2020.09.08
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

利他の努力を継続できる意思の力

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第119回
訳・文:野村正次郎

常に敬い精進を続けるのなら

実現できない仕事など何も無い

水滴がいつも落ちていることで

岩山ですら貫通するのを見るがよい

119

精進とは、単に何かに努めて努力することではなく、他者に利益をもたらす善を実現することを歓びとし、その実現のために励もうとする意思のことである。

しかるに、自分自身の現世利益のために何らかの努力をすること、すなわち、努力をして名声を得たり、財産を増やしたり、世間で立派な人物であるという評判を得るための自己の成長のために励んでいるすべての努力は「精進」とはいえない。ましてや殺人や強盗などを入念に計画して、それを実行するためのすべての努力もまた「精進」とはいえない。何故ならば、それは他者に害悪をもたらす悪事に過ぎないし、精進とはあくまでも他者のために向けられた意思であり、他者を利する善なる目標を志向している意思そのものという精進の成立要件を満たさないからである。

また精進には三種類があり、衆生済度の活動の前に決意を固める段階の被甲精進、揺るぎない決意を固めた後、六波羅蜜を究竟する攝善法精進、それらを通じて衆生を利益する饒益有情精進という三種類のものがある。

このような精進を発動させるためには、精進を発動させることには無限の功徳があることを知り、それを発動させない精進に反する感情である「懈怠」はすべての実践の障害となることを知らなくてはならない。

「懈怠」とは、善なる目標を実現可能と知りながら故意に実行しない状態と、目標が実現不可能と判断し畏縮している状態の二つがある。前者には、実行時期を延期しようとするもの、他のことを先に実行し目標たる善業を実現しようとしないものとの二つがある。目標が実現不可能であると判断している場合には、、目標それ自体が実現不可能であるとすること、実現できるがそのための手段が極めて難解であるとすること、周囲の状況を鑑みると実現不可能であるとすることという、実行不可能性を想定し目標の実現の努力を怠るものがこれらの懈怠である。精進を発動させるためには、これらの意識的に努力を避ける「懈怠」を断じなければならない。

これらの懈怠を断じて精進を発動させるためには、また業果の法則を正しく理解し、善業によって必ず善果がもたらされるという信解の力を借りるべきであり、また懈怠の心に惑わされ不可能であると早急で自己中心的な判断をするのではなく、よくよく検討することによって、精進を継続すること以外に、それらの実現可能性はないということへの理解を確固たるものとし、善業の実現への努力は、子供が気まぐれに善いことをしてみるといった遊び心ではなく本気で取り組むべきだという精進の歓びを正しくしり、精進を継続するためには、適宜休息したり、緩急をつけて最終的にすべての懈怠を断じた精進波羅蜜を実現するべく修習していかなければならない。継続こそ力なりというのは、この精進においてはまったくその通りなのである。

戒波羅蜜によって作られた光明が単に衆生を照らし出していた状態「発光」であったのに対して、精進波羅蜜が完成した場合には、第四地「焔慧地」と呼ばれ、智慧の炎が衆生たちに照射されてゆき、具体的に衆生たちの二障が焼き尽くされる様子に例えられる。以上精進について簡単に説明したが、精進とはあらゆる善のなかで最も大切なものであると言われている。

精進とは決して自分のための努力ではなく、他者の幸せのための努力にほかならない。私たちは毎日きちんと精進できているだろうか。昨日よりも今日、今日よりも明日がすべての衆生により良い日となるように過ごせているだろうか。菩薩の精進にすぐに私たちは及ぶことはできないだろうが、我々が目指すべきところは、まずは菩薩の精進波羅蜜であり、そして最終的には仏陀の境地にほかならない。仏陀の境地や菩薩の境地というのは絵空事であり、理想論に過ぎない、と断罪してしまう人たちが確かにこの世には多く存在している。

しかし釈尊はネーランジャラー河のほとりで六年間の苦行をなされ、精進とは如何なることなのか、ということを説かれたとも言われている。

精進によって菩提があることを密意し
ネーランジャラーのほとりにて六年間
苦行をなされて精進を究竟なされた後
最勝なる禅定を得られた君を頂礼せん

私たちは無力で小さな存在であることは確かであるが、だからといって大きな目標は実現不可能であるということは帰結しない。精進波羅蜜の教えは、そのような安易な妥協とは懈怠に過ぎない、という極めて大切なことを教えてくれている。


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