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仏弟子としてスタイルを洗練させてゆく
仏教を学ぼうとする私たちが学ぶべきこととは何かといえば、それは釈尊によって戒・定・慧の三学処を学んでいきなさい、と説かれている。前偈ではこの戒律というものが土台となるということを説いていたが、戒律という三門の制限状態を一心不乱に継続すること、これが定学処と呼ばれるものであり、本偈ではこれについて述べている。
慈しみの灯明がある場所で再会するということ
私たちはどんな宝石よりも入手困難な高価で貴重な人身というかけがえのない宝物を授かって生まれてきた。この身体は脆く壊れやすいが、非常に便利なものであり、様々な使途に活用できる。自分の身体だけでできないことであっても、他人の身体の助けを借りてさらに活動範囲を広げることもできるし、実際に私たち人間の社会生活のほとんどの活動は、このような活動によって成り立っている。
煩悩を鎮め善を活性化する薫の君
戒律の香りは決して衆生を害することなく、香の成分は善なる営みを活性化し、常に慈悲心に満ちすべての煩悩を鎮める香りにほかならない。私たちはいつの日か佇んでいるだけで衆生を救済する如来の身体の香りを実現しなければならない。
虚栄心の炎でいま燃えているものとは
無限の遠い過去からいま私たちはここに至って生きている。いま私たちは仏教を学ぼうとしているが、この学問は今生で修了して終わるようなものではない。
人間の皮を着ただけの臆病な羊たち
地獄に生まれたこともあった。神々たちと一緒に享楽的に過ごした時もあった。何を食べても満足できず吐き出すこともあった。生まれた時から武器をとり殺戮しあう戦乱の時もあった。
震える他者の身体、記憶に残響する言葉
疲れて眠っている時以外、私たちは常に何か様々なものを見ているし、様々な音を聞いている。聞こえてくるすべての音は、何かの振動であり、物質が振動し、その振動が他のものを振動させ、その波紋が耳のなかの薄い膜へと伝わってきて聴取したものであり、これを音とか声といい、この聴取している現象を「声処」という。
静かにてくてくと遠くへ歩いていく
何かを学ぶという姿勢は、自分が知らないこと、そして自分には至らない点が具体的にあるということを確認することでもある。あたらしいことを学ぶ場合でも、また既に教えてもらったことを思い起こして復習する場合であっても、自分はそれについてよく知っている、そんな考えをもつようでは何も学んでいくことなどできないだろう。
寂静なる年末年始を過ごすために
弥勒仏が具足する如来の不共の功徳へと思いを寄せ、ここまでの詩偈で礼拝をしたが、本偈はそれを結び、次の偈から、自らの不徳を嘆き悲しみつつ告白するという形で弥勒仏に対する請願と礼讃とが続いていく。
如来の身体の色彩と輪郭を学ぶ
眼識が捉えるものが色処であり、これを分類すれば、色彩である顕色と形状である形色の二種がある。これを更に細分すれば、色調たる顕色には、青黄赤白の四根本顕色、すなわち四原色と、雲煙、塵霧・明暗・陰陽の八支分顕色、すなわち派生色/特色とで合計十二種があり、一方形色には、長短・方円・高低・正不正の八種があり、眼識が捉える色処は合計二十種に細分できる。
文明の進化のために洞窟に暮らす
今日私たちは文明社会に暮らし、未開文明の野生生活を営んでいない。それは一体何のためか、といえば、長期的な視点で俯瞰すれば、その生活形式の方がより幸福度が高いからである。