2023.08.12

ガンデン座主猊下による講伝会レポート・ご談話和訳

2023年8月3 日より9日までの一週間、デプン・ゴマン学堂の発願により、ガンデン座主第104世ジェツン・ロサン・テンジン・ペルサンポ猊下によるギャルツァプジェ・ダルマリンチェンの『究竟一乗宝性論』の註釈書ならびにジェ・ツォンカパの『菩薩戒釈・菩提正道』の講伝会が行われました。今回は『宝性論註』の全編、ジェ・ツォンカパの『菩提正道』は冒頭部分が講伝されました。

「講伝」とは当該のテキストを朗読する形で、弟子たちに授けていくものであり、分量も多いことから、字義の説明は特になさらず、まずは両書で発せられることばの法脈を次世代の人たちに繋いでいく、という形で行われるものです。ジェ・ツォンカパはガンデン大僧院の創立者であり、初代ガンデン座主であり、ギャルツプジェはジェ・ツォンカパの後継者として、ガンデン座主第二世となった人物で、宗祖ジェ・ツォンカパおよびその後継者の著された聖典を、第104代目の後継者が伝授する、という意味で特別な意味をもった講伝会となり、ガンデン・チャンツェ学堂、ガンデン・シャルツェ学堂の管長猊下、ロセルリン学堂の管長猊下をはじめ、多くの善知識たちが参集したなか、毎日二時間強の講伝がなされていきました。

ギャルツァプジェの『宝性論註』は、ジェ・ツォンカパの侍僧の一人であったグンル・ゲルツェン・サポのために講義されたものであり、弥勒菩薩の説かれた『宝性論』と無着菩薩の説かれたその『釈』との両者に対する註釈書であり、ギャルツァプジェの中観に関する著作のなかでも最も重要なもののひとつであり、ジェ・ツォンカパの『菩提正道』は同じく無着菩薩が兜率天へと赴いて、弥勒菩薩の説かれた法の内容をまとめられた『瑜伽師事論』本地分菩薩地に所収されているもので、所謂「弥勒関連二十法類」のなかでも、般若経の註釈書である『現観荘厳論』に次いで重要な法類となります。ギャルツァプジェは、この『宝性論』の法脈をジェ・ツォンカパの師でもあるレンダーワ・ションヌロトゥから授かり、さらにジェ・ツォンカパからも更に講伝を受けたものに基づいて、同注釈書を著しています。

弥勒の『宝性論』やギャルツァプジェの『宝性論註』については日本でも近年中村瑞隆氏、高崎直道氏、小川一乗氏、加納和雄氏などの研究もありますが、残念ながら、その研究に従事している人たちは数十名にも満たない一部の研究者に過ぎません。

これに対して、現在ゲルク派で行われているゲシェー・ラランパの最終試験の最後の二年間の波羅蜜学の科目の問答試験の課題テキストとして課せられることもあり、『宝性論』ならびにギャルツァプジェの『宝性論註』は現在でもゲルク派の学僧たちに詳しく研究されており、たとえば昨年度2022年度のゲルク派共通試験ではラランパ初年次211名、ラランパ二年次96名の合計300名以上ものセラ、デプン、ガンデンの三代学問僧院の学僧たちがこの真摯にこのテキストと向かっていることからも、ゲルク派の教学修行のなかでも極めて重要な位置付けがなされていると言えます。

ゲルク派では特に同じく『量評釈』に基づいた論理に裏付けされている心性本浄論を学んでおり、『宝性論』で説かれる如来蔵思想を中観帰謬派の見解を下にして、修道論を再構築して理解することは、ジェ・ツォンカパ父子の不共の伝統である、と伝統的に述べられるばかりか、無上瑜伽怛特羅の二次第の実践に際しても、極めて重要な教学的な意味を持っています。

このたび伝授を行なってくださったジェツン・ロサン・テンジン・ペルサンポ猊は、チベットのセラジェ学堂で学び、1959年にダライ・ラマ法王のインド亡命とともに難民となり、その後もバクサドールで顕教の学級を完成され、ゲシェー・ラランパとなられ、その後も研鑽をつまれ、ガンデン座主へと選出された、名実ともに、過去・現在・未来のチベット仏教ゲルク派の代表者でおられます。講伝会は来年も継続的に行なって頂けることとなりましたがインドに行ってまで参加されることが困難な事情のある方もおられるので、このたび授かりました『宝性論』の法脈は、今後デプン・ゴマン学堂の善知識たちとともに皆様としっかり学んでいける機会を日本でも設けさせて頂きたく思います。

