2018.11.30
དྲང་ངེས་ལེགས་བཤད་སྙིང་པོ་

帰敬文・序論

ジェ・ツォンカパ・ロサンタクパ著『了義未了義判別論・善説心髄』試訳(1)
訳注:野村正次郎

ナモー・グル・マンジュゴーシャーヤ

シャンブ メーガヴァーハナ ヒラニヤガルバ
アナガパティ ダーモーダラたちよ
おまえたちは世間で大手を振り声を高らかにする
その吼え声を轟かして思い上がっている

しかしその御方を目前にするのならば
瞬時に太陽によって蛍を隠されるようになる
かくも美しく輝ける宝冠を持す者たちさえも
その御方の蓮華座には謹んで帰依するだろう
彼の御方 天中天 牟尼自在 私は礼拝せん

智慧の深さと慈悲の広大さは量り難い
菩提行の大波は起伏し揺らぎ続ける
善説の宝蔵となられる方 聖文殊師利よ
大海原の摂政よ 合掌礼拝申上げます

善逝の教説の二つの道程の車轍を
善開されることを以て、勝者の最勝教説を
三界に於いて陽光の如く顕彰なされた方、
ナーガールジュナ アサンガの御足に頂礼せん

大馬車の轍を善く辿られた方々
百千閻浮の民の智眼を開眼なさられた方々
アールヤデーヴァ アシュバゴーシャ
ブッタパーリタ バーヴィヴェーカ チャンドラキールティ
ヴァスバンドゥ スティラマティ
ディグナーガ ダルマキールティ

これらの閻浮提の荘厳者たちとこの最勝者たち
彼らは牟尼の教説を不断にする勝幡の守護者であり
賢者智自在者でもある。謹んで礼拝せん

典籍の教説を多く聴聞された方々
正理の道に励まれ現証された方々
少なからぬ功徳の資糧のある多くの方々
彼らの努力でも理解されたことは無かった

そのような境地は尊師文殊師利の御陰で善く見えた
いまここにそれを至極の慈をもて解説したい
教示の実義を作証する考察をし比類のなき学説を欲する人々よ
どうか敬虔にお聴き下さいますように

『護国尊者所問経』ではこう説かれてる。

空 寂静 不生の次第
これを知らず衆生は彷徨っている
彼らを慈しむことで多くの方便の次第と
さまざまな正理によって導き給うのである

諸法の真如は極めて難解であり、それを解さねば輪廻から解脱できない、と御覧になり給う、慈悲深き釈尊は、数多くの方便の次第や正理の門を通して、それを理解させようとなされている、と説かれている。それ故に、思索をする人は、実義とは如何なるものなのか、ということを理解するための方便に励まなくてはならないのである。

しかも勝者の教説に関し、それが了義なのか、もしくは未了義なのか、が判別されたものに依拠しなくてはならない。その二つの判別もまた、これは未了義である、これは了義である、と説かれる聖言のみによっては不可能なことである。何故ならば、もしそうでないなら、大馬車たちが了義・未了義を判別する密意の註釈を著作なされたことは無意味なことであったことなるからである。あるひとつの教説についても、それが了義なのか、未了義なのか、ということに関して、一致しない多くの説が多く説かれるからである。これはこちらだと説かれた聖言だけで、その通りのものとするお不可能であり、もしすべての場合に適用できなければ、個々の了義・未了義について、これはこちらであると説かれているだけで、更なる証明をなすことなど不可能であるからである。

こうしたことから、教説の了義・未了義を判別するだろうと授記された大馬車たちによって、了義・未了義に関する密意が注釈されているもの、しかも了義の教説の示唆する内容が、それ以外の内容へ解釈することに対しは反証があり、別用な解釈が当てはまらず、その意味に確定している能証たる正理で決択されたものだけに従うことによって密意を探求する必要がある。

それ故、究極的には無垢なる正理だけによって判別しなくてはならない。何故ならば、もし正理に反した学説を承認すればそれを語っている者は量たる者としては不適当であるからなのであり、事物の実義は証成道理の能証を備えたものであるからなのである。こうしたことが意図され次のように説かれているのである。

比丘たちよ 賢者たちは焼いたり削ったり研磨し
はじめてそれが純金であることを知るのであろう
かくの如く我が言葉も正しく考察してはじめて
護られるのであって 単に敬うことからではないのである

以上のことから了義・未了義の判別には二つある。すなわち、A1『解深密経』に基づく立場・A2 『無尽慧経』に基づく立場。