2010.06.22

すべての人は心をより善いものに変えていく可能性をもっています

2010年6月20日に長野県長野市で行われたダライ・ラマ法王の講演をレポートします。

  • ダライ・ラマ法王2010年来日特別記念講演
  • タイトル:『善き光に導かれて -今、伝えたい心-』
  • 場所:長野市 ビッグハット
  • 日時:2010年6月20日(日)14:00~16:00
  • レポート作成:小池美和
  • テキスト校正・編集:野村正次郎

6月20日に長野のビッグハットで開催されたダライ・ラマ法王の特別記念講演を拝聴した。

長野の町では、地元の高校生や若い女性が「ダライ・ラマが長野に来るなんてすごくない?」「ちょっとした騒ぎだよね、ダライ・ラマが来るなんて」とうれしそうに路上で会話しているすがたを目にした。

ダライ・ラマ法王は長野講演のパンフレットの中で「長野の町がお城よりも善光寺を中心としてその周辺に発展したという事実もまた、仏教の教えが地元の方々に大変良い影響をもたらしたことの証」と述べておられるが、まさにその通りだと思った。

『善き光に導かれて ~ 今、伝えたい心 』と題された講演会の参加者は7千人。参加者全員が日本のお坊さんの先導のもとで『般若心経』を唱えると、続いてダライ・ラマ法王がステージに上がられた。

ダライ・ラマ法王は『般若心経』が唱えられたことを喜ばれ、喜びのあまりなのだろうか、般若心経の解説をはじめられた。

『般若心経』をみなさんが唱えられたことをうれしく思います。般若心経を唱えるということは、私たちが仏教徒であるということであり、そしてチベットの仏教と同じ伝統に従っておられるということを示唆していることだからです。

『般若心経』に「無色声香味、無眼界乃至…」とありますが、ここで「無い」といわれているのは、一体どのようなことでしょうか。これらの色や匂いや香りや眼などが「単に存在しない」といって、全く存在していないことを意味しているのではありません。ここでは空性を観想している三昧の知には、色や匂いなどの対象の本質である空性だけを観想しているから、三昧知にとってはそれらが無いのです。そしてそのことを「無い」と言っているのです。

また、仏教では「無我」といいます。「私」「我」というものが無い、というのは、「私」とか「我」と名付けられているものが、その名付けられて我々が思い込んでいる通りには存在していないということです。つまり「私」とか「我」というものが、名称化や記号化とは無関係には存在していないということが、この「無我」の意味です。

通常私たちは、「私」とか「我」というものが、名称化や記号化とは無関係な実体として有ると思っています。これが「我執」とよばれているものです。それらの名称や記号化が行われる物質的な肉体や精神の集合体「五蘊」に過ぎないものに対して名称化や記号化とは無関係な実体たる「私」とか「我」というように思い込んでいるのです。これは事実を誤って理解しているものであり、それは「無明」であり、これが煩悩の根源にあるものです。

この「無明」が根本原因となってありとあらゆる煩悩が起こり、最終的には私たちが苦しみを感受することになるのです。「私」とか「我」というものに対する誤解があるからこそ、他者に対して嫌悪感を抱いたり、必要以上に執着したり、時には怒りの感情を抱いたり、他者よりも自分を過剰評価して慢心したり、他者のよい性質が自分にないことに対して嫉妬の感情を抱いたりするようになるのです。そしてそのような煩悩によって動機づけられて、誤った行動や言動をしてしまうのです。そして誤った行動や言動が原因となって、様々な苦しみを味わわなければならなくなるのです。

ですから、もしも怒りの感情が心に沸き起こってしまうのならば、その時にいま腹を立てている「自分」、「私」というものはそもそもどこにあるのだろうか、この怒りを抱いている「心」というものは何なのか、このように客観的に分析してみるといいでしょう。そうすれば、心というものは、単なる視覚・聴覚やといった五感のレベルのものではなく、それらから起こってくる感情やそれとは無関係に我々が考えている通りの実体的な「私」といったものが「心」ではないということがわかるのでしょう。そしてそのような分析の結果、結局は、それらの怒りの感情を抱いている自分というものが別個にあるのではなく、結局は「意識」「心」がそのような感情を抱いているだけの状態を指して私たちは「私は腹が立っている」と思っているに過ぎないことがわかるのです。

煩悩とは破壊的な感情であり、それは私たちにとっては強い感覚となっていますが、このように幻を本物と見誤っているものに過ぎません。幻を本物と見誤っていることによって、さまざまな執らわれの心が起こってきているのです。そしてその根源には、「私」というものが、名称化や記号化とは無関係に、それ自身の側から存在しているようなものであると、考えている無明があるのです。そしてそれが苦しみの根本原因なのです。

