2020.09.15
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

どんな大きな河も小さな水流が集まったものである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第124回
訳・文:野村正次郎

仮設の基体たる蘊等の集合を

私だと思い込み迷乱している

大河は元から分かれて見えるが

本来小さな支流の集積なのである

124

空性それ自体を理解すること極めて困難であるが、空性において否定されるべき否定対象を確認することはできるし、それがない状態である空性を想像することはできる。空性を推理によって確定するためには、空性を証明するための証因である縁起を理解しなくてはならないが、その縁起は私たちに認識可能なものとして成立しているものである。しかるに先ず私たちは空性への思索を繰り返していく必要がある。それによって少しずつではあるが、空性とは逆の命題を捉えている知である我執の趨勢を弱体化させられるからである。

それは利己主義への徹底的な批判であり、そのことによって私たちは菩提心や六波羅蜜の修習なども可能となるのであり、また空性を考えることは、世間の崩壊の根本原因を考えることであるからこそ、空性を考えることは、すべての魔除や厄除のなかでも最高のものであると言われているのである。

空性を理解するためにはまず否定対象の確認が必要であるということは、私たちが先ずこの輪廻に彷徨うことになった煩悩の根本原因である無明という知によってどのように捉えているのか、ということを知ることである。

無明・我執はほぼ同義であり、私・我とはどのようなものであるか、ということを捉えている知であるが、それには私たちが生まれてから様々な学習をして、思想として構築してきた後天的な我執と、今生に生まれる前、無限の過去世から継続している先天的な我執とのふたつのものがある。前者は分別起の我執といわれ、後者は倶生起の我執といわれる。

分別起の我執とは、私とは何か、という何らかの哲学的な問いかけをし、それによって構想されている自己に対する印象にほかならない。

生まれてからいまにいたるまで、我々は様々なことを学び自己形成していくが、その自己形成の過程上、これが私であるという確固とした自意識を私たちは形成している。私というものは日本に住んでいる。私というものは日本語を話している。私というのは現代の文明社会に生きている。これらの命題には常に、私という意識が同居している。この私という意識を何らかの哲学的な命題によって規定している場合には、倶生起の我執と同時に分別起の我執というものが存在しているのだろう。しかしそれらはいまこの特別な私にのみ適用できることであって、前世に羊であった時や、来世に寄生虫に生まれ変わってしまった時には通用できる考えではない。

前世に羊であった時には、草をみたら美味しそうだなと思って食べたりしただろうし、草原でごろごろ寝ていても、「私は怠惰なので怒られそうだ」などと思ったりもしないのである。また来世に寄生虫に生まれ変わってしまったのならば、自分の生きている家は、誰かの胃腸のなかであり、食糧が食道の方からやってきた時には、「こんな誰かの食べかすなど食べてられるか」と怒ったりしはしないのである。しかしながら、羊であろうとも、寄生虫であろうとも、とにかく「私は楽しく過ごしたい」という気持ちは持っているのであり、「私」という意識は、すべての生物に共通してあるものである。このすべての生物に共通してある「私」という意識こそが倶生起の我執であり、それによって誤って捉えられている「私」の印象像は思っている通りには存在していない、というのが無我や空と呼ばれるものである。我々が輪廻の迷路に彷徨っている根本原因はこちらであり、倶生起の我執を断じることによってのみ、再生への終止符を打つことができるのであり、それによって解脱することが実現できるようになる。

本偈では、この倶生起の我執を大河に喩えている。私には頭や手や足などの様々なば部分があるように、大河は源流近くから様々に分流しているように見える。ガリー地方にあるチベットの川は、インドやパキスタンやビルマ、中国という風に様々な場所に流れており、それは源流近くから分岐していることは確かである。しかしその川はもともと小さな小さな水の流れが集まって川になったものである。小さな雪解け水が、静かに流れ次第に水溜りになり、それが湖になり、そしてその川ができている。ブラフマプトラ河であれ、最初は小さな水滴が集まったものに過ぎない。その全体の流れているものを「ブラフマプトラ河」と私たちは命名しているが、どんなに源流を遡ってもここが最初であるという「ブラフマプトラ河のはじまり」という場所を厳密に客観的にいうことなどできない。

これと同じように私たち生命体も、自分たちの心と肉体、その肉体も最初は小さな受精卵であり、それが次第に大きくなることでいまの手足や体全体が形成され、最初は言葉も何も分からない時から「これが私である」という確固とした自意識を増長させてきたのである。その自意識は、私たちの構成要素となっている様々な部分の集合体に「これが私である」と命名してはじめて成立したものにほかならない。私の身体、という意識にしても、どの細胞をもってしてそれを私とするか、ということなど考えもしないうちから、これは私である、と意識してきて自意識を形成してきているのである。この精神と物質との集合体に過ぎないものに対して、「私」であると意識して、その「私」というものが確固として存在する、と考えている、この意識こそが前世の精神から継続している悪しき習慣であり、それが倶生起の我執と呼ばれるものにほかならない。いまは健康かもしれないが、そのうち年老いて我々の体は消費期限を越えてゆき、段々と使えなくなり、そのうち意識も朦朧として、食べても味も分からず、ついにはこの世から去っていかなくてはならない。そしてその去っていく時に、「私はここからいなくなる」という強い我執が起こり、そのことによってまた輪廻を彷徨っていくのである。最近の科学では幹細胞の自己複製などの研究もなされているが、これらの研究でも示唆されているように、我々の有機体は少なくともこの我執のようなある強力な意思によって、増殖したり死滅したりしている。

倶生起の我執を断じるためには、この把握形式とは逆の「このすべては無自性空である」という認識を明瞭かつ強力に意識に起こしている必要があり、それは大変困難であるが、少なくとも分別起の我執のうちの簡単なものは、いますぐにでも断じていくことができるものである。分別起の我執の勢力をすこしでも弱めていけば、倶生起の我執の支配力も若干抑えることができるようなるのであり、それによって私たちの人生はいまよりもはるかに実りあるものとなり、明るい未来は必ず開けているはずであろう。

現代私たちは非常に小さい眼に見えないほどの大きさのウイルスの感染症の被害に右往左往しているが、この問題を解決するのは、非常に小さい眼に見えないほど、人には目立たずも分からないような利他への強い意志や慈悲の力である、とダライ・ラマ法王も説かれている。私たちの我執や自意識も最初は小さなちいさなものであったのである。だからこそそれを断つための空観の修習も微細なものまで行う必要がある。その努力は決して無駄なものとはならないし、それを継続する力は最終的には輪廻そのものを断じることができるのである。すべてのものは縁起しているからこそ、ちいさな小さな慈悲や愛は世界を変える力をもっている。現在の世界的なパンデミックの終息は、決して大きな勢力や権力をもつ乱暴者たちによって成し遂げられることではない。このパンデミックの終息への希望の光とは、小さな滴があつまり大きな河ができるように、我々ひとりひとりが我執による利己的な思考形式を少しでも変えようとし、すこしでも他者の幸福を望もうとする小さな希望の光の集積だけから放たれていくものだろう。

少量の雪解け水がすべての大河のはじまりにはある

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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