2020.09.19
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

ちゃんとした立派な大人になるために

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第127回
訳・文:野村正次郎

自分の心を変革する菩薩は

四摂事によって所化を育てていく

海を訪れたことがある船頭は

他人を連れて財宝へと導いていく

127

一切衆生を利益するために仏位を目指す菩薩たちは、菩提心を起こした時点から「如来の御子息」と呼ばれ、六波羅蜜を通じて、自らの心を変容させていくが、すぐに六波羅蜜を完成させ、十地を究竟して無上正等覚できるという訳ではない。それは生まれたばかりの子供がすぐに大人になれる訳ではないのと同じである。

これはいまの社会でいうのならば、「皇帝の息子」「社長の息子」「医員長の息子」のようなものと同じ状態である。「皇帝の息子」「社長の息子」「医員長の息子」として生まれた者たちは、家来や社員や看護婦や患者たちからはまだ何もできない小さな時から、ちやほやされることになる。しかしあくまでも「息子」であって、「皇帝」や「社長」や「医員長」本人ではないのであり、その地位に相応しい人物として振る舞えるだけの学問教養を積んで一人前にならなければならない。いくら「息子」であっても放蕩息子では周囲の者も困るわけで、「皇帝の息子」「社長の息子」「医員長の息子」がひとりであれば、地位を継承できるのもある程度確実であるが、沢山いるのならば、必ずしも地位を継承出来るわけはない。後継者が複数いる場合でも、周りの者は、もしかしたらこの子が地位を継承するかもしれないので、大切に扱っておかなくてはならない、という配慮からちやほやするだろうが、だからといって慢心して、無理難題を周囲の者に言って困らせたり、粗暴な振る舞いをしてはいけないのである。

このことと同じように菩薩になって「如来の御子息」と呼ばれるようになったからといって、あくまでもまだ大人になりきれていないのであり、将来如来として活動できるために、六波羅蜜を修習して自己研鑽に努めなければならないし、六波羅蜜はあくまでも個人的な精神的営為であるので、対外的に、すなわち他の衆生に対して、も、「如来の御子息」としての相応しい活動の基本方針が必要となるのである。「如来の御子息」としての基本的な行動指針が「他者の心相続を異熟させるための四摂事」と呼ばれるものとなるのであり、それは如来の活動に準ずる活動にほかならない。

四摂事には布施・愛語・利行・同事という四つがある。

そのうちの布施とは六波羅蜜の布施と同じであるが、如来が一切衆生から好意をもたれ、その言葉が意味のあるものとなっているのと同じように、菩薩はまずは他の衆生から好意をもたれる必要があり、そのために他の衆生に対し、喜びや幸せをもたらす活動をしなければならない。他の衆生たちから見向きもされなかったり、警戒されていたのでは、そもそも彼らの生と関わるなどなかなか難しいし、ひとりひとりの人間や衆生と真剣に関わることができないのならば、本当に彼らの役に立つことなど何一つできないからである。しかるに菩薩は布施によって他の衆生たちの、財政的、身体的、物理的、精神的な困窮状態から解放し、他の衆生たちが安心して、仏の言葉に耳を傾けたいと思うような状態を作り出さねばならないのであり、そのための最初の対外的な活動、これが布施である。

次に如来がただ法性の真実を説くことによって、衆生を救済するのと同じように、菩薩も如来と同じような言葉で他者と話ができる訓練をする必要がある。如来のように常に微笑みかけ、決して他の衆生たちを絶望や恐怖に陥れるようなことを語ることなく、常にやさしく、美しい言葉づかいで深い意味を語り、その言葉が他者の心に滲み入っていくような語り口を磨かなければならないのである。如来の言葉は、決して無駄がなく、必ず他者の恐怖を取り除き、他者の苦しみを絶対的に癒すものであるのと同じように、決して煩悩を増やすような虚言や無駄話や粗暴な言葉遣いをやめ、美しい言葉で深い意味を語れる言葉のみを他の衆生に発すことができるように心がけるなければいけない。この言葉遣いについての対外的な基本方針のことを「愛語」と呼ぶのである。

他の衆生たちから好まれ、自分たちが語る慈悲や無常や苦や無我ということを他の衆生たちの心に届けることができるようになったのならば、次には単に言葉だけで終わってしまうのではなく、実際に他の衆生たちが、その言葉が示している善なる方面の活動を各自が実践してくれるようにしなくてはならない。実際に彼らが善なる活動に従事するのならば、彼らの得られる幸福や快楽も増加するのであり、彼らが善業の実践を喜びとし、利益をもたらす善業を享受するようにさせていく活動、これを「利行」と呼ぶ。

他の衆生たちが善なる活動ができるようになったら、そこでさようなら、というのはあまりにも無責任な態度である。如来は決してそのようなことをされないのであり、常に我々を見守り、我々が善なる活動をするための手助けをしてくれる様々な菩薩たちを示現させる。川を渡るためには橋を必要としている者には、橋としての化身を示現させ、呼吸が苦しいものには、美しい酸素としての化身を次元させ、如来は常に衆生たちの苦しみを軽減させている。善なる活動をすることは容易なことではないが故、その活動には様々な障害や問題が起こるのであり、その障害や問題をひとりで孤独に乗り越えていくのは、あまりにも辛いのである。だからこそ如来たちは、衆生の歩く歩幅に合わせ、衆生と共に苦しみ、共に涙したり、歓喜したりしながら、常に衆生に寄り添って、共に道を歩んで行こうとしているのである。如来がこのように衆生たちの能力に合わせて、彼らに寄り添って彼らの善資を発展させるために活動しているように、菩薩たちもまた他の衆生に常に寄り添い、常に助け合い、苦しみも悲しみも共有しながら、最終的な解脱や一切知へとたどり着こうとする活動、これを「同事」というのである。

私たちはかつて全員子どもであった。何時の間にか様々な汚れや悪事に慣れ親しみ、立派な大人になろうとすることを忘れてしまった人も多い。あまりにも悪いことばかりしている子どもは、「あれはうちの子ではありません。あんな子供は見たこともありません。どこかの躾のなっていない他所の子でしょう。」と言われる親に見放される場合もある。しかし本来子どもを教育するためには、決してその子どもが何かができないからといって断罪したり見放してはいけない。我々はまだ菩提心すら発することができず、残念ながら「如来の御子息」と誰にも言われることもない。「如来の御子息」と呼ばれる立派な菩薩にいますぐなれなくても、すくなくとも如来や菩薩たちから「他所の子」として見放されないように気を付けたいものである。如来の家族に相応しい人物になれること、それは仏教徒としての第一歩であろう。

デプン・ゴマン学堂で立派な菩薩になるために日々学んでいる子どもたち

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