2020.09.29
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

未来のために自己批判と懺悔を繰り返す

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第131回
訳・文:野村正次郎

とはいえ二種の悉地というものが

拠って立つ場は三昧耶の護持である

海水のすべてが渇れてしまうなら

波の紋様はどこから起こるだろう

131

無常瑜伽タントラの二次第のうち、生起次第を究竟した時、空を飛行可能になったり、一劫の間寿命が尽きなくなるなどの八大共悉地と呼ばれる超越的な現実的な能力を発揮することができるようになる。これは仏教以外の宗教の修行でも実現可能であるので、「共通の悉地」「共悉地」と呼ばれる。これに対して、究竟次第を究竟した時、不共悉地・最勝悉地と呼ばれる執金剛位を実現できる可能となる。こちらの方は仏教のみが実現できる境地であるので、「独自の悉地」「不共悉地」と呼ばれる。この二種類の悉地が密教の修行によって実現される「二種の悉地」というものである「悉地」とはサンスクリット語の「シッディ」を音写したものであり、「成就している」「実現している」という動詞の完了形由来の名詞であるが、チベット語では「実際に実現している」(ゴードゥプ)という訳語で表現されように、禅定三昧を繰り返すことによって、得られる現実的な能力のことを表している。

超人的な能力は今生のみの修行によるものではなく、遥か彼方の前世から禅定を繰り返した人は、幼少の時からその能力をもっている場合も多くある。しかしそれらの能力をもっていたとしても、人前でその能力を披露したり、自慢したりすることは律によって禁じられており、釈尊ご自身も神通力を何度も何度も披露されるのを躊躇ったことは舎衛城の神変の故事などから知ることができるだろう。

戒・定・慧の三学処のうち、戒が定・慧の土台であることは、顕教であろうが密教であろうが同じある。密教において授かる戒律は三昧耶戒と呼ばれるものであり、それを護持することことが、すべての功徳が生じるための絶対条件となる。このことを本偈では、大きな海には様々な波が起こるが、海の水が枯渇してしまえば、波の紋様が出現することは一切なくなるのと同様であると説いている。

チベット仏教は宗派や僧俗を問わず、別解脱戒・菩薩戒・三昧耶戒のすべてを遵守することを貫いており、この伝統はチベットの仏教に大きく影響を与えたシャーンタラクシタ、パドマサンバヴァ、アティシャなどのチベット仏教の黎明期以来の教えを忠実に守りつづけてきたものである。在家の修行者であれば、優婆塞・優婆夷の戒律を授かった上で、ほかの戒律を授かっていくのであり、特に三昧耶戒は、灌頂を授けてくれる阿闍梨との個人的な契約や約束なのであり、戒律を授かったのならば、なるべく戒律を犯さないように日々努めることが大切なことであり、同時に少しでも違反する可能性もあるので、常に懺悔滅罪を行って、自らの戒体を清浄に保つ、ということは極めて大切なことである。

懺悔滅罪の方法には、いろいろあるが三十五仏に対する懺悔や金剛薩埵の百字真言による懺悔法は、ひろく普及しているものであり、実践しやすく昼夜六時、自己の罪業を反省し、常により善なる活動へと決意を新たにすることを繰り返すことは極めて大切なことである。すべての罪業は自らが他の衆生に対して為したものであり、罪業を反省し、自己批判を繰り返し、善へと向かい続けようとする決意こそ、懺悔の本体である。常に曼荼羅の諸尊を眼前の空間にお迎えし、常に一切衆生に対する罪の意識をもちながら、一切衆生を何とかして救済したいという決意を日々鍛錬していくことによって、はじめて超越的な能力は身に付くのであり、それ以外には何も手段はない。本偈はこのことを説いている。

金剛薩埵念誦法(ウェブ版)


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