2020.10.08
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

水滴への眼差し、静寂のなかの残響

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第137回
訳・文:野村正次郎

ひとつひとつの草葉の露へ

ひとつひとつ月影は現れる

ひとつひとつ喩えてゆくことで

輪廻と涅槃のすべては表現できる

137

私たちは住んでいるこの地球の七割は水で覆われており、人体の六割は水分でできていると言われている。この体は脆く壊れやすく、私たちの心は風に流され、常に右へ左へと彷徨っているが、この私たちの体はそんな弱い表面張力でできた生命体であるからこそ、傷つきやすく、壊れやすく、一瞬にして禍いが起こり、悲劇が起こるのであろう。私たちのこの心から漏れ出してしまったその結果は、すべて苦しみであり、この脆い生命体それ自体が苦しみであり、悲劇にほかならない。「すべての有漏は苦である」と釈尊は説かれたのであり、「苦を知りなさい」こう釈尊は私たちに最初に教えてくれた。

そしてこの悲劇の現実は煩悩と業によって支配されていることによって起こっている。その原因の根本原因は、どこか別の場所の何かにあるのではなく、私たちが「私」という意識を過剰に意識するという自己愛によって起こっている、と説かれたのである。誰しもが私たちと同じように大分が水でできた脆い身体と翻弄されやすい心をもって生きていることへ想像力を巡らすこともなく、自分のために何か都合のよいことを、声高々に口から吐き出し、時にはこの脆い身体で、ほかの脆い身体へ体当たりして、両方が張力を失い、壊れてしまうようなことすらしてしまう。そのような悲劇の原因を集めることをやめなければならない。これが「集をやめなさい」と釈尊が教えていることである。

ひとつひとつの雨粒は、それが集まり流れ出し、河となり海へと流れ込み、ふたたび空の青さになり、雨となり地上に再びもたさられたものであり、ひとつひとつの草葉の先端の露もまた、空の青さが冷やされて、小さな小さな水滴をつくっているものである。風が吹けば飛んでいくのであり、草を揺らせば、落ちてしまう。

そんな脆い水滴でも、明け方の空にまだある月影やこの地上のすべての景色を映す無限の力をもっている。私たちの心は本来は透明であり、遠い星や月をもそこに移すこともできるものであり、この小さな水滴のような脆い体を無理に自己愛で守ろうとすることをやめた時、「すべてのものは無我である」ということを知るのである。自己愛によって過剰に自己防衛をすることをやめた時、「涅槃は寂静である」と説かれた悲劇の終幕を迎えて、ふたたび静寂を取り戻すことができるのである。

雨が降るのを厭い発狂しても、雨を降らすのをやめることはできることはない。雨が降ることをたとえ止めることができたとしても、再び耳障りな騒音に苦しむだけであろう。雨は静寂を与えてくれ、この地球とそこに住む私たちに恵みを与えてくれている。草葉の露は月影を映しながら、静けさと共に私たちに大切なことを教えてくれている。風にまかせて水蒸気となってどこかに飛んでいっても、ふたたび水滴となって、それを教えに戻ってくるように、風でできた幻のような体を実現した瑜伽行者たちも、水のように私たちの側にいつもあり、時には仏となって水滴の脆さを見つめる私たちに大切なことを教えに戻ってきてくれている。この地上の水が巡り巡っているように、輪廻は巡り巡っているのと同時に、涅槃寂静の教えも廻りめぐっている。私たちは何かどこかの遠い国に行かなくてもよい。草葉の先端の水滴へと眼差を向け、静寂のなかの残響音に耳を傾けること、そんな身近なすぐそこにあることから、私たちがこれから先どうあるべきか、というその答えのすべてが表現されて在る、ということを感じることができるだろう。その時この地上は必ず明るく優しい光に包まれている。


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