2020.09.14
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

巨大な迷路の街から抜け出すため

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第123回
訳・文:野村正次郎

甚深の実義を分析するために

はじめに否定対象を確定する必要がある

海へ行って宝石を採取しようとする時に

どんな危険があるかを知るのは大切である

123

いつの間にか巨大な迷路の街に迷い込んでいる。その街にいると最初は楽しい芝居が催されていた。美しい衣装を着た演者たちは様々な踊りを披露し、偶々隣の席には、幸運なことに知り合いがいたので、一緒にしばらく観劇を楽しみながら時間を過ごしていた。

舞台は大掛かりなものであったし、少し飽きてきたが知り合いも楽しんでいるので、飲み物でも買いに行こうと思い席をたった。飲み物の販売コーナーを探し大混雑の観客の人混みをかき分けながら進んでいったからか、うっかり携帯電話を自分の席に忘れてしまったことに気づいた。しかし、どこまで行っても飲み物の販売コーナーは見当たらない。知り合いに連絡しようにも連絡手段を忘れてきた。元いた席に早く戻ろうとして探しているのだが、その席が何処か分からなくなってしまった。この劇場は何とも大きすぎる。芝居は素晴らしいが、こんな劇場では必ず道に迷う。取敢えず、片っ端から自分の席を探すがまったく見つからない。

いつのまに公演が終わり、観客の群衆が一気に帰路につきはじめた。とにかく知り合いを何とか見つけnなきゃはじまらない。携帯電話がないので自分がいまいる場所すら分からないし、何処に行けば、ここから帰れるのかも分からない。しかしこの人混みの中から、あの知り合いを一人見つけ出すのは大変困難であった。人混みはどんどん自分を通り過ぎれゆき、そのうち誰もいなくなった。

元の席も分からないし、もう知り合いは帰ってしまっただろう。きっと彼が持って帰ってくれたとは思う。しかし自分の携帯電話を取り戻そうとしても相手に会えなきゃ術がない。道に迷い続けて探し疲れたので、今日はもう諦めよう。携帯電話なんてまた買えばいいし、とりあえずここから抜け出すことを考えよう。

そう思い、劇場からの出口を見つけ外に出た。しかしこの街は、劇場以外にも似たような建物だらけであり、どこに行けば駅があるのかも分からない。都会なのできっとビルのなかに駅があったり、地下に通じる道があるのだろう。そう思って右に行き、左に行き、時々小走りに発してみたりした。時には上の方に行き、下の方にも行ってみた。しかし自分の家に帰るための駅は見当たらない。携帯電話もないので、誰にも連絡が取れない。いま何処に自分がいるかも分からない。

道に迷ってうろうろしていると時々知り合いに似た人にも会った。少し安心して、声をかけたが、違う人だった。あんなにも似ているのに。

日が暮れそうになり、何故かこの巨大な迷路の街は、海の水がどっと流れ込んできた。いざとなったら泳ぎも不得意ではないが、こんな大量の海水は疲労困憊している私にはすこし重荷である。とりあえず溺れないように、上の方にも登って見た。下の方を見落とすとかなりの高さで、落ちたら時の恐怖には耐えられないような高さになっている。

どうやってこの巨大の迷路の街から逃げ出したらいいのか、まったく分からない。人に聞いてみると誰しもが感じよく曖昧で適当な答えしか答えてくれない。彼らはきっとこの街の住人なんだろう。この街から外に出て他のところに行こうともしないからだろうか、そんなに親身になって教えてくれる人は誰も居ない。仕舞いには疲れ果てて、座り込んだ。もう諦めてこのままここで朽ちて死んでみるか、そんな思いがよぎりながらも、とりあえずその場に寝転んで、地面の上で、すっと眠りに落ちてしまった。

しばらくして起きてみるとさっき寝ていた場所とはまるで似ても似つかないような違う場所にいる。ここが巨大な迷路の街であるのは確かである。どこかにきっと出口はある。しかし、何処に行けばよいのか見当もつかないし、また彷徨い続けているうちに日が暮れて、眠りに落ちてしまった。翌朝もまた同じ状況である。もういっそのこと死んでしまえて生まれ変わって違う場所に行けたらいいのにな、と思ってあるビルの屋上から飛び降りてみた。しばらくして目が覚めると、また巨大な迷路の街である。

この街に彷徨い続けていることは、決して孤独ではないが、知り合いもいないし何も楽しいことはない。ただ通りすがりの人たちだけが迷路のあちこちで無関心な顔をして、私と同じようにうろうろしている。

仏教思想の根本思想は空思想であり、私たちが知るべき真理は空性である。私たちはこの輪廻にこの空性を知らないからこそ、彷徨い続けている。すべての破滅への道は、空性の真理を知らない無明によってもたさられている。

この輪廻を彷徨っている状態というのは、この巨大な迷路の街に居続けている状態と同じような状況であろう。空性という出口が分からないから、さまざまな思いを起こして、煩悩を起こし、業を積み右往左往し、抜け道のない三界輪廻に転生し、苦を享受している。

