2020.10.02
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

煩悩を道へと転換し、煩悩を制圧するということ

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第133回
訳・文:野村正次郎

貪等の煩悩という禍いを

煩悩を道として制圧する

耳に詰まった水は洗浄し

火傷は焼灼して治療する

133

私たちは煩悩に振り回されて生きている。今日は私は何をしよう。明日のために私には何ができるのか。これをしたらこうなるだろう。これをしなければ、こうなるかもしれない。仏教を学び、どのように私たちはあるべきか、ということは、情報やことばとして知ってはいるものの、日々の雑事のひとつひとつが煩わしく、ひとつひとつの決断を冷静に考えてみるに、何とも悩み多き人生だなと思われてくるものである。

玉ねぎのスープを作ろうと決意して、まずは食料品店にいけば、同じ種類の別の製品が並んでいるときにどの玉ねぎを買おうかなとまずは悩まなければならない。同じような値段で、いろいろなものが並んでいるのである。それらのなかである玉ねぎやある人参やある水を選択して我々は買ってきて料理をするのだが、料理ひとつ完璧にできることなどない。あの素敵な料理店ででてきたような、深い味わいで、見た目も写真に撮っておきたくなるような美味しい料理をつくることは至難の技である。だから、私たちは、自分や自分の関係者がせっかく作った料理なので、それをつべこべ言うことなく、ひとまずは楽しんで食べるのである。不格好に切られた玉ねぎと、もう少し工夫の仕様があった味付けを、諦めて食べている。何故なら私たちは三ツ星レストランのシェフでもないし、他にもいろいろしなきゃきけないこともあるので、つべこべ言ってはいられないからである。そんな細かいことに拘っていては生きてはいかれない。三ツ星レストランのシェフがそのスープを飲んだら、びっくりするくらい酷いものかもしれないが、私が作った料理は、それなりに腹を満たしてくれるし、味だって捨てたもんではないのである。このようにして煩悩と業、そしてその結果である苦を享受し、私たちは何とか妥協したりしながら、煩悩と上手に付き合いながら暮らしている。

空を現観する密教の行者たちは、この玉ねぎのスープひとつを作る行為ですら、まったく異なったやり方でやっている。常に空性を意識しているので、店にいって玉ねぎを選ぶ時ですら、いちいち悩む必要はない。何故ならば、その玉ねぎは農家の人や天候などさまざまな原因や条件に基づいて成立しているものであり、小さな玉ねぎ自体の履歴を考えて人々の善意を考えることもできるからである。また料理をする時ですら、いちいち悩む必要はない。味付けはこんな感じ、炒める時間はこの位ということは、こうしたら美味しく作れるよ、ということを教えてくれた菩薩の化身かもしれない人の善意から発せられた情報を取り敢えず使って料理すればいいだけであるからである。出来上がったスープにもいちいち一喜一憂することなどない。本尊瑜伽によって本尊と一体化している肉体を利他のための修行の基盤として維持するために、意識によって固形物ではなく、甘露を本質とする供物として変化させながら、必要最低限の栄養価を摂取することができるからである。ひとりで狭い部屋に住んでいても、そこは諸仏が降臨する宮殿であると認識することができるし、現実に起きているすべての現象は、現実通りではなく、本尊とともに迎えている現象であると認識できるのである。自己中心的な発想である無明、それに対する愛着である貪欲、自分に起こる現象に対する嫌悪感である瞋恚、そのすべての本質を知り、またその秘密の事実を知っていることで、どのような現象が起ころうとも、どのような煩悩が起ころうとも、その煩悩そのものを空性を現観する智慧とし、それによって煩悩によって起こってくるすべての禍いを制圧することができるのである。このようなすべての出来事とそれに対する認識を根源から諸仏や菩薩たちの視線へと転換すること、これを密教では貪欲転道法・貪欲作道法と呼んでいる。これは煩悩をすべて無我や空を証解する智慧へと転換させるということである。

秘密真言道では、現実に起きているすべての現象に対する我々の煩悩を、すべて無我や空を証解する智慧へと転換しながら生きる生き方を説いているが、これは「毒を以って毒を制する」というのに表面的には若干似てはいるが、その内実は全く異なるものであると考える方が妥当であろう。たとえば怖畏金剛尊や不動明王の忿怒形は、私たち凡人の普通の怒りや嫌悪感とは質が異なっている。私たちの怒りや憎しみは実に醜いものであるが、彼らの智慧の炎とも呼ばれる憤怒は、極めて清浄であり、私利私欲によるものではない。その憤怒は無辺の衆生に対する深い大悲から生まれるものであり、その本質は道、すなわち無我の証解にほかならない。私たちの心の闇に潜んでいる憎悪や性、そして狂気は、あまりにも卑しく人間的なものであるが、諸仏の憤怒や楽空無別、そして無辺の大悲という諸仏の不可思議な功徳を想像することは極めて困難なことではあるが、卑しく人間的なものでは決してない。

チベットの人たちは、真言を唱えるために常に念珠を携行している人のことを「強い意志をもった勇ましい人である」というように見るという。念珠を携行している人を「心が弱く、宗教に頼っている人」というようには決して見ない。真言とは心を凡俗な顕現から守るものである、といっているし、本尊瑜伽の休憩時間に真言念誦を行うといわれるが、この言い方と念珠を携行している人への見方は無関係ではないと思われる。諸仏の憤怒形は非常に恐ろしい表情をしており、仏画でも力強いタッチで描かれるが、どことなく微笑しているようにも見えるし、ある意味茶目っ気があるようにも見えるし、それを感じるたびにいつもチベットの高僧たちが、とても厳しいのだが、楽観的でもあったり、いたずらや冗談が好きで、いつも面白いお話で笑わせてくれるのを思い出す。凡俗な私たちの生活のそのすべてが様々であるように、きっと諸仏たちのような煩悩を智慧へと転換できる人たちの大悲の示現もまた、通り一片ではない。しかしながらそれは決して顰めっ面ではないのであり、歓喜が溢れ出したものであり、すべての周囲の人を楽しい気持ちにさせてくるるものであることだけは間違いないだろう。

忿怒尊のお一人である獅子面尊は怒ったライオンのお顔であるが憎悪に満ちた表情ではない

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