたものが如何に無自性であるのかはこのように解釈されねばならず、そうではなく「三自性すべてが、それ自らの相によって成立しないものである」という無自性であると解釈するのならば、それが無自性であると説かれる経典を言葉通りに思い込むことなのである。もしその通りならば無見や断見を得ることになってしまい、三自性すべてに対する損減であるから無相見を得ることになってしまうからである。同様に〔この唯識派の教義では〕「それ自身の相によって成立している依他起が無いのならば、生滅は不可能なので、それに対する損減であり、自らの相によって成立している円成実が無いならば、それは事物の真相ではなくなってしまうだろう、とするのがこの立場の教義である。

[質問]自らの相によって成立しないという見解は、他の二自性に対する損減であるが、遍計所執に対する損減となるのは一体何故だろうか。

[解答]他の二自性が、自らの相によって無いならば、それら両者は無となり、もしもその通りだとすれば、遍計所執を仮設する基盤とそれを仮設する主体たる言説さえも無いことになるので、遍計所執が畢竟無となってしまうからである。これはまた『解深密経』で次のように説かれる。

私が密意し説いた甚深なる正しきものを如実に完全に理解することなく、もしその法を信解していたとしても、これら一切法は無自性に過ぎない、これら一切法は不生に過ぎない、不滅に過ぎない、本来寂静に過ぎない、自性般涅槃しているに過ぎない、と法の意義を言葉通りだけのものと強く思い込んでしまっているのである。彼らはこれを基盤として、一切法を畢竟無とする見や無相とする見を得るだろう。畢竟無とする見や無相とする見を得ている者はまた、一切法におけるすべての相で損減しているのである。すなわち、諸法における遍計所執相に対し損減し、諸法の依他起相や円成実相に対しても損減しているのである。それは何故だろうか。パラマールタサムドガタよ。すなわち、もしも依他起相と円成実相が有るならば、遍計所執相も完全に理解できるのであり、依他起相と円成実相とに対して無相とする見をもつ彼らは遍計所執相に対しても損減しているからである。このような理由で、彼らのことを、三相すべてを損減する者であるというのである。(DK 32b1-33a1)

「意味に対して言葉通りであると思い込む」という場合の「言葉」とは、無自性であると説かれる経典で「一切法は勝義として本性に関して空である」「自性に関して空である」「自相に関して空である」と説かれているものであり、そこで説かれているものをその通りであると把えることが「言葉通りのものである思い込むこと」であるという場合の指示対象である。

D2 何を意図して不生などを説かれたのかの解説

どのように無自性なのか、ということが以上のようであるとすれば、それでは「不生」などは何を意図し説かれたのか。これは第一無自性と最後の無自性を意図し説かれたものである。これについて先ず第一のものは『解深密経』で次のように説かれる。

それらのなかで相無自性性を密意し、私は「一切法が不生であり、不滅であり、本来寂静であり、自性によって涅槃している」と示した。それは何故か、と言えば、パラマールタサムドガタよ。すなわち、自己の相によって存在していないものは、不生であり、不生であるものは不滅であり、不生不滅であるものは本来寂静であり、本来寂静であるものは本性涅槃し、本性涅槃しているものにおいては般涅槃されるべきものは微塵程も無いからである。

遍計所執における不生不滅の理由として、「自己の相によりは成立しているものではない」という〔証因が〕提示されているので、更に「生滅が有れば、自相によって成立している」ということと「依他起には、自己の相により成立している生滅が有る」と示されている。生滅を離れているものは、無為であるから、雑染法としては妥当しないので、「本来寂静」なのであり、「本性涅槃(苦悩から離脱)している」と示されているのである。何故ならば「苦悩」とはここでは雑染のことを指しているからである。

一方、第二のもの(勝義無自性)は『解深密経』で

また、法無我で規定される勝義無自性性を意図して、私は「一切法は不生不滅であり、本来寂静であり、自性般涅槃している」と示したのである。それは何故かと言えば、すなわち、法無我で規定される勝義無自性性とは、これまでもいつも、これからも永遠に、必ず住しているものだけであり、それは諸法の法性であり、無為なるものであり、一切の雑染を離れたものであるのであり、これまでも常々、今後も恒常的に、法性はその同じものである、住処であり、無為であり、これは無為であるから、生じたことがなく、滅することがなく、これは一切雑染を離れているので、本来寂静であり、本性によって般涅槃しているからなのである。(27b6-28a5)

