2020.10.06
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

歓喜の光がもつ質を感じられる時

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第135回
訳・文:野村正次郎

四歓喜の倶生の大楽で

四空の智慧は増大する

四つの大河が流れ込み

馬面山の火は燃え盛る

135

歓喜・最勝歓喜・殊勝歓喜・倶生歓喜という四種の歓喜よりなる大楽によって、対象が無自性である空・甚空・大空・一切空光明という四空よりなる智慧を発展させていくことを説いている。それは源流より分岐していた流れている大河が海にいたって、海の果てにある馬面山という火山に水滴が接触して火の勢いが増大し、一層燃え盛るようなものである、ということを本偈では説いている。

これらの大楽や歓喜、そして主体の光明と呼ばれるものがどのようなものであるのか、ということは、下位の怛特羅でも説かれない、無上瑜伽怛特羅のみで説かれる機密事項であるので、ここで開示することは無意味であると思われるので、言及は控えておこう。ここで本偈をきっかけとして考えておきたいことは、そもそも大楽・歓喜・光明と呼ばれるものがどのようなものなのか、ということである。

そもそもすべての衆生は幸福や快楽を求め、この幸福や快楽を実現するための手段として、すべての宗教が説かれている。すべての宗教は他者に対する愛や慈悲を説いており、同時に研ぎ澄まされた知性という真実を照らし出す光明の輝度を高めて、真理を直観することの大切さを説いている。これと同様にすべての宗教がこの逆の命題として、悲劇や苦痛を説いており、偽善や憎悪、執着、そして知性を欠いた無知や心の闇、そして真実に対する無理解というものが引き起こす様々な問題についても言及している。そしてすべての宗教に共通しているのは、本偈でも「倶生」と呼ばれるような、人類が共通に先天的に生まれながらもっている精神的資質と関わることを議論する。同時に凡俗なる顕現、すなわち私たちの日常において体験することができる自然現象と、超越的・絶対的な知性によって経験されるものとの絶対的な差異を説いている。

たとえば菩薩の初地において布施を究竟して得られる歓喜は、自らの肉体を切り刻まれている苦痛が歓喜へと変容したものである。この歓喜は、我々が通常感じる感情や快楽と似てはいるけれどもまったく質を異にしている。その歓喜や布施によって発生する快楽とは、通常の我々が経験する快楽との質の違いにこそ、その歓喜が真の歓喜たる所以があるのではないだろうか。その歓喜は私たちのような自己中心的な価値観から生まれたものではなく、一切衆生利益という普遍的な価値観から生まれたものであり、真実を現観する初地の菩薩行の第一歩にほかならない。

大楽や極楽という表現にしてもその楽とは、これと同じことがいえる。これらで楽とされるものは有漏の楽、すなわち通常私たちが感じるような幸福感、すなわち煩悩の発生源となるような有漏の楽は全く質の異にするものであり、それは決して煩悩を増大させるようなものではないので無漏であり、普遍的で絶対的であり、超越的な楽にほかならない。

空・甚空・大空・一切空光明という四空よりなる主体の光明にしても、その光度や輝度は、我々のもっているぼんやりとした精神では想像だにできない、絶対的な光度をもつ、別次元の光明であると考えなくてはならない。

そもそも大乗の教えそれ自体が、浄業の所化にのみ説かれたものであるとされてきたのであり、決して実在論的なものごとの見方では理解に苦しむ概念ばかりなのであり、それは同時に、物質的、実在的な自己中心的な価値観では不十分であり、これらのそのすべては、そもそも我々の凡俗なる顕現、すなわち私たちの日常において体験することができるような現象では決してない。たとえば、『入中論』の第一章でチャンドラキールティは、

このように勝子たちの心に永住する
勝れた所依は美しき輝きを得ている
この歓喜は水晶の宝石のようであり
深い一切の闇を払拭し勝利している

と歓喜地に関する記述を結んでいるが、顕教における主体の光明よりも遥かに微細であり、強力であると呼ばれる密教における楽空無別の大楽智とは、このような初地歓喜地よりもはるかに進化したものであると考えるべきなのである。

私たちの日常をふと振り返って考えてみても、この地上が歓喜に満ちた状態というのは、未だ誰も目撃したことはない。しかしながら同時にこの現象を心を落ち着かせ、深く考えていくに従い、そもそも歓喜や快楽や愛というものは、個人的な利己的な思いによって物質のように我々の外側に求めて得ようとするものなのか、それとも自ら感じて見出していくものなのか、ということに疑問を抱くことであろう。私たちの日常は苦であり、悲劇であると言われるが、時折絶対者たちは鳥の姿をとって我々に美しい歌をきかせてくれたり、春のあたたかいやさしい陽光をあたえてくれることがあったり、地上に美しい虹の橋がかかったりするという現象が存在することを私たちは知っている。個人的な利己的な思いによって、外側に幸せや真実や美を感じることをやめ、自ら心を見つめなおした者たちだけが、それらの超越的な存在というものを感じ取ることができるようになる。このことは密教というものは、最低でも唯識派の空性理解や中観派の離辺中観の見解を確定できなければ、何も実践できない、ということとこのことは決して無関係ではない。またすべての宗教が憎悪や悲劇や苦しみを説いているのと同時に、愛と歓喜、そして真善美を説いていることとも無関係ではない。そしてそれらの存在は、心を白紙にし、何かを観察し、感じることによって意識することができるようになるものである。

神は自分の姿に似せて人間をつくったのではなく、人間が自分の姿から神を作ったのだということは一体何か意味があるのだろうか。その発想の行き着く先は悲劇でしかないような気がする。そうではなく、神が自分の姿に似せて人間をつくったのは何故か、あるいはまた釈尊は何故、浄業の所化に対して極楽浄土への往生や密教による即身成仏をこの地上で説いた、と私たちは考えてきたのか。このことを問いかけ、そのリアリティを問うことの方が重要であると思われてならない。そしてそのような問いを真摯に抱けることができる者たちだけが、幻身や虹身というものの存在をリアルに感じることができるのであり、諸仏や諸菩薩たちの歓喜というもののその質を感じて、それを興じることができるのではないか、そのように思われてならない。

中観帰謬派の巨匠であり、秘密集会の大成就者であるチャンドラキールテイは虹の身体を実現し、いまでも時々あちこちで説法をし続けておられる、とかつてケンスル・リンポチェは教えてくれた。虹を見るといつもその清浄なる姿が教えてくれる諸仏の歓喜や快楽そして光というものの質というものをどのように受け取ればいいのか、ということを教えてくれるような気がしてならない。


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