2020.10.05
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

いまのままの私をはじめからやり直してみる

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第134回
訳・文:野村正次郎

微粗の生起次第の瑜伽により

生死と中有の三つを浄化する

バギーラタの捧げた供物が

サガラの王子たちを浄化する

134

夜が明ける時、東の天空は曙色に染まりながら、再び巨大な太陽が昇ってくる。地球上のすべての出来事は、またはじまり、太陽氏の物語ではなく、私たちの物語が今日もまた紡がれてゆく。今日の物語に様々な登場人物が現れ、私たちも様々な営みをしているが、時は過ぎ、再び太陽氏は存在を西の空へと示しながら、夕暮れ時の空で月と交替しながら、遠い星たちを見せながら、闇へと私たちは導かれる。この闇はしばらくの間続くものであり、闇の長さを感じているうちに、私たちは眠りにつき、意識を失うと共に、今日の物語はそこで終了となる。闇のなかに眠っている時、時には悪夢に魘されるが、ふと目覚めても再び眠りにつくこととする。毎日この体験をしているけれども、その体験が退屈な日常となってしまったので、意識することはない。いつからだったから忘れたが、そんな人生なんだと自分に言い聞かせている。

そしてこの繰り返される物語はいつしか、死という終わりを迎えていく。何もかもが死によって奪われ、死んでしまったら、誰も私たちがそんな大それた物語を何度も何度も繰り返したことなど気にはしない。住んでいた場所ではない、別の場所に行くように、見知らぬ顔に囲まれて、見知らぬ世界で生きていかなくてはならない。いつも死ぬのは他人ばかりであり、これまでに自分が死んだ記憶はあまり見つからないので、自分が死ぬことは考えないことにしてきたが、これから死んでいかなくてはならない。この肉体はもう使えないし、この物語を生きていることには、少々疲れてしまったのである。だからもう使えなくなった、この肉体はここに捨てておいて、別の肉体で起き上がろうとする。毎朝目が覚めた時に別の肉体で目覚めたらどうなるか、そんなことを考えて、死んだ後には別の良い肉体で生まれたいな、と孤独な希望に光を見出そうとしてみるのである。

密教における即身成仏の修習とは、仏の身体と同じ姿をしたもので目覚めて起き上がろうとすることである。いまのこの私たちの身体を捨て、別の身体で起き上がり、そしてすべての生きとし生けるものたちのため、もっと役にたてる身体で起き上がりたいのである。いまのこんな身体では、何一つよいことなどできやしないことは、もう充分すぎるほど知っているからである。眠りについたり死んで転生していくように、私たちの意識が暗い暗黒の闇へと向かって消えてゆき、ふたたび曙色に染まった朝を迎えていくように、この肉体と私たちは別れを告げ死んでゆき、諸仏の肉体で生まれ変わろうとする練習を何度も何度も繰り返すのならば、ある時そんなことも実現できると諸仏たちはおっしゃっているのであり、そのために私たちはいまはまだ仏にはなれていないけれど、まず最初は自分は仏であり、この身体や精神もまた仏としての活動のためのものである、そう強くおもうことからはじめるのである。まずはこの煩悩にまみれた自意識を改革し、どんな時にでも仏として目覚め、仏としてありとあらゆるものを示現することができる練習をする。これが生起次第というものである。

生起次第には、空性を観想する所取相を本尊として生起させ、一心に本尊を想起し、自己と一体のものとなっていると観相する粗大一念瑜伽と、それが定着し止を成就した後に、心臓部にある微細滴のなかに本尊およびその曼荼羅を修習する微細分別瑜伽との二つがある。この両方ともが、浄化の基盤となるいまのこの肉体の死有・中有・生有の過程を諸仏の法身・受用身・変化身という清浄なる三身が生成する過程へと意識によって変革させることを繰り返し練習することである。最初はぼんやりとした大きなサイズでしか自分を仏であるとは思えないが、練習を積み重ねることで、自分の心と肉体のもっとも小さなサイズでその意識をもつことができるようになる。この私がまだ小さな小さな受精卵ほどのサイズであった時までそれを繰り返し、そこから自分の物語を諸仏の物語へとやり直すのである。

受精卵ほどの大きさだった私たちは、細胞分裂を繰り返すことによって、不浄なる粗大な身体をつくってきたのであり、そのうちに私たちの精神は俗世の垢に染まりきっていったのである。だからこそそんな人生には終止符をうち、最初の小さなサイズの時から私たちはやり直し、諸仏の誕生の物語をはじめなければならないのである。ちいさなちいさなサイズで、まずは自分は仏であると意識し、自分のこのいまの世界ではなく曼荼羅世界がこの世に広がっていくことをちいさなちいさな最初のサイズで意識できるようになった時、その意識そのものが仏の意識そのものへと昇華するために意識をいつでも衆生利益ができる準備完了状態へともっていくこと、これが究竟次第と呼ばれているものである。

いまのこの人生とすべての現象を享受していることを直ちにやめて、いますぐに死んでいき、中有を経て、ふたたび再生する過程では、様々な景色が現象や体験があるが、それらは特に他人に話すべきことではない。それは今朝何時に起きて、何をして、朝食を何を食べたかを他人にわざわざ話す必要がないのと同じであり、いまのこの世でも誕生日がいつで生まれた時は何グラムでこうこうこうでしたなどと他人に自慢したからといって、他人にはまったく関係がないのと同じなのである。いまのこの人生でもそんなことを話すのを控え、他人と関わる時は何か他人に役立つことを話すのと同じように、いまのこの身体を捨てて仏として目覚めて仏の身体で起き上がった時に、するべきこととは、息が苦しくてつらい思いをしている人には空気になり呼吸を助けてあげ、激流の川の前で絶望している人たちのためには橋になり、人類のためには、この地上でどのようにしたら仏になれるのか、その方法を教えてあげるといった、利他行こそが重要な仕事である。

イシュヴァーク王家の王バーギラタは、カピラ仙人によって滅ぼされたサガラ王の六万人の王子たちのため、神々を供養して、この地上に女神ガンジスを招いてその水で王子たちを浄化し、いまもそのガンジス河で沐浴する者たちのガンジス河の砂の数よりも多い魂を浄化して癒しているように、私たちはこの身体で起き上がっているのを最初からやり直し、諸仏としての身体で再びここに再生し、諸仏たちと同じように利他行に励もうとするのである。本偈ではこのことを説いている。

生起次第とは、このような私たちの生を受精卵の時から仏としての生へとやり直すための練習である。それは私たちの日常を別の日常として再出発するための第一歩である。この別の日常を実現していくこと、それが生起次第・究竟次第という二次第の修行ということとなる。そしてこの日常とは、真剣に充実した利他行のために行うものにほかならない。

生起次第ではちいさなちいさな受精卵の身体の時から利他行のための生をやり直そうとする

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