と説かれている。「これまでも常々」というのは前々からということであり、「これからも永遠に」というのは後々にということであると、中国の大註釈で解説される。

[質問]ここ(『解深密経』)で〔中転法輪で〕無自性〔と説かれた密意の〕の基体は、三つともであるとされるにも関わらず、「不生」などの基体を第二無自性であるとはされていない。また『阿毘達磨集論』では、

〔般若経で一切法無自性と説かれているのは〕遍計所執自性においては相無自性であり、依他起においては生無自性であり、円成実においては勝義無自性であることによっている。「不生不滅、本来寂静、自性涅槃」とある密意は何か、と言えば、無自性であるその通りに不生なのである。不生であるその通りに不滅なのである。不生不滅であるその通り本来寂静である。その通りに本性によって般涅槃している、ということである。( ri 105a3-105a4)

と三性すべてを指し「不生」などと説かれるが、これらは何を意味するのだろうか。

[解答]このことについて中国の大註釈によれば、経典(『解深密経』)で依他起が「不生」などの密意基体であるとは説かれてないのは「縁起している対象は無ではない」と示すためなのであり、『阿毘達磨集論』で〔三性すべてが不生の密意基体と〕解説されているのは「同体のものによって生じるもの」とか「無因から生じるものは無いのである」ということについて解説している。

依他起には自己の特相による生滅は有るので、「不生不滅」と説かれたのは依他起のことが意味されているのではなく、また、ほとんどの依他起は雑染に帰属しているので、後半の二句の基体としないことがこの経典の意図なのである。三自性のそれぞれ該当するものが、それぞれの無に帰すべきを指して、それぞれの無自性のその通りに、不生であり、不滅であり、本来寂静であり、本性によって涅槃でもある、ということを意図し『阿毘達磨集論』ではそのように解説されているのである。

C3 三性とは一体何かの確認

遍計所執が相無自性であるならば、遍計所執そのものは一体何なのか。これは『解深密経』で次のように説かれる。

分別の活動客体であり、遍計所執相の所依である、行の兆候において、「色蘊」という自性相や差別相として、名称や記号で記述される「色蘊が生滅する」「色蘊を永断、遍知する」という自性相や差別相で、名称や記号で記述されたもの、これが遍計所執相である。(35a2-35a5)

ここで最初の三句(分別の……行の兆候において)で、遍計所執を仮設する基体が示されているのであり、それ以降で遍計執される形式が示されている。「これは色蘊である」という自性相、「色蘊が生じる」など表現される差別相、すなわち特殊項目として、どのように構成されるのかは、後で説明しよう。
依他起が生無自性であれば、依他起そのものは一体何なのか。これは『解深密経』で次のように説かれる。

分別の活動客体であり、遍計所執相の所依となっている行の兆候であるもの、これが依他起相である。(35a5-35a6)

最初の句で何の客体であるかが示され、第二句では遍計所執の仮設基体であることが示されており、第三句でそのものが何であるのかが示されている。
円成実が勝義無自性ならば、それは一体何なのであろか。これは『解深密経』で次のように説かれる。

分別の活動客体であり、遍計所執相の所依である、行の兆候であるもの、ほかならぬその同じものが、その遍計所執相としては円成実せず、その自性だけによって、無自性性であり・法無我・真如・清浄所縁であるもの、これが円成実相である。(36a5-7)

「法における」など〔という後半部分〕で、「法無我」とか「真如」と述べれられ、「それを所縁とし修習したことで障が清浄になるもの」であるほかならぬこれが「円成実」である、ということを確認している。「その〔ような〕法無我とは一体何か」と言えば、まさにこの「無自性性(自性が無いだけのもの)」(絶対否定)にほかならない、ということが「その…だけ」ということで意味されている。

