2020.08.28
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

自分が一生やると決めたことを、生命を賭けてでもやり遂げるということ

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第111回
訳・文:野村正次郎

殊には自ら約束した戒律を

違反の匂いも染まらぬように

海は亡骸と親しまないように

常に監視して護持するのである

111

すべてのものを正しく分別し、無我の真実を理解するための慧学処、その智慧を得るために精神の明度を保ち集中状態を継続できる定学処、この二学処を起こすためには、まずは身口意の門を自ら律する戒学処が必要となる。この三学処は、輪廻を厭離して解脱を達成するために実践すべきものであり、出離心を起こして、三学処を学ぶことが中士共道の中心となる。

戒学処には別解脱戒・菩薩戒・三昧耶戒の三つがあり、別解脱戒には、在家・出家の区別があり、在家には戒律を授からないでただ注意して実践するべき十善戒と律脈を師から授かり、かつて釈尊とその弟子たちがその戒律を清浄に護持して暮らしていたように、自らもその通りに実践する、と諸仏と戒師たちの現前で誓いをたてたものとがある。これらのうちの自らそれを実践すると公然に誓約をしたものを特にひとつずつ違反しないように、丁寧に守ってゆかなれけばならない。そのためには常に戒律の条項を失念することなく記憶で呼び起こすことができる状態にあり、自らの精神状態がその戒律の精神とは異なる状態になって、戒律に違反しないようにすることが必要である。本偈は、この自らが誓約した戒律の条項を何としても守りぬかなければならないことを説いている。それは清浄な水を好む龍たちが住んでいる海は、生物の亡骸が流れてきても、決して混ざりあって汚染されてしまうことがなく、生物の死体を自然に分解して、清潔な海水であることを保っている様子に例えている。

本偈は前々偈で輪廻から解脱したいという出離心を説いて、全偈で三学処の学習を説いたものに補完されてあるものであるが、ここでは三学処のなかでも自分がやろうと諸仏と約束した戒律に違反しないように、自戒しなければならないことを説いている。解脱を目指す限りにおいて、すべての土台となるものが戒律なのであり、その戒律のなかでも、自分がこれを守ります、と諸仏の面前で宣誓し、諸仏諸衆と約束した戒律を守るということは、当然のことではあるが、実は一生これこれのことをしない、と誓ったことを翻さないでそのままの生涯を送ることは、極めて難しいことである。

たとえば在家の五戒は、不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒の五つしかないが、この五戒をきちんと守って一生を過ごせば、必ず来世に天人の境涯を得られることは誰でもしっているだろう。しかしこの戒律を授かったから、その後一生それを厳格に守り続けることは、実に容易なことではないのである。ましてや出家の戒律になれば、もっと項目は多くなり、戒律を破らせようとする誘惑の方が圧倒的に多く、戒律を守って一生を暮らすことができるような周囲の環境は極めて希少なのである。

戒律に違反するか遵守するか、ということはあくまでも個人的な生き方のスタイルの問題であって、社会的な問題ではない。しかしながら戒律を守って修行するためには、周囲の環境の支援がなければ現実的には非常に困難であることも確かである。

たとえばチベットでは共産党勢力が率いる人民解放軍によって、デプン大僧院の本堂は完全に占領され、チベット人たちを抑圧し、拷問するための、軍事基地として使われた。デプン僧院の僧侶たちは、この抑圧と闘うだけではなく、自らの怒りや不条理を憎む精神との戦いを強いられた。少しでも反抗的なことをいうと長く投獄され、独房のなかで飢えと寒さに苦しみ、拳銃はこめかみに当てられ、時にはライフルを持たされてそのライフルで自分の恩師の頭を殴打しろと強いられた。僧侶たちは尼僧を強姦するよう迫られたり、命令に従わなければありとあらゆる拷問器具で拷問された。

本来は仏典を暗記し、仏たちの言葉とともに一生を暮らす予定であったが、毛沢東語録を常に携帯させられ、それを暗唱させられ、暗闇のなかで何十年も監禁された僧侶たちは、かつて厳しい笑顔で教えてもらった仏典のことばは、もはや随分と遠い言葉となってしまったことを体験した。

