2020.09.09
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

澄んだ水にすべての影像は現れる

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第119回
訳・文:野村正次郎

惛沈と掉挙との瑕疵のない禅定が

明晰な時に一切の功徳が示現する

瑠璃の鏡を綺麗に磨かれたように

澄んだ水にすべての影像は現れる

120

禅定とは、善なる意思が、ある対象に集中し継続的に留まっている状態のことである。これには世間の禅定・出世間の禅定という二種類、あるいは止・観・止観双運の三種類と分類できるが、その効能を分類すれば、現世における身体と精神を安定して楽へと留めさせるもの、さまざまな功徳を顕在化させるもの、衆生利益を行うもの、という三種類に分類することができる。

現世における身体と精神を安定して楽へと留めさせるもの、というのは、禅定状態が精神の内部に過度に向いてしまい集中すべき対象が不明瞭になってしまう惛沈や、精神が集中状態を継続できず外部の要因へと散乱してしまっている掉挙の二つの禅定の瑕疵を離れ、精神も肉体も常に集中状態を継続できる「軽安」状態を実現していることを表している。そしてこの状態を実現しているのならば、天眼通・天耳通などの神通力が精神に顕在化するようになるのであり、それによって『菩薩地』などに示されるような十一種類の衆生済度の活動も実現する。

禅定のもつ特性には、本偈にもあるように対象を明晰に知に顕現することができること、そして惛沈・掉挙が起こることなく対象に継続的安定的に知が留まっているという二つの特性がある。

前者は顕明分とも呼ばれ、後者止住分とも呼ばれるが、禅定の質というものは、まずは集中している対象を如何に明瞭に顕現させることができるのか、ということが最初に問われる質となる。たとえば観仏などを行う場合には、最初は仏の存在がただ漠然と全体として心に印象として現れているであり、何となく眼の前の空間に如来がおられるという如来の存在感・気配のようなものしか感じられない。しかしながら、その禅定を繰り返すことによって、三十二相八十種好を備えた仏の身体とその仏のもつ菩提心や無我を勝解する三昧智なども同時に意識できるようになる。そもそも私たちの精神や心というものは、対象を照らし出して認証するという働きをもつものであり、その働きのひとつとしての照らし出す照明作用が強まり、心の輝度が高まっていくことにより、対象の顕現もより明晰になっていくということである。

後者の止住分とは、常に対象にフォーカスしている状態のことを指し、ちょうどビデオカメラが撮影対象がどんなに揺れ動こうとも、またカメラ自身が手ブレなどで揺れ動こうとも常に対象にフォーカスしており、ぶれることない状態のように、心が禅定の対象に常に一定の力でフォーカスしており、決して対象からピントがずれた状態にならないように継続していることを表している。

このように禅定というのは、ある心の状態のことを示しているものであり、必ずしも座布団や畳の上に座って、呼吸を整えてする必要がないものである。精神状態を集中し安定させることができるのであれば、行住座臥のいついかなる時であっても、精神を一点に集中させる止住の修習と対象を分析する観察の修習を行うことができる。禅定には、入定・出定ということばがあるように、その精神状態になっていく状態からその精神状態から出ていく状態の二つの状態があるが、繰り返し禅定を修習した者は、その切替を一瞬にしてすることができるようになる。

チベット仏教の前伝期にシャーンタラクシタの後継者としてチベットに入ったカマラシーラはまずは二十四分程度・一時間半、三時間といった一座の禅定を修習することからはじめたらよいと『修習次第』で説いており、また同時期に大翻訳師イェシェーデは、仏画などの視覚的な補助をもとに観想するのは、正しく禅定することを妨げる恐れがあるとして禁じたと言われているが、これらの逸話は、チベット人たちが比較的具体的な指示を重要視していたことなどを想像できる興味深い逸話である。通常は、早朝・午前・午後・夕方の四座、さらに夜間の二回を加えて六座の観想を行うことで、私たちは真実をより明晰に洞察できるようになり、仏の境地へと一歩ずつだが進んでいくことができる。

「すべての衆生は私たちの母である」という命題ひとつですら、毎日四度も六度もそのことだけに思いを寄せてみるとよい。それは必ず私たちの心に変化をもたらすであろう。禅定や止観といったものは、精神の状態であり、精神で行うものである。ケンスル・リンポチェもよく、「インドのヨガは体でするものかも知れませんが、仏教の瑜伽とは、菩提心をもとにし、真理を正しく安定した心で知るという心で行うものですよ。」とおっしゃっていた。禅定の究極状態である禅定波羅蜜とは、「難勝」と呼ばれるように、これを身につけるのは極めて困難なことではあるが、決して不可能なことではないのである。

残念なことに現在の感染爆発のなか、インドは遂に世界で第二位に感染者が多い国となってしまった。日本とのインドとの往来が再開したり、かつてのように本山ゴマン学堂から僧侶をお迎えし、仏典を一緒に読んでもらえる機会はいまは望めない。しかし私たちはいま、かつて多くの先生たちが教えてくれた内容を毎日何度も何度も心に浮かべ、禅定状態を繰り返して、それを実践することができる。本偈の翻訳もかなり進み、禅定波羅蜜のところまで辿りついた。私たちにいまできること、そしていままでやっていなかったことは山のようにある。

毎日三十分弱程度、世間の汚れに汚れてしまった私たちの心を澄明にして、意識を明晰化し、しっかりと釈尊の教えと心を向け、集中する時間をもつことは、決して不可能なことではない。日々の仏教の実践はまずはそこから始まるものである。澄んだ水にはすべての影像が現れるように、私たちのも汚れで濁った状態を取り除けば、明るく美しい影像で満たすことができるだろう。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


RELATED POSTS