2020.09.07
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

憎悪の炎を燃やすのか、忍辱の光を発するのか

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第118回
訳・文:野村正次郎

善資のすべてを焼き尽くす

瞋恚の敵を忍辱は制圧する

すべてを呑み込み燃え盛る

焔を消し去る対治は水である

118

忍辱とは、他者の業による被害や自己の業に由来する苦痛に、心が決して翻弄されることのない、安定した精神状態を保てることであり、それには法に対する信解が維持できていることも含まれている。忍辱に逆行する精神状態とは、他者に対する瞋恚、自らの精神の荒廃、法に対する不信感と意欲の消失である。この忍辱が完全な状態となる忍辱波羅蜜は、これら忍辱に逆行する感情を自らの意思の力によって統御している状態のことを指し、単に加害者に対する怒りや復讐心によって精神が錯乱していないことではない。

忍耐を分類すれば、他者による被害を気にしないこと、自身の心に苦難が起こっているものを克服できること、法に対する確信を維持できることの三つがある。

他者の業による被害に翻弄されない感情をどのように作り出すのか、といえば、先ずは他者が自らの意思によって、その加害行為をしないで済んだのかどうかを考える。加害者は決して自らの意思によって加害行為に及んだわけではない。加害者がそのような行為を行ったのは、その者が過去になした煩悩と誤った考え方を繰り返し修習してきたから、そのような加害行為を為そうという心境に至ったのである。しかるに加害者自らの意思によって行われた行為ではなく、煩悩と業によって引き起こされた業であるので、それに対して瞋恚の感情を抱いても全く意味はない。この他者は、瞋恚という煩悩という魔に取り憑かれているのに過ぎない。また自分がこうして被害に遭ったのは、過去に積集した宿業によるものであって、加害者と自分との両者の悪業は、いまここで果実を結び消費され消滅しつつある。ここで更に怒りを起こしたり反撃しようなどとしても、却って更なる悪業を追加的に積集することとなるので、現状よりも状況は悪化するだけである。しかるに現状の悪業の果実が小さいうちにこの状態で留めておいた方が得策である、という結論に達し、そのまま精神を安定に保つのである。

次に自己の業に由来する苦痛に如何にすれば、心が翻弄されなくなるのか、といえば、先ずは、現状起こっているこの苦痛に解決策があるのかどうかを考える。解決策があるのならば、それを実行すればよいのであり、不快に思う必要はない。解決策がないのならば、どんなに憂鬱に思ったり苦痛に思ったりしても、その感情をもつことは現状打破には全く役立たないものに過ぎないが、苦痛や憂鬱に精神を翻弄されることによって副次的に起こる害悪の方が大きい。それに対していまこの苦痛を享受しておくことの方が、対策としてはよりよい効果が望まれる。まず自ら苦痛を味わうことがなければ、輪廻への厭離心を育むことができないのであり、それを育むことができなければ解脱を目指すこともでいない。しかるにいまこの自己に起こっている苦痛をもとに、解脱への心を強くもつこともできるし、このような苦痛はすべての衆生に起こり得るものであるからこそ、他の一切衆生にはこのような苦痛が起こることはなく、たとえ起こったとしてもそれらから直ぐに救済したいという強い利他心を起こさなければならない。このようにして自らの享受する苦難を克服することができるのである。

また我々が救いとし信じている対象である仏法僧の三宝・実現すべき人無我・法無我の証解、求めるべき仏や菩薩の不思議で偉大なる力、善悪の因果や、修習する対象である菩提とそれに至るための道、聞思する対象である釈尊の説かれた正法たる十二部教、これらのものを一部に偏ることなく安定していくことの利点を考え、その教えに反してしまうことの欠点を考えれば考えるほど、法に対する信解を強く維持することができるようになる。これは常に法が開かれた場所に、私たちの行くべき道があるということであり、その道ではない他の道を探らない、というのがこの忍辱の特徴であるといえるだろう。

布施波羅蜜を究竟する菩薩の初地は「歓喜」と名付けられ、戒波羅蜜を究竟する菩薩の第二地は「離垢」と名付けられ、この忍辱波羅蜜を究竟する第三地は、「発光」と名付けられている。これはこの地に到達した菩薩は、他者による被害や自らの苦痛において身命を落としてしまうことなど全く気にもせず、ただひたすら法を求めることに励み、自らの所知障を焼き尽くす自ら心に燃やす忍辱の炎の光明によって、すべての生きとし生けるものたちを仏法という希望の光明によって満たしていくからである。本偈では忍辱は、瞋恚の炎を消火する水に喩えているが、瞋恚の炎を忍辱によって消火するのと同時に、一切の衆生を救済し、癒す光を放ちはじめるのが、この忍辱波羅蜜を究竟する段階である。忍辱の光明というのは、不条理な出来事や宿業などに決して惑わされない希望の光明であるといっていいだろう。それは心の外側に求めるものではなく、心の内側から輝かせるものであるということもこの「発光地」という表現に読み取ることができる。

心に憎悪の炎を燃やすのではなく、忍辱の炎を燃やし、その炎が放つ光明の輝きによってすべての衆生を救済していく。忍辱とは、精神が抑圧された状態なのでは決してないのであり、安定した静謐な精神の光線を一切衆生に降り注いでいる状態にほかならない。


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