本当の敵は目の前の人間ではない、目の前の拷問器具ではない、私たちを苦ているのは、彼らではなく煩悩と業という集諦にほかならない、このことの意味することをそこで彼らは自ら問いかけざるを得ないこととなった。仏典では「戒律とは命をかけても守るもの」と説かれている。自分たちの生命はもはや消える寸前の僅かなものであり、自分たちの心はもはや空を飛ぶカラスたちよりも不自由で暗闇に覆われているが、この生命をかけてまもるべき、自分たちが誓った戒律とは何か、そのことを問いながら、その答えは見出せないまま生命は尽きていった。彼らの心にはただひとつ、窓から指してくる微かな日の光のように、観音菩薩の化身であるダライ・ラマ法王はインドに亡命され、無事であり、法王とともにインドに逃れた自分たちの仲間は、きっと戒律を守って、仏法を途絶えささないでいてくれるだろう。仏法が途絶えない限り、きっと再びチベットは仏法が栄えるはずである。何故ならばどんな小さな業であり、それは増殖し大きな結果を生み出すからである。そう師匠たちは教えてくれたし、この教えは聖地インドから何世紀にも渡って伝わってきたものなので嘘ではないはずだ。だから決してこの緑色と赤色の服を着た、人間の姿をした悪魔のような形相の者たちも、私たちに試練をあたえるために菩薩たちが化身を示現しているのに過ぎない。

彼らを憎んでも仕方ないし、反撃や仕返しをしてはいけない、それは戒律の精神に反するからである。そもそも戒律とは悪いことをしないように、心を自ら制御することである、自分自身でこの心を制御できなくなったら、戒定慧の上のものもないし、ましてや六波羅蜜や四摂事などの菩薩業など実践できやしない。この戒律を守れば、必ずや人天に生まれ変わることができるのは、『入中論』にも説かれている。

著者であるチャンドラキールティはいまは虹の身体を実現して、あちらこちらに出現しているらしい。自分のような学のないものがチャンドラキールティの言葉を否定するなどおこがましい、すくなくともこの自分の誓った戒律だけは、いまのこの状況にも関わらず守らなくてはならない。ここで死んだとしても、またチベットに必ず生まれ変わり、今回できなかった修行の続きをすればいいんだ。だからこのまま戒律を守ったまま、戒学処しか実践できない、下らない僧侶であった今回の人生はあきらめよう。

チベットではこの数十年間、このような思いをしながら、そのまま死んだ者、死ななくても廃人のようになり、ゴミのように捨てられた者が大勢いる。彼らの言葉や証言が、自分が一度一生行うと誓ったことを生命をかけてもやり遂げるということがどんなことなのかを教えてくれる。そしてこのことが、戒律というものの本質を語っている。

日本の著名な大学の著名なインド哲学や仏教研究者のなかにも、戒律を守ることは小乗仏教の伝統であり、大乗仏教は在家主義である、といったり、そもそも釈尊の説いた仏教が流行しないのは、戒律を守らせて出家主義をとるからである、という乱暴な発言をする者もいる。彼らのなかには、出家主義は宗教に対する信仰が篤すぎて、経済発展を疎外するという学説を唱えたりする者もいる。彼らの仏教研究や教育活動は、日本国の研究助成金によって賄われていることも多いが、その科学研究費助成金ですら、不正を働いて私服を肥やし、謗法の自分の主張を書いた書物を出版し、正式に出版社から著者割で購入することすらもけちって自ら違法コピーを作って、自慢気にいろいろな学生に配って、自分の学説を参照しなさいと強要したりする者もいる。彼らは戒律など所詮絵空事であるとか、昔のインドの話でいまの世界には役に立たないなどという。なかには戒律というものを授かることを、車に燃料を入れるようにセルフ式を提唱している者すら最近はいるようである。

しかしこうした似非研究者がインドやチベットの社会を分析したり、大した語学力もないのに、サンスクリット語やチベット語で書かれた仏典の教義を、自分たちの貧弱な語学力と狭隘な了簡で権威を振りかざし、中学の英語のように採点し尤もらしい綺語をならべたとしても、残念ながら釈尊から脈々と続き、時には生命を賭けてまで守られきた戒律については何ひとつ語れない。何故ならば、戒律とはあくまでも個人的な営為であり、社会制度ではないし、個人的な様々な煩悩の感情との対話のなかで守られるべき尊い営みであるからである。伝統的な考え方では、釈尊をはじめ無限の如来たちは、いまもなお永遠に説法を続けており、私たちはそれを聞くことができないが、私たちに慈悲の眼を向けていない如来などひとりもいない。だからこそ私たちは自分たちの心の葛藤とそれを具体的な業へと移すときに、諸仏の視線を意識していなければならないのである。

戒律が遵守され仏法が栄えている時は、その土地は薫り高く、美しく、すべての人たちの心は平安で、希望に満ち溢れている。昨日からは夏安居の最終週に入り、インドのゲルク派の僧院では例年のように三大僧院の僧侶たちが一か所に集まってはいないが、五大聖典の最終試験であるゲルク派共通試験がいま行われている。彼らが祖国を追われ、いまインドで何故そんなに多くの経典を暗記し、インドの聖典を分析し、戒律を守って生活しているのか、そこに戒律というものの本質を読み取ることができるだろう。

ゲルク派共通試験の筆記試験(昨年度の写真)

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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