2020.09.02
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

黄金を求めて彷徨う者、黄金の輝きを放つ者

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第114回
訳・文:野村正次郎

菩提心に裏付けされた善業は

尽きることなく菩提の因となる

閻浮樹の実が無熱悩池へ落ち

純金の源と変わっていくように

114

慈悲とは、他の衆生を対象とした楽を享受したらよいと願う意思と他の衆生を対象とした苦から逃れたらよいと願う意思とのの二つの感情を表している。

この二つの感情は、他者の楽を同じように望んでいる意識であるので、善なる意識である。たとえば愛する家族や恋人や友人たちが幸せになったらいいと願う気持ち、彼らが決してつらい思いや悲しい思いをしないようにと願う気持ち、これらは慈悲の感情であり、私たちと彼らとの関係をよりよいものとし、共に幸せを感じ、共に苦しみ、時には共に涙し、共に何かに憤慨することすらあるものである。これらの感情は親しいものについてはより強力に起こるものであり、親しくなく疎遠なものに対してはどうしても弱くしか起こらない。私には関係ない人、私が見知らぬ人、通りすがりの彼らに対しては通常そのような感情をもつことはない。何故ならば、私たちとは無関係の他者であり、その無関係な他者に対して私たちが何か関与して、寄与できることなど少ないからである。

もちろん通りすがりの人たちに対して、私たちは決して無関心で、冷酷に振る舞っているわけではない。彼らには彼らの生き方があり、彼らの人生があるのだろう。だから私たちは彼らに対して何か、その人生に関わって、何かしようと思うことは、ある意味烏滸がましいことである。通り過ぎ去ってゆく、景色のような様々なな人々や生物が不幸になって欲しいとは思わないし、もちろん彼らも幸福になるといいだろう、そう思ってはいるけれども、私たちは彼らと無関係の他者であるからこそ、そこに何らの寄与できることもないのである。

私たちは慈悲や愛というものを信じていないわけではない。しかし慈悲や愛が通じない場合の方が多いのであり、みんな自分勝手に生きているこの世において、慈悲や愛をほんとうに何か意味のある実践とすることなど不可能に近いのである。ただひっそりと、私たちは彼らの幸福を望み、彼らの不幸を望まない。控えめな私たちは、自分の家族や周囲の者たちに対しては、通りすがりの人たちよりは少し強めに愛情や慈悲を注ぐが、とはいえ、彼らは常に裏切る可能性があるので、ほどほどにしておくべきである。その方が得策であり、この世のなかに愛情の裏返しほど厄介なものはないからである。

私たちは通常このように考えている。この考えは比較的全うかもしれない。そして普通の考え方であろう。仏教はあくまでも宗教であり、個人の信仰であるので、理想はあくまでも理想で現実はそうではないことは仕方ない。このように思い自己を正当化することは出来る。しかしながら、これらの考えは仏教で説かれている大慈・大悲といったものからもっとも遠い感情に過ぎない。この考え方は徹頭徹尾自己中心的で、自己を正当化し、仏法を謗り、地獄への特急便に乗っているような破滅的な邪見そのものである。

「彼らが幸せになればよい」「彼らが苦しまなければよい」というこの二つの感情は慈悲の感情ではあるが、仏教が目指しているものは、これとは全く異なるものである。

仏教が目指すものとは「彼らが幸せになるためになんとかしよう」「彼らが苦しまないためになんとかしよう」という他者の感情に対して積極的に関与することなのであり、「すべての衆生を必ず幸せにしよう」「すべての衆生を決して不幸にすまい」という自己の関わりもない他者、一切衆生をすべて平等なものととしてみて、彼らの幸福や不幸に対して積極的に関与しなくてはならないという意思が「大慈」「大悲」と呼ばれるものなのであって、これが私たちを菩薩道へと導く菩提心の因となる慈悲である。

単に自己愛の延長線上にある自分にとって近しい者に対する「彼らが幸せになればよい」「彼らが苦しまなければよい」というこの二つの感情は「有漏の善」である。残念ながらこれは壊苦という苦しみしか生み出さないものに過ぎない。自己愛の延長線上にある他者への愛とはすべて偽善であり、不幸の原因であるということなのである。自分の近しい者に対する愛情には限界がある。「私はもうあの人には愛想が尽きた」この言い方そのものが有漏の善業の性質をよく物語っているのである。

「大慈」「大悲」と呼ばれる「すべての衆生を必ず幸せにしよう」「すべての衆生を決して不幸にすまい」という感情には、このようなことは決して起こらない。衆生は無限であり、その無限の衆生の無限の機会において、私たちが寄与できることもまた無限にある。そしてこの「大慈」「大悲」を究竟した仏の境地にたとえ達したからといえ、それが途切れるわけではない。すべての仏たちは、いつ如何なる時も、過去・現在・未来のいついかなる場所や時間においても、積極的に我々衆生の苦楽に関わっているのであり、彼らは私たちの苦楽に対して責任感を感じているのである。

私たちは自己中心的であり、物質主義的である。しかるに物質の究極的な交換価値のある金銭に執着している。この世は金本位であり、愛や大悲心などは所詮絵空事であると考えている人の方が圧倒的に多いのである。しかしながらそれらはあくまでも現世の娑婆世界の価値観に過ぎないのであって、神々や仏たちの視点とは全くことなるものである。「大慈」「大悲」は金の卵を毎日ひとつずつ生み出してくれる鵞鳥のように、私たちはそれらと共にある限り、決して悲劇に絶望しなくてよい。私たとのこの人身は、如意宝頌よりも価値のあるものであり、そしてそれよりも遥かに価値のある、最高の価値のもの、それが菩提心にほかならない。菩提心を捨てて金儲けに走ることは、金の卵を毎日生み出してくれる鵞鳥を見て、欲をだしてこの鵞鳥を殺してしまい内臓をとりだせば金の卵ひとつずつよりももっと価値があるものを手に入れることができるだろう、という甘い期待に過ぎない。

菩提心の価値というのは、この宇宙空間に入りきらないほどの大きさと数があり、不可思議であると言われている。価値がありすぎるので、普通の人にはわかりづらいのかもしれないが、まずその価値を知ろうとすることからはじめるべきであろう。

一般的に愛や慈悲のない世界は、絶望であり、悲劇である。誰も愛を語らなくなり、誰の愛も誰も通じなくなる。そんな世界に私たちは決して暮らしたくはないだろう。これと同じように、仏教に関わる者にとって菩提心のない世界など、絶望であり、悲劇以外の何ものでもない。心に物欲と絶望を大切に抱いて破滅へと向かうのか、心に菩提心と智慧を抱いて広大無辺なる仏国土を目指すのか、それは個人の自由意志による選択に委ねられている。

「すべての衆生を苦しみから救済しなければならない」というこの物質化できない希有なる意思は、どれだけの価値をもっているのだろうか。その価値を知った上で、黄金を求めて右往左往するのか、それとも心に黄金よりも輝かせてもっと価値あるものを作り出していくのか、どちらがよいかはそんなに難しい選択ではないだろう。

金箔を身につけたり食べたりしても、黄金自体にはなれないが、心に菩提心を抱き黄金の輝きを放つことはできる。

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