2020.09.03
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

夢を追いかけて、橋の上から流れを思う

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第115回
訳・文:野村正次郎

勝子の行は無限にあるけれど

六波羅蜜へと集約されていく

山と渓谷を巡って流れてきた

すべての水は橋の下を通っている

115

一切衆生を対象として、彼らをすべての苦しみから救済したい、という意思たる大悲心が生じた後、そのために自分が積極的に寄与しなければならないという増上意楽が心に小じた後に、一切衆生を利益するために、無上正等覚を得なければならない、という二つの意思が同居している菩提心が起こる。菩提心が起こった後には、その菩提を得るために、福徳資糧と智慧資糧との二つの資糧を積集して、すべての煩悩障を残りなくその種子とともに断じて、すべての所知障をすべて断じて、すべての対象が、手のなかに小さなアマラカの実が置かれているように、すべてのものを明瞭に、如実に知る一切相智である仏位を得るための菩薩行に精進しなければならない、という意識が継続する。これらは大乗道を実践せんとする意識であり、単に菩提心を起こしただけの願心の菩提心とは区別されて「行心」の菩提心と呼ばれる意欲へと変化する。

大乗道を分類すれば、菩薩資糧道・菩薩加行道・菩薩見道・菩薩修道・菩薩無学道との五道へと分類される。大乗の道・大乗の現観・大乗の智慧というこの三つのものは同義語であり、 菩提心を起こしたばかりの信解行地に属する世間の菩薩、すなわち凡夫の菩薩智は菩薩資糧道・菩薩加行道はそれぞれ・大乗順解脱分・大乗順決択分と呼ばれ、後者は煖位、頂位、忍位、世第一法位の四位が有り、そのそれぞれに上品・ 中品・下品の三品ずつで菩薩加行道じは合計九品ある。菩薩見道には、菩薩見道三昧智・菩薩後得智・それ以外のものの三つがあり、更にその後の修道は、十地に分類することができ、初歓喜地・第 二地離垢・第三地発光・第四地焔慧・第五地難勝・第六地現前・第七地遠行・第八地不動・第九地善慧・第十地法雲までの十地は、それぞれ所断を退けている能力と実現可能な功徳の能力によって十地に分類可能である。そしてこれらのすべての大乗の行、菩薩行は六波羅蜜へとまとめることができる、というのが本偈で説かれていることである。

すべての菩薩行は六波羅蜜へと集約できる、といえば、それは波羅蜜乗の話であり、秘密真言乗や無上瑜伽怛特羅の生起次第・究竟次第の二次第は、それとは別の即身成仏への秘密の教えであり、六波羅蜜より勝れた教えがあるのではないか、と考える者もいる。しかしこれは完全に誤解であり、五道へと分類できない二次第など存在しないし、六波羅蜜に含まれない菩薩行などは存在しない。六波羅蜜は布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧と順次完成していくものであり、布施波羅蜜も実現しないうちに智慧波羅蜜が実現することなどあり得ないのであり、智慧波羅蜜も完成しないで、勝義光明を現観して幻身を実現して有学の双入の境地など実現できることなどない。ましてや行怛特羅や作怛特羅の有相瑜伽や無相瑜伽を実現できないで、無上瑜伽怛特羅の実践などできるわけがないし、更にいえば、別解脱戒すら守れないのに、菩薩戒や三昧耶戒を守ることなど決してできない。さらにいえば、十善戒すら実践できないのに、菩提心が起こったり、密教の実践ができるようになったりすることなどあり得ないのである。毎日読誦している般若心経を唱えながら、大乗道を瞬時に明瞭に意識できないのに、芥子粒大の空間に無上瑜伽怛特羅の本尊とその諸尊の曼陀羅のすべてを観想する生起次第を観想することなど決して不可能である。

チベットの仏教には、密教の奥義が説かれており、それに関わることによって、超人的な超能力を得られるのではないか、と期待している人も少なくはない。しかしチベット仏教の説いて奥義は、それらを実現することが如何に難しいのか、ということも同時に説いている。仏教を分かりやすく説明することはできたとしても、仏教を実践しやすくすることは大変難しいのであり、誰でもまずできる仏教の実践というのは、まずは不殺生あたりから完璧に実践できるようにし、自己中心的な現世利益の考えを捨てることからはじまなくてはならない。六波羅蜜に関しては大乗仏典のほぼすべての仏典で説かれていることであり、それを実践することが如何に素晴らしいことなのか、ということは日本では少なくとも飛鳥時代から知られていることである。しかしそれから時代は変化して令和の時代のいまになっても、日本人仏教徒が十善戒や六波羅蜜を実践できるようになっている訳ではない。本偈のように橋の上から川の流れを想像するように、私たちは客観的に冷静になり、自分たちが菩薩行のすべてを集約した六波羅蜜を実践できているかどうかを振り返ってみるとよいだろう。

夢をみることは誰でもできるが、夢を実現するためには必ず努力が必要になる。一切衆生を対象として、彼らをすべての苦しみから救済したい、という希望を叶えるためには、必ず菩薩行を実践しなければならないのである。我々は無始以来この輪廻を彷徨ってきたのである。そう簡単に彼岸へといけないことに決して焦燥感や絶望を抱くべきではないのであり、のんびりと丁寧にひとつひとつやる、ということは非常に大切なことである。

橋を渡るヤク

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