2020.09.04
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

布施波羅蜜の不可思議功徳

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第116回
訳・文:野村正次郎

勝子が自らの所有物のそのすべてと

その果実を与えたい この布施は最勝である

雨は豊かな養分で一切の作物を育てる

しかし見返りや期待をすることもない

116

布施とは、自己の所有権を放棄し、他者へと贈与したい、という意思そのものであり、それを志向する行動や言動をしている際の意識もまた布施である。そしてこの布施が完全な状態となったことを布施波羅蜜というが、布施の完全なる状態とは、他者に対する贈与行為によって他者が貧困や欠乏を解消できたかどうかによっては判断されるものではなく、贈与を躊躇する意識である慳貪を完全に克服し、所有物から得られる既得権、贈与行為によって得られる価値をもふくめてすべてを他者に贈与したいという意識を繰り返し修習しその意識が完全なものとなり、自己の所有欲がなくなり、他者への贈与意思だけになった状態、これを布施波羅蜜であるという。我々が一切の衆生を輪廻の苦海から救済しなければならない、そのために仏にならなければならない、という菩提心という明確な意思をもち、その成道への歩みを進めるためには、まずは布施波羅蜜を実践しなければならない。

布施には、自らの身体や人格、そしてそれに付帯し享受している物質の贈与である「財施」、仏法を正しく説いたり、世間で必要な技術や特許や情報などの知的財産を贈与する「法施」、権力者や強盗などの人的災害、猛獣などの非人的な災害、自然災害などの脅威から保護し安全を提供する「無畏施」という三つがある。菩提を目指して活動するすべての修行者はこの三つの布施の意思をもたなければならない。

これらの布施は基本的にすべて贈与行為であることが極めて重要である。自己所有を疎んじる感情から他者へと贈与したいと思う意思とその意思表示であるが、他者からの対価との交換をしようとする取引の意思や売買の意思とは全く異なっている。これだけの物品をこの人に与えたので、きっと満足するだろう、私はそれによって布施をした功徳を積んだ、という認識は、あくまでも見返りとしての自己所有の価値を期待しているので、布施の定義を満たすことはない。また特定の誰かに対しての贈与をしたいという意識も、贈与行為の対象を特定化する上で、自己中心的な意識を排除できない場合も多く、この特定の贈与意思もまた布施であるとは言えない。また物件自体が生み出す利息などの果実をも含めて贈与しなくてはならないのであり、たとえば不動産の名義だけを贈与するが、賃料収入は自分のために使いたい、ということもまた布施とはならないのである。

布施を布施波羅蜜とするには、贈与の対象となる者の享受の増減によって生じる効果を考慮するのではなく、自己の所有権を完全に放棄できない、贈与を躊躇する慳貪を克服しているかどうかということによっている。これは同時に布施が、贈与行為が富を分配できているのかどうか、という結果を重んじるのではなく、贈与の意思の前提となっている、所有意思によって引き起こされる過誤を回避することに重きを置いていることを表している。だからこそ、出家者のようにそもそも財施がし辛い者が、財産を蓄えて財施をしてはならない、と律で規制されているのであり、出家者であれ在家者であれ、布施という贈与行為の意思をもつこと、またその意思表示には、即時性と贈与対象の特定不可の原則が適用されているのである。しかるに特定の誰かに最大限の贈与するために貯蓄をし、もっとも経済効果が大きい時にその対象に贈与しようという通常の家族における遺産相続のようなものは、布施とはいうことができないのである。

通常自己の所有物を他者に与える場合には、自己の延長線上にあるものが減少するので、それは苦痛を伴う。たとえば、自分の肉を切り刻んで動物に食べさせるのならば、苦痛が生じるであろう。これは我所執を克服できない限りは仕方がない。この苦痛の変わりに見返りや報酬を求めるのも、普通の感情である。しかし、布施という感情はこれとは全く異なる感情であり、自己の所有を減少させることができ、他者への贈与したいという意思が満たされるために、自分の肉を切り刻んでも痛みはまったくなく、より一歩仏の境地に近づいたという心の底から歓喜が生み出されるという。そして布施波羅蜜を完成させた時点の菩薩は歓喜地に至ったと言われる。

このような歓喜を生じる布施という感情、布施という行為、布施の言動、これらのものは、取引でもないし、単なる贈与行為でもない。布施波羅蜜の不可思議なる功徳が如何に増大するのか、というと、布施波羅蜜を実現したら、一刹那にして百の仏の尊顔を直接拝すことができるようになり、百人の仏たちに加持された知を得て、百の仏国土へと往生可能となり、百のことなった世間界を動かせるようになり、百劫の間、寿命が続き、その前後において妙観察智が可動状態となり、百個の異なった禅定に入ったりでたりできるようになり、百の法門を開き、百の有情を異熟させることができるようになり、自らの肉体を百体に分身させて化生させることが可能となり、そのそれぞれの身体各々の眷属として各百名の菩薩聖者に囲繞されるようになる、と言われている。しかしこれらの功徳のそのすべては自分にとって必要でないものであるので、この功徳をもまた一切衆生に贈与したいという意思を持ち続けている状態、これが布施波羅蜜なのである。

布施波羅蜜は菩薩行の第一歩であるが、菩薩行の第一歩というのは、このようなものであって、私たちが想像を絶するような不可思議な功徳をもつものである。これを理解するためには、布施とは何か、布施波羅蜜とは何か、ということをまずは正確に知ることからはじめたいものである。それを知ることは、それが如何に、美しく清らかで、高潔で希有なる意思であることを実感できるだろう。

餓えた虎に自らの肉体を与える釈尊の菩薩時代
(C) Himalayan Art Resources

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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