2020.08.30
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

燃え盛る孤独島から、どう脱出しようとするのか

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第112回
訳・文:野村正次郎

然れど老いた母たる有情たちを

見棄てて自利を求めるべきでない

海の孤島に友達や家族のすべてを

棄て去ることは船長の仕業ではない

112

この三界輪廻は、一切の希望もない純然たる苦の孤独島である。ここでは謂れもない苦難しかやってこないし、その苦難を解決しようとするあらゆる善なる努力によって為されたことも、相対的で一時的な解決という偽物の快楽しか実現することができない。この孤独島には、支配階級となり、快楽や物質の多くを享受できることのできる、神々たちもいるが、お互いに殺しあわなければいけない動物たち、何を食べても何を飲んでもも決して満足することのできない餓鬼たち、この孤独島のなかで死んですぐに地獄の衆生として転生せざるを得なくなった地獄の衆生たち、これらの悪趣と呼ばれる生物たちが圧倒的多数でこの場所に暮らしている。

神々たちはこの孤立した島のなかで何千年以上もの長い年月を生きており、常に楽しくやっており、死んで他の立場になることなど知る由もないのだが、人間は幸い知性をもち、無常を知り、仏の言葉に耳を傾けたことから、この孤独島から脱出することができ、そのための手段を知ることができている。だからこそ火が燃え盛るこの苦しみの島にいても、解脱という別の島を目指して、日々戒・定・慧の三学処を学び、なんとかこの苦しみの連鎖のなかで、解脱という救済の地を求めて暮らすことができる。

このような出離心を得て、解脱を求めて暮らせるようなるとある日ふと思うだろう。自分は幸い解脱の境地を目指して、いつかこの孤独島を脱出できるのは間違いないだろう。もうこんな孤島に暮らすのはうんざりなので、そこへ向かっていくことができるのは、実に幸運なことである。しかしこの孤独な島の住人たちは、本人が悪いと思って悪いことをしているものもいるが、そうではない者も大勢住んでいる。解脱の境地は、煩悩を断じて道を修習することによって実現することであるが、何も知らずにここで暮らしている生物たちは自分が解脱した後は一体どうなるのだろうか。もちろん自分は貴重なる仏法に出逢うことができて、いま解脱を目指して多少なりとも精神的な安定を得ることができているが、この島にはありとあらゆる生物が住んでおり、宿業の仕業によって、悪業を積み続け、この閉塞した孤独島から決して脱出することすらできそうにない。

いまの自分には何も能力がないので、この孤独島の住人には何らの利益をももたらすことができないが、もしも自分が解脱し、この島に解脱の仕方を教えにきてくれた彼の仏たちのような存在になったら、この島に住むすべての住人たちに、解脱という別の美しく平安なる大地があり、そこへの行き方を教えてあげることができるのである。そして彼らに力がなければ、自分がもしも仏位を得ることができるのなら、大きな船を作って、この島のすべての住人を解脱の城市へと連れていくことさえできるのである。

そもそもこの孤独の島に私はいつということもない昔から住んできたのである。今生ではもはや母も死んでしまったが、もし生きていたらどうだろう。自分をこの世に生み出してくれた後、数えきれないほど彼女は愛情をもって私を育ててくれたのである。そんなことを他の一体誰がしてくれただろうか。森のなかに捨てられていたならば、すぐに虎に食われただろう。虎に食われていたらどんなにその牙で噛まれる時に痛みが起こるだろう。それらのすべてから守ってくれたのは、決して仏たちではない。いまの私たちと同じようにこの孤島に苦しみ、死んでゆき、そしていまもこの孤島のどこかで暮らしている生物であり、それはいまはお互い見知らぬ者となっているが、かつては自分と唯一無二の関係をもっていた母にほかならない。

こう考えてみると、この孤独の島に住んでいるあの鳥も、あの獣も、あの人間も、あの神々も、すべての生物は、この私の母であり、親族であり、友達であり、お互いに愛し合い、尊敬し合い、束の間の幸福を共有した仲間なのである。ひょっとして自分はこの大切な人たちをこの孤独島に見棄ててしまい、ひとりだけ抜け駆けして解脱しようとしているのではないだろうか、もしそうなら何とも恥ずかしい。自分だけのためのことだけを思い、自分だけのために活動すること、そんなことは小さな虫から、獣たちや、あの悪名高きものたちだって出来ることである。利己的な生き方をすることは、人間以外の獣たちでもできることなのだ。そんなことで良しとすべきではない。もっと高いところを目指すべきであり、もっと高潔に生きるべきなのである。

このように思い、この閉塞した孤独の島に苦しむ、すべての生き物は自分の母であることを知り、その母の恩を思い出し、その恩に報いようとして、母なるすべての生物を決して差別することなく平等に愛情を注ぎ、彼らがこの苦しみの孤島から何としても逃れるために、自分が少しでもできることはないか、いまは単なる苦しみが鎮まった寂静涅槃と呼ばれる解脱の境地を目指しているが、目標地点をもっと高いところに設定し、無住処涅槃と呼ばれる常に衆生を救済している仏の境地、すべての生きとし生けるものの希望をすべて叶えることができ、この孤独島に大きな救助船に乗って戻ってくることができる境地を目指そう、一切衆生のために仏位を目指そう、という決意をするのである。これが菩提心と呼ばれるものであり、単に自分のために解脱を求めて暮らす心境から発想を大いに転換して、一切相智である仏の境地を目指しはじめること、これが大乗へと入る、ということである。

大乗に入ること、菩薩となること、これらは同時であり、それは私たちの心に止めている決意に大きな変化を自ら起こすということである。自利よりも利他を重んじる菩提心をもつこと、これが大乗の者たる由縁であり、それが大乗仏教徒ということになる。

大乗の場合には、単に自らが解脱するだけでは、この孤独島の住人を全員彼岸へと連れていくことはできないが故に、その志も巨大なものであり、実践するべき修行の項目も小乗の者に比べると遥かに多くの無限の条項を修行しなくてはならない。何故ならば衆生へ無辺無限に存在しており、衆生の心も無辺無限にあり、その心に適った仏法という救済をひとりひとりの衆生に示せるためには、無辺無限の功徳を積集し、無辺無限の功徳を自ら具足していなければならないからである。そして大乗の者は決して他の衆生を見捨てることはない。このような趣旨のことは、ナーガールジュナもまた『親友への書簡』のなかで、

親しかった者が輪廻の海へと堕ちて流されて見える。しかし、そのように生死流転している者がいまは見知らぬ者であるからといって、見捨ててしまい、もし一人だけ脱出しようとするのなら、これよりも恥知らずなことがどうしてあるだろう。

と説かれており、本偈もまた、菩提心を起こすために一切衆生のすべてが自分の老いた母であることを知り、決して見棄ててはいけない、という気持ちと起こし、それを見棄ててしまうことは、すくなくとも私たちのスタイルには反することであると説いてる。

大海原のなかの苦しみに満ち溢れた孤独の島から脱出したいという思いは、小乗も大乗も共通したものである。しかし孤独の島にみんなを残して自分だけが救助されたらいいと思うのか、この孤独の島のみんなが救助されるためにどうあったらいいのか、と思うのかによって大乗と小乗の決定的な違いがでてくる。もちろんひとりだけ逃れたいと思って、解脱を目指すのは善である。しかし諸仏はそのような小さな善ではなく、もっと大いなる善を奨励しているのである。

燃え盛る孤島にいて私たちは、親・兄弟・友達を残し自分だけ助かるか、みなを助けようとするかの選択に迫られている。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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