巨大な迷路の街で、自分の位置を確認するための携帯電話を失ったように、私たちは空性が分からない無明のせいで、何処で何をしているかの位置感覚を失っている。もしも空性を正しく知ることができるのならば、私たちはこの輪廻から解脱し、仏陀の境地にもたどり着くことができるは知っている。しかしその空性という出口がどこにあるのか、さっぱり分からない。しかし空性を理解することだけが、この迷路の街からの脱出を実現可能にする唯一の手段である。それをいったいどうやって見つけたらいいのだろうか。

巨大な迷路の街で彷徨っている時に、まだ見たこともない出口が何処にあるのか、ということを知ろうとするのならば、まずは彷徨っている自分が、どのように何処を彷徨っているのかをひとつひとつ確認していくしかないだろう。ある時には行き止まりになったり、ある時には危険があったりするが、出口を通過して外にでたことのある人に聞けば、その出口の在り方へと通じる道を特定できるようになる。無闇矢鱈に出口を探しても見つかるわけはない。自分がどこを通ったのか、この道はどう間違っていたのか、それらのひとつひとつを丁寧に反省しながら、本当の出口への道を見つけていかなくてはならない。

空性を理解しようと思うのならば、まず最初にその空性とは、どのような現象なのか、ということをよくよく知る必要がある。何かを欠いている、というがその欠けているものが何なのか、それを知らずして空性を知ることはできない。

たとえば「ここには、この人はいない」と理解するためには、その人のことを具体的に事前に知っている必要がある。何故ならば、その人がどんな人なのかを知らなければ、その人の不在な状態を理解することができないからである。あるものの非存在とは、その人がもしそこに存在していれば認識可能であるにも関わらず、正しい知によって認識されない、ということから推理されるからである。同様に「無自性」や「無我」もまた、「無い」と確定する際の否定対象であるその「我」や「自性」が一体如何なるものなのか、ということを事前に知っていなければ、それらの無も確定できない。このことをシャーンティデーヴァは、「構想されている事物に触れなければ、その事物の非存在を把握できない」と述べている。

このように空性を知るためには、まずは空であると言われるその否定対象がどんなものなのか、丁寧に確認する必要がある。これは無明という彷徨える知が、どのように彷徨っているのか、空性ではなく如何なるものを捉えているのか、これをひとつひとつ確認する作業でもある。これを否定対象の確認という。

空性は極めて甚深で難解であり、そのための唯一の手がかりは縁起である。縁起によってのみ空性を正しく理解できるのであり、縁起を知るためには、まずは無明によって行があるというこの第一支を知ることからはじまる。空性を確定するためには、否定対象の確認が必ず先行している、という学説は、特にツォンカパが詳細な分析を行っているが、その目的は、否定対象の確認を誤ってしまえば、有辺や無辺へと陥ってしまい、悪趣へと生まれてしまうことを回避するためなのである。

空性を理解することの大切さ、否定対象の確認の大切さ、これらはもう二十年以上も前に、ケンスル・リンポチェが詳しく教えてくれたことである。そこから様々な研究を行い、様々なゲシェーの先生たちからもこの話題について数多くの教えを受けてきた。大体こういうことなんだろう、という言葉上での意味内容は漠然とは理解できるようになった。複雑な中観派の論師たちの議論も原典で読みながらすらすらと読めるようにはなったし、それらについて学術論文なるものも書いたりもしてきた。

しかしながらそんなことをいくらしても空性が分かるようになったわけではない。空性が分かるようになると、壁でもドアでもどこでも突き抜けていくことができるようになる、とケンスル・リンポチェをはじめゴマン学堂のゲシェーたちはみんなおっしゃっているが、壁もドアも突き抜けていけないし、否定対象の確認という、自分がこの数十年研究してきたテーマに関する本偈がでてきたも、これをどう書けばよいのか、思い悩み数日が過ぎてしまった。やはり空性をを理解するということは、知ればしるほど難しい。

最近ダライ・ラマ法王は、自分は子供の時から菩提心と空性のことを毎日毎日考えてきたので、大分分かるようになってきた。自分は観音菩薩の化身だとは言えるほどのものではないが、もう八十にもなると、観音菩薩の仏国土の受付係や観音菩薩のマネージャーくらいにはなっている気がする。いままで結構頑張ってきたので、歴代のダライ・ラマ法王のなかで一番世界的にも有名で、世界中の人に役立てるダライ・ラマになれた気がするし、菩提心や空性についても、そこそこ分かるようになった気がする。こうおっしゃっている。ダライ・ラマ法王でもそうおっしゃっているくらであるので、我々が空性を理解するのは大変困難なことは確かであろう。恐らくそれは、巨大な迷路の街のなかで、小さなちいさな針の穴の大きさくらいの出口を見つけるくらい難しいことなのだろう。

巨大な迷路の街のなかで、針の穴くらいの小さな出口を探すことは大変難しいが、その穴がどこにあるかを示す手がかりである縁起は常に私たちに見えているという。そしてまたこの迷路の街で孤独に一人で出口を探さなくてはいけない訳でもない。空性という解脱への道を通った出世間の聖者たちもまたこの街には住んでいる。まずは自分の彷徨える記録を自分自身で残し、出口がない道がどんな道なのか、それをひとつずつ確認する。こうしていつかきっと解脱という輪廻からの出口を見つけることができるのだと思われる。

通常の巨大迷路は、視界が開けているが、輪廻の巨大迷路は視界が無明で奪われている

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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