「どの自性が無いのか」(どの無自性の否定対象が無いのか)という思うことに対して、「その自性だけからは」と先に述べた遍計所執自性(特質の自性という相無自性の否定対象)であることが説かれ、それに続けて「だけからは」といっていることによって、他のもの(生起無自性と勝義無自性における否定対象の自性)は排除されるので、他の二自性の無自性を指しているのではなく、遍計所執だけの無自性を指して「円成実」とすることが意味されている。その前に述べられる「ほかならぬその同じものが」とは「依他起」が空の基体であることを指し、それに続いて遍計所執の特相としては成立していない、ということで「ほかならぬその同じもの(依他起)が、遍計所執に関して空である」というこれを指して「円成実」としているのは極めて明白である。

空の内容も、「場所が壷によっては空である」というような「他の対象には有るもの」を否定排除したものではないのであって、「人は実体としては無い」という場合のように、依他起が遍計所執たるものとして成立することに関して空なのである。まさにこの理由で経典(前述の引用箇所)で「ほかならぬその同じものが、その遍計所執の相としては円成実しておらず」と説かれている。「それに関して空である」というこの遍計所執は、この経典において遍計所執を確認する〔この科文のなかで引用した〕両箇所で「個体や特殊体として記述されただけもの」とされる以外、他の遍計所執であるとは説かれない理由は後で説明しよう。

このように色蘊に適用されるのと同様に、残りの四蘊・十二処・十二支縁起・四食・六界・十八界それぞれにおいても相が三つずつ適用されると説かれている。苦諦における仮設基体は先程と同様だが、「苦諦である」という個体や「苦諦を遍知する」という特殊体とし、名称や記号で記述されるものは遍計所執であり、依他起は先程と同様であり、円成実も先程と同様であり、「その自性だけからは「無自性」であると説かれ、同様に〔四諦の〕他の真実についても適用される。三十七菩提道品にも適用され、仮設基体は先程と同様であり、「正定」という個体や、それの対治分と対治など先に解説したものについて「これ、これのものである」という限定体として仮設されている遍計所執とそれ以外の二自性も苦諦の場合と同じように説かている。これらの先に「C1 対立を排斥しようとする問い掛け」の箇所で説かれた「色蘊」から「菩提道品」までのそれぞれについて、三つずつの特質の設定の形式を述べて、それに引き続いて「そのことを意図して釈尊は三無自性であると解説されたのだということが私は分かりました」とパラマールタサムドガタは釈尊に申し上げたのである。

C4 それらによって成立している意味の解説

C4には二つ、D1経典の提示、D2その意味の若干の解説。

D1 経典の提示

こうして教説には「諸法は自己の相により有る」と示すもの、「(諸法は)自己の相によりは不成立である」と示すもの、「自己の相により成立しているものと成立していないものとが善く判別されたもの」という三つの経典があるが、それらは更に「自性の有無が善く判別されたもの」「自性の有無が善く判別されてないもの」の二つになる。「判別されたもの」は他の意味内容へ解釈されないので「了義」であり、「判別されてないもの」は他の意味へと解釈する必要性が有るので「未了義」であり、これにもさらに〔初転法輪と中転法輪との〕二つが有るので、〔初転法輪と中転法輪との〕二つの経典は未了義であり、〔後転法輪との〕一つが了義なのである。このことはいままで解説してきたことから間接的に理解されるだろう。

間接的にあるまさにこの意味が、時間的順序の観点での三転法輪に適用され、どのように了義・未了義となるのかは、パラマールタサムドガタは釈尊に上申する形で『解深密経』で次のように説かれている。

世尊は初めにベナレスの地において仙人の栖の鹿野苑で、声聞乗に正しく入っている人々に対し、四聖諦の行相を示され、希有なる素晴らしい、過去に神となった者や人間となった者の誰によっても世間で転じられたことのない、一つの法輪を転じられた。世尊によって完全に転じられたその転法輪にも、更に上があり、余地があり、未了義であり、論争の基盤となっております。
世尊は諸法の無自性をはじめとし、不生、不滅、本来寂静、本性により涅槃していることだけについて、大乗に正しく入っている人々に対して、空性を述べるという行相により、極めて稀有なる素晴らしい第二番目の法輪が転ぜられたのである。世尊によって転じられたその転法輪も、更に上があり、余地があり、未了義であり、論争の基盤となっています。
しかしながら世尊は諸法の無自性をはじめとし、不生、不滅、本来寂静、自性によって涅槃していることについて、すべての乗に正しく入っている人々に対して善く判別されたものを備えた、稀有なる素晴らしい第三番目の法輪が転ぜられたのです。世尊が転ぜられたこの転法輪は、無上であり、余地は無く、了義でありまして、論争の基盤となっておりません。(38a6-39a2)

