2020.10.07
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

澄明な水に泡がたつように

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第136回
訳・文:野村正次郎

微細な原初の風と心から

幻の如き身体で起き上がる

澄明な水に泡がたつように

天空から河が流れるように

136

私たちは今日の自然科学や工業技術の発展のおかげで、これまで実際に眼にすることができなかった様々な現実の現象が可能なことを知れるようになった。私たちの脳神経は電気信号を本質とする脳波が飛んでおり、それを帯電して記録する媒体である脳があり、記録されるデジタル信号の配列を自然言語に変換することもできるし、さらには大量のデータを圧縮し光ケーブルや電波を通じて転送することも可能であり、これらを私たちは現在毎日日常的に体験している。

二十世期のはじめ頃存在した箱のなかに人がいると思って恐ろしくなって、ラジオを叩き壊したような石頭のご老人もいまは存在しない。小さなガラスと半導体でできている小さなデバイスで、これまで岩のように重たかった百科事典を引くこともできるし、世界中の聖典や古典を読むこともできるし、偉大なる詩人の詩や偉大なる画家の作品の画像を鑑賞したり、偉大なる作曲家のつくった交響曲をひとりで楽しんだりすることができる。いま私たちが体験しているこの体験は、かつては超常現象としか思えないものであったことは誰しもが実感できるであろう。かつてチーターのように速く走れることができなかった人類は、いまは「心の自転車」と呼ばれるコンピュータに乗ってあちこち行けるようになったのであり、それによってこれまで謎や神話であったことも大分現実として理解できるようになったのである。無上瑜伽怛特羅における生起次第・究竟次第もこのひとつである。

私たちは通常死ぬ時に、肉体に対する強い我執が発動して、それが直接の原因となって次の肉体の基盤となる受精卵へと結生相続するために、中有の身体というものを作り出す。この中有の身体というのは、次の身体を享受するまでの仮設住宅のようなものであり、受精卵へと移転する必要のない化生の衆生の場合には、この仮設状態の身体を成就することを省略することができる。仮設状態である中有の身体は、瞬時に移動できるために、もっとも軽量な物質である、風元素、つまり気体やガス状態の粒子でできており、血や肉などはなく、粒子によって構成されており、すべての過去の精神をデータを圧縮した状態で帯電し記録をバックアップして保持している。

この中有の生命体は、あくまでも移動・転送するための状態であるので、死ぬ前の本有(死がはじまる前の状態)の状態での活動が不可能であるので、それを可能とすることができる、別の記録媒体を捜索し、肉体をその起源とする自己愛から発生した快楽と欲望によって生成された物質である、受精卵へと流入し、定着し、データの解凍と再現をはじめるのである。これが生有のプロセスであり、このような現象を私たちは、いまもネットで映像を見たり、本を読んだりしているときに、全く意識しないような高速度の処理によって、デジタルデバイスで行っている現象と全く変わらない。

転送するべきデジタルデータが自己同一性を保つために、データの起点と終点に関して情報の個体情報を保全しているのと同様に、私たちの生命体も自己同一性を保つために、我執によって個体情報を意識的にパッケージング化して保全している。これが倶生起の我執という無明が輪廻転生すべての原因であり、それを断てば生や老死といった純然たる苦蘊を断じることができる、という原理であるのであり、通常の我々の輪廻転生は、このような倶生起の我執によるパッケージングの力が支えていることによって可能になる。

これに対して究竟次第の第三次第である自加持次第において、通常我々が輪廻転生する時に我執によってパッケージ化した中有の生命体を実現するのに対して、我執を断じる能力をもつ強力な空を現観する智慧は、同時に利他を行わんとする菩提心の力によって身体をパッケージ化し、中有の身体ではなく、「幻身」と呼ばれるものを実現する。これは通常我々には意識化されないで看過している死の光明を空性の現観と合体させて直感することによって実現できるものである。

幻身は中有の身体と同じように最も軽量なる物質である風元素によって生成されており、精神の移動手段としてはたらき、空性を現観する智慧は、風元素を身体とその智慧そのものが合体したものをこれが私であると認識している。この状態は、空性を観想する知の所取相を本尊として生起させることを繰り返し修習した結果として実現されるものであり、第三次第はこのことから自加持次第と呼ばれる。

幻身は幻のような身体であると言われるのは、それは具体的に仏の受用身と同じように三十二相八十種好を備えた手足などがある状態の姿をしているが、実際には、風元素だけで出来ているからである。そしてこの身体は、空観から忽然として物質化された完全に透明な状態の身体であるから、水にできる泡のような状態であると例えられている。本偈で述べられる澄みきって晴れた空から河が流れ出すという喩えは、通常幻身の喩えとしては使われないものであるが、何もない空に水蒸気の粒子が集積して雲ができて雨が降り、それが河となって流れていく情景をここでは追加して表現している。

通常幻身のたとえとして最も適切なものとしては、夢があげられる。何故ならば、夢のたとえば、睡眠に入る時、睡眠中、睡眠から起床するこのプロセスが、三空・幻身・幻身を再び粗大な身体へと戻すというプロセスに対応していると言われているからである。

幻身を実現するということは、煩悩障を断じることを開始したばかりであり、煩悩障を断じ終えるまでの期間は、不浄幻身に過ぎない有漏の身体である。この状態を一定期間継続することによって煩悩障を断じ終えた後、無漏の身体である清浄幻身と勝義光明を実現し、第四次第光明へと移行し、更に第五次第双入へと進んでいかなければならないが、こうした修行のそのすべては、死有・中有・生有のプロセスを、法身・報身・応身を実現するプロセスへと転換するための修行である。この過程において、粗大な意識を圧縮し、微細な意識へと集約し、方便と智慧とが無区別なる智慧によってパッケージ化された精神を風元素を記録媒体かつ移動手段として利用し、完全な形で報身を実現すると同時に、自己複製化し解凍展開して無限の応身を実現するというミクロコスモスを説いたものである。

現代の自然科学においても光の粒子や波などの量子と呼ばれる極小物質についての研究が行われている。もはや物質は決して固定的な外在物ではなく、空間・時間・物質などの統一されたものであると考えられるのが、一般相対性理論の登場以来、自明となっているが、ニュートリノに振動があり、それを測定することによって質量が証明できたのは私たちにとっても記憶に新しいついこの間のことなのである。

そしてダライ・ラマ法王が常日頃大切にされているように、自然科学と仏教とはまったく異なる別のものであはない。宇宙には所謂、無色界の生命体のようなガスと電子のみで出来た生命体が存在するという科学者もいたり、これからこの分野の対話と交流は、人類の進歩に必ずや貢献できることが期待できると思われる。そしてそのためには、常日頃私たちが他者を利するために真実を探究するという姿勢をどこまでも貫き通し、心を煩悩や偏見で重たくしてしまうではなく、風に乗ってどこまでも進んで行けるように、光のように軽やかですべてのものを照らし出すような客観的な心をもち持ち続けることが、重要であろう。

小さな水玉でも世界のすべてを映し出せる

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