2020.09.17
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

川の畔を散策し、海へと思いを巡らせる

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第126回
訳・文:野村正次郎

釈尊が説かれたすべては

空と縁起 ここへ向かう

地上の川のそのすべては

大海へと流れ込んでいく

126

仏教の根本思想は、縁起と空にあり、空や無我とは我々が無始以来「私」と思うこの我見が思い込んでいるその対象が存在しない、という無我を主張しているものである。仏教とほかの宗教との最大の相違点は、この無我という思想・見解にある。

「私」と思っている意識が思い込んでいる対象が、思っている通りに存在している、と主張しているのが、仏教以外の思想となるが、この我執の思念対象が、誰にでも知覚可能な対象であるのか、それとも推理や哲学的な分析によって見出されるものであると考える二つのパターンが考えられる。

「私」と思う意識が思っている通り私は存在しており、それはあなたにも私にも眼で見えている通りの私である、と考える人々は、前世や来世などがないという。身体と心とを分けて考えるのは不自然であり、身体が滅する時には、心も滅するのであり、岩がなくなれば、岩の上の模様がなくなるのと同じであるという。死後私たちの心が別の肉体を得て再生するのは、非合理的であり、すべてのものは自然に発生しているとする。太陽が登り地上に光をもたらすのは、太陽の本性であり、豆が丸いのも、豆の本性である、という。目に見える世界がすべてである、とする彼らは今生こそがすべてであるとし、徹底的な現世利益と物質主義を唱え、現実に私たちの眼の前に起こりうることだけに、私たちは集中するべきだと考えている。こうした考え方は、いまの私たちの世界では最も多数派であろう。このような考え方のことを仏教では「断見」と呼んでいる

一方、自意識の思念対象は、知覚には顕現しないが、推理や哲学的分析によって見出されるものであるとする人たちがいる。この私という意識の思念対象は確実に存在しており、それは死を超えて常住に存在する単一なる魂であり、何にも依存しない独立した存在であるとする。そのようなものは、神の創造物であるとしたり、様々な元素や知的概念などによって生成されているとする。このような考え方のことを仏教では「常見」と呼んでいる。

仏教では、我々の生命体としての存在を対象として「私」であると思う知を「人我執」と呼び、この生命体を構成する一切の要素を対象としてそれを「私」であると思う知を「法我執」と呼び、その両方の知が思っている通りの思念対象は存在しない、という。これが無我や空の思想である。私であると思うこの意識によって私であると名指されているだけなのであって、その私であると思う言葉や意識によって、この私というものは形成されているだけである。これが縁起しているということであり、決して全く存在しないわけでもなく、何か特別な本性によって私ができているわけではなく、創造神のような主宰者によって創造されたものではない、という常見と断見という二つの誤った見解を離れた中の見解、すなわち「中道」を主張する。この空性や縁起や中道が分からないからこそ、「私」と思う意識によって我々は来世もまた別の身体を欲するのであり、その強力な意思によって、別の生命体へと生まれ変わっていく、と仏教では考えているのである。

仏教の教義には八万四千の法蘊があると言われ、様々な教えがあり、長く続いていきた仏教の歴史では様々な宗派や様々な実践法が説かれている。部派仏典では止観を極めて阿羅漢果を目指すことが強調されているし、華厳経では一則一切、一切即一という独特の世界観が説かれており、禅では公案による言語的思考のパラドックスを思考することが徹底して説かれていたり、密教では本尊の観想法が説かれており、浄土系の宗派では、極楽往生についての様々な見地が説かれている。

現代日本の仏教書は書店の隅の隅の方で販売されており、伝統的な古典の解説から、新興宗教の摩訶不思議で奇怪な教義まですべて玉石混交な状態で陳列されている。そもそも仏教とは教義がない宗教であると定義している宗教学者すら存在しており、結局何が何だ分からない状況が作り出されていることも確かである。近年はアメリカで流行した「マインドフルネス」といったカタカナ言葉や、「瞑想」という仏教には本来なかった修行法も仏教のものとして取り扱われたりしている。

本偈が説いているのは、仏教とはどこを目指しているのか、ということの明確な認識が必要であるということである。すべての河川はそれぞれの人によってそれぞれの役割があったりする。ある者にとっては家畜の水飲み場であるし、ある者にとっては田畑の水を供給するための源流であるということになる。またある者にとっては遊び場であり、ある者にとっては魚釣りをするための場所であったりする。しかしながら、すべての川は最終的に海を目指しているのであり、それらの姿は一時的なものに過ぎない。仏教のそのすべては縁起と空を説いたものであり、それを説いているのは、私たちひとりひとりが、この輪廻の苦海から脱出して解脱の境地を実現するためである。

世界中の川はすこし高いところから見れば、どんなに曲がりくねっていようとも、すべて海へと流れ込んでいる。近年は人工衛星からの写真でそれを体験できる。すべての川が海に流れ込んでいることを知る者は、川の畔を散策して、道に迷う必要はない。何故ならば川の流れがどこに向かっているのかを知っているからこそ、いま自分がどこにいるのか、これを明確に知ることができるからである。同様に、すべての仏教の教えの根本には縁起と空がある、ということを知ることは、いまの私たちがどこにいるのか、ということを知るための知るための位置情報の特定を可能にしてくれることなのである。

この川の行き着く先は海である

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