D2 その意味の若干の解説

D2には二つ、すなわち、E1経典の文意を若干解説する。E2了義・未了義の次第を若干解説する。

E1 経典の文意を若干解説する

そのうち、初転法輪については、場所に関しては第一句で示され、所化は第二句で示され、「聖なる…転じられたのである」というところで転法輪が一体何であるのかを示しており、「四聖諦の行相を示され」というのは、言表対象がどこから着手されているのかを示している。「稀有なる」などは、それの称讃である。「その〔転法輪〕も」などは「了義ではない」ということを示している。

この箇所で「更に上がある」ということは、「この上により勝れた教えがある」ということである。「余地が有る」というのは、「これよりもより勝れた段階の教えがある」ということである。空性が示されておらず「有る」と示されているので「未了義」なのである。「論争を伴っている」とは、「他者により論難される」ということであり、声聞部たちが論難を述べる際の拠所となっていることである。以上が圓測によって解説される。

しかし、経典の内容としては以下の通りである。第一句は、「上」すなわち「これの上に了義という他のものが有る」ということである。第二句は、「この意味を示されている通りに承認している時に他の論難の過失の余地がある」ということである。この箇所について中国の註釈では「論争を伴っている」とも翻訳されているから、それが意味する通りである。第三句は、「この意味を他のものへと導かなければならない」ということである。第四句は、「意味はこの通りである、と釈尊が明確には判別なされなかったので、意味についての不一致を論争した」ということなのである。

第二転法輪の箇所で「諸法の〔無自性〕をはじめとし」といっているのは言表対象がどこから着手されているのかを示している。「大乗に」などは、教化対象とされた所化を示している。「空性を述べるという行相により」というところの意味を「法無我が示されている」とある注釈で解説しているが、中国の大註釈によると「明らかではない行相によって(以隠密相)」ともあり、その意味は有り「隠されているものである(秘密)」と解説している。翻訳としてはよりよい。

〔しかし経典の〕内容としては後二転法輪の両方で言表対象は無自性であると着手されている点では同じであり、それ(無自性)が示される形式の方に差異があるのである。中転法輪では無自性をいままで解説してきたのと同じようには判別されていないから、「明らかではない内容により」説かれ、後転法輪では「善く判別された」と説かれているのである。三蔵圓測は「第三のものと比較すれば上がある」などということ以外には解説せず、インド人学者、真諦の説明を提示しているが、善いものとは思われないので記さないが、自説としては以上の通りなのである。

後転法輪で言表対象がどこから着手されているのかは中転法輪と同じである。その所化は「すべての乗に正しく入っているもの」つまりそれ以前の二つの場合にはそれぞれ大乗・小乗であったが、こちらでは両者を教化対象としている。「善く判別された」とはこれまでに解説したきたように「色」などの法それぞれについて特質が三つずつあるという設定をして、そこにおいて三つずつの無自性の形式に判別されている、ということである。「転ぜられたこの法輪は」と〔「この」という〕近接代名詞は、直前に述べた「善く判別されている法輪」である『解深密経』と、それと同様に判別されているもののことを指しているのであって、時間的には最後に説かれたにも関わらず自性の有無の形式がこのように判別されない諸経典のことを言っているのではないのである。

その法輪が偉大であることは「無上であり」などで示され、これ(善く判別された法輪)は最高で、希有であり、それよりもより勝れた他のものなど無い、ということによって「無上」なのであり、それよりも後のものが最高となるような余地や咀嚼する余地が無い、ということにより「余地が無いもの」であり、「有るものなのか、無いものなのか」ということ完全に示したものであるから、「了義」であり、〔それに対する〕論難を述べる基盤となる拠所ではないということである。以上が圓測の説である。

〔しかし自説としてはこの圓測の解釈通りではなく〕「余地が無い」という箇所以外は先程私が解説した「上が有る」などの内容とは〔それぞれが〕逆の内容に対応しているのである。前二経典の言葉通りの意味には過失の余地が有るが、ここでは無い、ということは、言葉通りのその意味以外のものへと導いていく必要が有るか無いかということを根拠としているのである。また論争の有無ということも「経典の意味、つまり自性の有無を釈尊がそれと同じように決着されたのかどうか、ということを学者が考察した際に論争すべき基盤が無い」ということを指しているのであって、「他の論争が無い」ということを指しているのではないのである。