このたびの講伝会の最後に、次のようなお言葉を賜りました。特にデプン・ゴマン学堂の戒体護持の出家の学僧たちに向けてのお言葉ではありますが、日本のみなさまのなかにもダライ・ラマ法王猊下をはじめ様々な方から在家の戒律やゲルク派の法脈の伝授を授かっている方もおられることから、ここに全文を和訳してご紹介いたします。みなさまの今後の日常の仏道参学への一助となれば幸いです。

ガンデン座主猊下による結語

最後にご挨拶申し上げます。これらの聖典にある通り、私たち戒律を授かっている者は、まずは自分たちが護ると決めた戒律を清浄に護るように努めることが大切です。そのために戒律への関心を持つことが大切です。

先ずは戒律をよく守り、その上で仏典をきちんと学ばなくてはいけません。まずは仏典を暗唱できるようにし、問答で身につけていく必要があります。暗唱していなければ、実践の根本が出来ていない、ということになるので、学問を極めるのも難しくなるでしょう。暗記をしていなければ教義を学び理解はできてもすぐに忘れてしまうでしょう。『現観荘厳論』と『入中論』の二つの偈頌を暗唱するのは当然ですが、その上で『入菩薩行論』や『善説心髄』や『現観荘厳論小註・明義』をしっかり学び暗唱し、自分が暗唱できたところは何度も復習して忘れないようにすることが大切なのです。こうした仏典で説かれた学習法をその通りに実践していくことで、次第に自分たちの心を浄化させ、最終的には自分がしたいと思うことをすべて実現できるようになるのです。

「聴聞せずに修行することは、どんなに努めようとも畜生道の修習法である。」「聴聞せずに修行することは、腕がないのに崖を登ろうとすることである」と説かれるように、仏典を学んでいないのに、その内容を実践することなど出来ません。だからこそ仏典を学習することは非常に大切なことで、みなさんはこのことに確信を持っている必要があります。

ですので、みなさんのなかで若い弟子たちを育てている方々であれば、弟子たちが小さな時から偉大なる聖典を師匠から聴聞したいという気持ちを育てていかなければなりません。彼らが聴聞した後にも自坊で暗唱していくことを決して怠らないようにしなくてはなりません。彼らの将来は小さな時からの習慣にかかっています。将来的に彼らが教法を護持している偉大な善き人物になれるよう、私たちは彼らを育てなければなりませんし、そのためには周囲の人々も含め、みなさん全員が一丸となって責任感を取り組んでいただけるようお願い申し上げます。

同時に、現在進行形で仏典を学んでいる方々は、聴聞をして暗記して、その内容を問答していても、次の課題へと進んでいく過程で前の箇所はすぐに忘れてしまっている、といった状況に陥らないように気をつけていく必要があります。以前は内容が分かっていて、うまく問答ができたとしても、その場凌ぎだけの学習では決して充分であるとは言えないのです。まずはしっかりと偈文を暗唱し、それに対する注釈も暗唱していなくてはいけませんし、たとえ暗唱できない箇所があったとしても、何度も同じテキストを開いて繰り返し熟読し、自分が分かったような気にはならず、何度も繰り返し考えて、常に机の上の目の前にテキストを置き、学んでいくことが大切なのです。

ダライ・ラマ法王猊下もいつもおっしゃっていますよね。「机の上に仏典を置いていない状態でそのままにしたことはありません」とです。どんな時でも常日頃から『入菩薩行論』や『善説心髄』を机の上に置いたままにして繰り返し学ばれていると法王もおっしゃっていますよね。そのように時間のある限り、仏典をいつでもすぐに学べる状態にあるということは大事なことなのです。

私たちは教理を探求している学僧ですよね。だからこそ私たちはそれらを深く信仰し、繰り返し読む必要があるのです。そうやって一つ一つの教えを暗唱できるようにしなくてはなりませんし、みなさんも暗記の大切さをしっかり心に留めて頂きたいと思います。

もちろんこうした学習環境の大切さは私が申し上げるまでもありませんし、各学堂の学堂長をはじめとする方々が作ってくださってはいます。しかしまずは仏典を学んでいる皆さんがそのような気持ちをもち、全員が一丸となり、なすべき課題だと思い取り組むことが大切でしょう。

そして学習をきちんと出来るのならば、その上で、しっかりとそれを実践することに心がけなければなりません。ただなんとなく怠けていて実践できる訳ででもありませんし、実践は別の人がやればいいという話ではありません。みなさん全員が一丸となって聞法の上にそれを実践することを自分たちの共通の課題であると思い、努力を惜しまないで取り組んでいかなくてはならないのです。

これらのことは私たちの未来がよき未来になるために、みんなでしっかりと心がけているべきことです。今回の講伝はこれで終わりですが、来年また皆様にお会いできるでしょう。その間も、皆様がしっかりと取り組んで頂けるように、最後にお願い申し上げます。有難うございました。


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