2020.09.01
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

水面の月、三縁の大悲心

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第113回
訳・文:野村正次郎

水面にあり 揺れ動く 真実ではない

こんな三つの性にある水面の月のように

衆生に対しては三縁の悲心により

大乗道の生命を根付かせるのである

113

水面の月は、水面という不安定な場所に現れているものであり、それは常に揺れ動き消えてしまう可能性に晒されており、透き通った水に反射してはっきりと大きく見えているその月は、まるで月が天から落ちてきているかのように見えるが、見えている通りにそこに本当の月が存在しているわけではない。水面の月とは、このような三つの性質をもつ。そして衆生もまたこの水面の月と同じように不安定な場にあり、揺れ動き、真実ではないという三つの特徴をもっている。

この三種類に分けて考えている悲心を「三縁の大悲心」といい、「衆生縁の悲心」・「法縁の悲心」・「無縁の悲心」の三つのことを指している。これらの大悲心とは、すべて衆生を対象とし、、彼らを苦しみから救済したいという意思よりなる哀情を表しているが、衆生をどのように観ているのか、ということによって違いがある。

まず「衆生縁の悲心」とは、無常や無我などといった何らの限定もなく、ただ単に衆生を観て、彼らを苦しみから救済したいという意思よりなる哀情のことである。本偈では、水面の月が水面にある不安定な状態で表現しているが、『入中論』では輪廻を水車に喩えており大変有名なものであるので紹介しておこう。

私たち衆生は、いつの昔とは分からないうちから、「私」という強力な自意識によって、「私のもの」という知を起こし、この自己の延長線上にあるものに対して過度に様々な煩悩を起こし業を積み、この不安定な輪廻に縛りつけられている。この状態は我々の意思に反するもので、水車が高いところから下へと循環するように、私たちは有頂天から地獄の底まで簡単に悪趣へと転生する。水車を上昇させるためには力が必要だが、下降させるには、何らの力も不要なように、善趣へと転生する努力は必要であるが、悪趣へ転生する努力は不要である。水車を構成するひとつずつの桶には定位置があるわけではなく、ある時は上にあるときに下にある。同様に、私たちも六道の何処か、そのなかでの上下の居場所など何も決まっておらず、ただひたすら無限に転生を繰り返し、苦しみのみを享受している。

水車の喩えは、(1)束縛されている、(2)自分の意思に反していること、(3)最上位から最下位の境涯を得なければならないこと、(4)下降するのが簡単であるが上昇するのは困難を伴うこと、(5)上下の一定の地位が保たれていないこと(6)何度も繰り返しどこに留まらないこと、という水車のもつ六つの性質を輪廻それ自体や衆生それ自体と共通にもっている。このように、輪廻は極めて不安定で、自分自身の輪廻の苦しみを明瞭に意識し、その同じ苦が母なる一切衆生に起こっていると推察して意識することで、衆生をこの苦から何とか救済しなければならない、という意思を固めていくのである。その作業は、菩薩道へと向かう前の段階から、菩薩第七地までの時間をかけて培われていく。

次に「法縁の悲心」とは、水の表面にある月のように、風によって水面が波打てば一瞬にして消えていくように、刹那滅であり無常であり、常住・単一・自在ではないという人無我で限定づけられた衆生を対象として、それらの衆生を苦しみから救済したいという意思のことを指している。衆生縁の場合には、衆生は何の限定ももたない状態で意識されるが、この「法縁の悲心」の場合には、その意思の対象となっているものは、五蘊などの法に基づいて仮設されている衆生や無常と粗大人無我によって特定された状態の衆生を所縁としている。

ここで「衆生縁の悲」と言わずに「法縁の悲心」というのは何故かといえば、この場合には五蘊などの単なる法に基づいて仮設された特定状態の有情であって、単なる有情の総体を対象としていないからである。

法縁の悲心のなかでも特に真実無・無自性によって特定された状態の有情を対象として、彼らを救済したいという意思が「無縁の悲」と言われるものである。前者は無常を理解した後から培われるものであり、後者は微細な法無我である無自性空性を理解した後に培われるものであり、仏位にある大悲心とは、この「法縁の悲」・「無縁の悲」の両方であって、菩薩の第八地以降は「衆生縁の悲」は存在しない。また大乗定性の随法行者は、先に真実を確定した後に、慈悲心を修習して発心するので、三縁の悲心のすべては菩薩道へと入る以前より存在しているが、大乗定性の随信行者は、先に真実を確定することができないので、先に菩提心を起こした後にこの三縁の悲心を修習することになる。

以上、三縁の悲心について完結に概括したが、詳しくは『入中論』に説かれる。

この三縁の悲心は、どの所縁を対象としているのか、ということの違いはあっても、すべて同じように一切衆生をすべてのあらん限りの苦しみから救済したいと思う責任感をもった意思のであり、明らかに声聞・独覚のもつ悲心とは一線を画すものである、とツォンカパは述べている。

だからこそこれらは「大悲心」と呼ばれ、この大悲心を起こした者たちは、仏たちの子であると呼ばれ、すべての如来は菩薩から生まれ、その菩薩のすべては大悲心から生まれたとチャンドラキールティはいうのであり、チャンドラキールティが『入中論』の冒頭で「大悲心」を礼拝しているのは、大乗仏教で最も大切なものであるからなのである。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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