E2 了義・未了義の形式を若干解説する

このような初転法輪に対しては「四諦法輪」と、第二転法輪に対しては「無相法輪」、第三転法輪に対しては「勝義決定法輪」と中国の大註釈によると名付けられているが、『同経』の経文を参照する限り第三転法輪は「善く判別された法輪」と述べなければならない。

ここで『同経』による了義・未了義の設定形式は「善く判別されたもの・善く判別されていないもの」という二つなのであり、了義・未了義が設定される基体は「諸法に自身の特質によって成立している自性が有ると等しく説かれているもの」(初転法輪)、「(諸法に自身の特質によって成立している自性が)無いと等しく説かれているもの」(中転法輪)、「有るものと無いものとを善く判別しているもの」(後転法輪)の三つである。このことは経典における矛盾を回避する質問をする箇所(C1)・「それの回答が提示される箇所(C2)・法それぞれに特質が三つずつあるという設定が述べられ、それが意図されていること説明した無自性形式を〔確認して〕申上げる箇所(C3)・これら〔の内容〕に基づいたうえで時間的順序を追って説かれた三転法輪についての了義・未了義を申上げる箇所(C4D1)〔という四つの箇所〕から明らかである。

以上のことから初時に四諦をはじめそれ自身の相が有る等と説かれる初転法輪を未了義であると表しているのであって、初時に説かれた教説のすべてを表しているのではない。たとえば、初時に、ベナレスで五人の善従者に「僧裙は巻いて着なさい」と僧院の生活規則が説かれているが、それに対してはここで疑念を払拭しなくてもよい。また同様に第二転法輪も「無自性である」等と説かれるものを表しているのであって、第二時に説かているけれども無自性等とは無関係な経典に対しては、矛盾を回避しようとした質問をする疑念はないから、それもここで未了義であると説示する必要はないのである。後法輪を「了義である」と説明しているのものも、上述の「善く判別されたもの」を表しているのであって、〔第三時に説かれたもののその〕すべてではない。これは経典にも極めて明らかであり、たとえば〔釈尊は〕涅槃にお入りになられる直前に、律のまとめと呼ばれる有名な所作の相応を説かれているが、それをこの経典では了義であるとは説示しないのである。

では一体この経では何を成立させようとして法輪の了義・未了義を判別するのだろうか。諸法について不特定に「それは自己の相によって成立している」とか「〔自己の相によっては〕成立していない」と示されたものを言葉通り捉えることを止めさせて、「遍計所執は自己の相により成立していないが、他の二自性(依他起・円成実)は自己の相により成立している」ということ、「依他起における遍計所執に関する空という空性が、道の所縁にして、究極の勝義である」ということ、そしてこれをその〔経典の〕所化に教示しようと密意なされたことを根拠としているからである。それ故に「前の二転法輪は未了義であり、後転法輪は了義である」と説かれているのである。

たとえばある人は、この経典に基づいて第三時に説かれている経典すべてを了義であると論証し、他派の種姓をもち「我」といわれるものを思い込んでいる人々を教導するために説かれたある種のものを、言葉通りであると主張し、「法性以外の一切の有法は、意識によって誤解されているだけで、それ以外、それ自体で成立しているものは微塵程も無く、法性真実として成立している真実かそうではないのか、ということが判別されたことが、先程解説した『善く判別されたもの』の意味である」と主張している。また別の人々は、「この経典による了義・未了義の判別通りにするならば、前主張者の説と同じになってしまう」と考え「了義・未了義のこの形式は言葉通りのものではない」と否定してしまっている。

この二つの説はともに、これまで述べてきたことから見ると、この経典で、一体どのように「経典における矛盾を回避しようとする質問」が生じたのか、それに対し釈尊によって一体どのように応答されるのか、それに基づき一体どのように了義・未了義と設定されているか、という問題を詳しく考察していないのであり、単に了義・未了義の分類が述べられる個所についてのみ議論しているのではないかと思われる。