2020.09.11
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

龍樹が開いた甚深なる思想とは、底知れない海のようなものである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第122回
訳・文:野村正次郎

龍樹の広大な智慧の大海は

実在論者の慢心を奪うだろう

深淵にして底知れない海が

童子たちを慄かせるように

122

龍樹(ナーガールジュナ)は、般若経を龍宮から再び地上に招来し、般若経が直接表現する甚深空の意味を明らかにし、『根本中論』などの著作を表し大乗仏教をこの地上に興隆させたことで知られる実在の人物で、日本でも南都六宗・天台・真言の「八宗の祖師」として仰がれている。

日本では龍樹の伝記については鳩摩羅什が訳出した『龍樹菩薩伝』が有名であるが、プトゥンやターラーナーターなどの記した仏教史で紹介される龍樹の伝記はこれとはストーリーも異なっており、龍樹とはどのような人物なのか、ということですら、さまざまな学説や伝説があり、何か定まったものがあるわけではない。また龍樹の著作としては、『根本中論頌』を中心として『空性七十頌』『廻諍論』『六十頌如理論』『広破論』『宝行王正論』という「中観六正理集成」と数えられるもの以外にも、『勧誡王頌』『大乗二十頌論』『因縁心論』などが、『龍樹論集』(大乗仏典14中公文庫)に収められており、中村元『龍樹』(講談社学術文庫)や桂紹隆・ 五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』(春秋社・2016)などではそれらの翻訳や紹介がなされている。

ただしこれらの現代日本の書物の多くは、近代仏教学の研究者たちによって書かれているものであり、インド・チベットにおける伝統教学とはかなり異なっている部分が多いので注意が必要である。近代仏教学は、基本的に大乗仏教非仏説を採用し、インド・チベットに伝統的に現在も継承されている学問を認めないし、残念ながら、チベット仏教についての無理解や差別はいまも学会のなかで存在している。

これに対してチベット仏教社会では、いまもナーランダー僧院の伝統をしっかりと守っていこうとし、『中論』をはじめとする著名な古典的な論書などは、著者ナーガールジュナから伝わる口伝の法脈も途絶えておらず、日常的に暗唱したり、原典の講伝を行うといった伝統はいまも途絶えていない。ゲルク派では顕教の根本聖典である『中論』の著者である龍樹も、秘密集会の究竟次第の奥義を明らかにする『五次第』の著者の龍樹も同一人物であり、その龍樹の後継者としてのチャンドラキールティは、『入中論』という入門書を説き、同時に『中論』の注釈書の『明句論』と『五次第』の注釈書の『灯作明』の二書は、ゲルク派が依拠する龍樹の教学を考える根本聖典である。

ダライ・ラマ法王はよく「私たちは釈尊や龍樹や無着などの大先生の学生であり、その大先生とは、仏典を紐解くことでお会いすることができ、その教えを学ぶことができる。仏教とは祈りや盲信ではなく、どのようなものなのか、それを知るためには、仏典を紐解くことがとても大切です。」とおっしゃっているが、私たちの会でも『中論』『勧誡王頌』『宝行王正論』などは、これまでもゴマン学堂を代表する教授陣がその講義してくださった。

龍樹は『中論』の冒頭で釈尊のことを、「戯論が寂滅する吉祥なる縁起を説かれた方」と表現し、『中論』の最終偈では「慈悲に突き動かされ、すべての誤った見解を払拭するために正法を説き給われた方、ゴーダマに帰命せん」と結んでいる。龍樹が私たちに教えてくれることは、その教えの中心が縁起であること、そしてそれが我々に対する慈悲を動機として、我々の誤ったすべての考えを払拭するためのものである、ということを教えてくれている。釈尊や龍樹が説いていることは、現代の私たちと無関係なことではない、そしてそれは経帙を私たちが紐解き、その内容に思いを寄せてはじめて、私たちへ語りかけてくれることばとしてのリアリティをもつ。その教えは深淵にして簡単ではないが、悠久の時を流れて人類が大切にしてきた彼らのひとつひとつの言葉を、私たちは毎日耳を傾け、心に描き、彼らの私たちに対する計り知れない慈悲心を感じることができる。龍樹は偉大なる馬車をはじめて通らせて、後に続くものたちのために轍を開いた者であると言われている。この釈尊から文殊菩薩へと継承され、それが龍樹によって広大に開かれた甚深見次第は、私たちの目のまえに開かれてある道なのである。

弊会創始者のケンスル・リンポチェが自坊で毎日供養されていたナーガールジュナのタンカ

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


RELATED POSTS