私たちが究極的な幸せを確保するためには、この我々の煩悩に根源にある誤解を正していかないといけません。それを正すためには、そのような誤解ではなく、「名称や記号化とは無関係には私は存在していない」という「無我」への理解を繰り返し心に思い浮かべ、「無我」という事実に対するの理解を深めていくことしかありません。そしてそのことを通じて「我執」と呼ばれる私たちの煩悩の根源にあるものを弱体化させ、最終的にはそれを取り除くことができるようになるのです。そしてこれが「智慧によって無明の闇を払らす」ということであり、無我を覚る智慧を育むということです。

釈尊は私たちの心の本質は光輝く美しいものであるとおっしゃっています。誤った認識である無明の闇を晴らすことで、この本来清浄であり、すべての対象物を照らし出す心の本質を表面化させることができます。そしてこのことを通じて、本来はすべての生きとし生けるものが望んでいない苦しみというものを滅することができるようになるのです。私たち自分自身がこのような状況にあるのと同じように、私たち以外のすべての生きとし生けるものがこのような無明によって苦しんでいることがわかるのであれば、本当の慈悲の心が自然と芽生えてきます。本当の慈悲の心というものは、このように空に対する理解に裏付けられているものです。

『般若心経』は以上のことを簡潔に説いています。そしてこれは仏教の教えの核心なのです。ですから私たちチベット人も含めて、これを日常的に唱えてその内容へと思いを寄せることのできる日本のみなさんは大変恵まれていると思います。

と語られた。

ずっと以前に日本を訪問された際には、ダライ・ラマ法王がおひとりで『般若心経』を唱えられたこともあったそうである。それが今では日本のお坊さんと会場のみなさんが唱えてくださるのでとてもうれしい、とも述べられた。

そして本題に入ると、次のように語られた。

この講演会のタイトルにある「善き光」(クリアーライト)とは「光明」ともいいます。私たちすべての人は、心をより善いものに変えていく可能性をもっています。私たちの心にはより善き変容をもたらすことのできる可能性があるの同時に、「光明」と呼ばれるようなブッダの智慧と同じ性質が私たちの心の本性に備わっているということを意味しています。

人間である限りは、倫理に基づいた正しい生き方をしなければなりません。社会生活を営むことは、友情、友人関係を育むことですが、信頼関係に基づいた正直で真摯な関係でなければ本物の友情は生まれません。慈悲深い心、愛情深い心を持つとき、私たちは自分に自信を持った人間になることができます。他者を敬い、他者の幸福を願うことができるようになるのです。そうなったとき、愛情や慈悲が純粋な透明感に溢れた真実のものとして現れるのです。

人間の心には動物にはない、言語を使ってものを考えることができる知性があります。このすぐれた知性を正常に機能させるためには、イライラしていない必要があります。というのもの心がかき乱された状態では、自分は何者かという現実を正しく見極めることができないからです。心が穏やかで、平和な心を持っていれば、眼の前に起こっている現象や事実をあるがままに正しく理解し、事実に即したアプローチをすることができます。特定の事実や現象を一側面からだけ眺めたり、過剰評価してしまうのではなく、多角的な広い視点、つまりホリスティックな視点をもって、客観的かつ全体的にものを見ることを心がけてほしいと思います。小さなできごとに右往左往するのではなく、穏やかな心で心の平穏を維持するなら、みなさんもそういう視点でものごとを見つめることができるはずです。

以前、84歳の米国人の科学者と話をしたことがあります。その人は、『怒りが生じているときには対象物がネガティブに見えるが、その90パーセントは心の中でつくり出されたものの反映だ』と言っていました。このことは仏教のテキストに書かれているものと同じことを述べていてます。欲望、執着、恐れがあるときには物事を正しく見ることができません。何故ならば私たちが本来もっている心の機能を正しく使えていないからなのです。

日本は物質的にも恵まれた国でありながら自殺者が多いという問題がありますが、それは人々の心に平安が足りないからだと思います。心の平安であるということは精神的なものであり、それは宗教に説かれる以前にすべての人にとって大切なことです。私は、天国や創造主や来世の話をしているのではありません。仏教における事実を分析する科学的ものの見方から、心を安らかに保つことがいかに大切かをお話しているのです。感情の動きを知ることで心の平安を得ることができる――これは普遍的な知識です。より穏やかで、より幸せな心をいかによく保つかを科学的に説くのが仏教の教えなのです。

講演のタイトルにある「善き光」とは「光明の心ですが、その土台として、心それ自体は特定の感情に加担しているものではなく、ニュートラルなものであるということを知る必要があります。

心の中の破壊的なものを捨て、善いものを高めていけるように感情をコントロールするのです。どの感情を持ったときにどのような結果が起こるのか、ということをよくよく検証し分析することが大事なのです。

また、質疑応答のなかでも、

人の役に立つことは、自分に自信をつけることにつながり、さらにはそれが心の平和につながる

と繰り返された。

以上、法王のお話をご報告させていただいた。

私たちの人生には息をするのもやっとのような、ほんとうに辛いときがある。けれども、その一呼吸を全身全霊で続けたその先にはやはり光明があり、それが善き光の導きなのだと実感した一日だった。


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